僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 説明を聞くかぎり、事の成り行きはこうだった。
 すいさんは会社での報告を終えたあと、念のため、僕の家のほうへ向かう電車に乗ったらしい。僕に何度かメッセージを送っても返事がない。代わりに、葵から切羽詰まった連絡が入った。
 僕が「穴という穴から血を流して倒れている」、「VR上から姿が消えた、たぶん死んだ」、という内容だった。
 すいさんはそのまま最寄り駅で降り、走って僕の家まで来た。玄関の鍵がかかっていなかったので、ためらう暇もなく中へ入る。僕の部屋で、泣きながら僕を抱きしめている彩羽を見つけた。すぐタクシーを呼び、すいさんが僕を背負って、彩羽と一緒に近くの病院の救急外来へ――そこで処置を受けた、という。

「はあ……」

 ベッドの上で背を起こし、短く息を吐く。
 真っ先に頭をよぎったのは、家に入ったあと、ちゃんと鍵をかけたかどうか。

 ――思い出せない。

 しかし、そんなことは今はどうでもよかった。
 ゆっくり顔を上げて、隣にいるすいさんを見る。まだ時々すすり上げていて、鼻先まで真っ赤になっている。
 まともに視線を合わせられず、僕は俯いて自分の右手だけを見つめた。人差し指には黒ずんだかさぶたがあちこちにできている。それを親指でそっとなぞりながら、口を開く。

「……すみません」

 するとすいさんは、深く長い息を吐き出す。

「いいの。生きてるんだから……」

 短い沈黙のあと、すいさんが続ける。

「いいんだけど……次からは、ひとりであんな無茶しないで」
「……はい」
「頼りにならないかもしれないけど……ボクもいるし、妹さんもいる。ちゃんと頼って」

 気まずさを払う話題を探し、顔を上げて言う。

「それより……よく、うちのあたりでタクシー捕まえられましたね。普通、待ち時間一時間は超えるはずなのに」

 すいさんは目の下を指でこすり、口を半分開けたまま返す。

「それ、今重要? それに地域配車の制度、導入されて何年目よ」
「……そんなの、あったんでしたっけ。はは」

 乾いた笑いを作って、もみあげを軽く掻く。
 そのとき、救急外来の自動ドアの向こうから彩羽が入ってきて、こちらへ歩いてくる。両手に小さな紙コップをひとつずつ。
 彩羽は僕の隣の椅子に腰を下ろし、片方を無言で差し出す。

「……ありがとう」

 受け取ると、中身は熱いお湯が三分の二ほど。
 僕は今度こそ彩羽の目をまっすぐ見て、丁寧に言った。

「彩羽……ごめん……」

 彼女は僕を一度だけ鋭く睨んだ。
 それきり何も言わず、もうひとつの紙コップを向かいのすいさんに渡す。

「ひ……すいさんも、これ」
「うん。ありがとう……」

 初対面のはずなのに、同じ空間に二人がいることに違和感がない。
 そんなことより、まず確かめるべきものがあった。命を懸けて持ち帰った、お客様のワールドデータ。

「彩羽、僕の端末、外してくれたんだよな? どこに――」

 言いかけたところで、白衣の人影が僕の前にすっと現れた。目にかかるほど長い茶色の前髪。小さな丸眼鏡。声は穏やかで、無駄がない。

「思ったより回復が早いですね。よかったです」

 その顔を見た瞬間、全身がひやりと固まっていく。天井の照明が眼鏡に反射して、どんな目で僕を見ているのかはわからない。
 僕は息をひとつ整え、無表情のままそれを見上げる。口を開こうとした、その瞬間――すいさんが先に答える。

「先生、本当にありがとうございます……前もそうでしたけど、本当に……おかげさまで……」
「いえ。私は、すべきことをしたまでです。それより、かなり危険な状態でしたが、搬送が早かったおかげで助かりました。軽度の脳浮腫(のうふしゅ)だけで済んだのは幸いです。外傷のような物理的損傷ではなかったため、腫れもすぐに引いています」

 僕が黙ったままでいると、それはもう一度、僕をちらりと見てから続ける。

「退院は……念のため一日ほどの入院を推奨しますが、すぐ退院していただいても構いません」
「あ、じゃあ入院を――」

 すいさんの言葉を、僕は遮る。

「退院します。問題ありません」

 そう言いながら、僕はベッドの上で体を起こしはじめる。同時に、耳の奥でまた甲高い耳鳴りが鳴って、視界が少し揺れる。

「せめて一日は休んだほうがいいんじゃない?」

 すいさんが僕の手を掴んで制した。僕は反対の手でその指をそっとほどくように押し返す。

「大丈夫です。先生も問題ないって言ってましたし……それに、僕にはやらなきゃいけないことがあるんです。せっかくここまで来たんですから」

 すいさんは行き場を失った手を、自分のコートの袖へ引っ込めるようにして、きゅっと握りしめる。それから、僕に遅れまいと立ち上がる。彩羽も、どこか歯切れ悪く、同じように腰を上げる。
 その様子を見届けた白衣のそれが、事務的な声を落とす。

「ご本人の意思が一番大切です。では、このまま窓口で退院手続きをお願いします。もし何かあれば、いつでも救急外来へ」

 そうして僕らは救急外来を出て、会計を済ませ、外へ向かって歩き出した。
 僕の足取りには迷いがない。意識しなくても体が道を覚えていた。
 視界に入るのは――穴だらけになって白い中身を露わにしている、古びた待合のベンチ。静まり返った空間に、鼻をつんと刺す古い消毒液の匂い。
 正面玄関に近づくと、右手に立つホログラムの電光掲示板が目に入った。

 〈第1世代AI医師導入・認証病院〉

 文字はところどころ欠け、崩れ、ノイズを噛みながらも、光だけは失わず、淡々と流れている。
 掲示板の前を抜けて外へ出ると、夜の向こうから赤みが差しはじめていた。日が昇りかけている。
 空からは真っ白な雪が、ふわふわと揺れながら落ちてくる。

「今回はタクシー乗るんだからね。変に意地張らないで」

 すいさんがそう言いながら、タクシーを探すように視線をあちこちに走らせる。
 僕は小さく頷き、習慣のようにメッセージを確認しようと目を動かした。しかし、何も出ない。
 そのとき、隣で彩羽が僕に拳を差し出す。

「はい。持って」

 彼女はゆっくり拳を開く。そこには、僕のホログラム端末のプロセッサと、指の第一関節くらいの小さなチップ――SSD(ストレージ)が入っている。

 それを受け取る。

「僕がこんなことしても、彩羽は……平気なの?」

 白い息が、呼吸のたびにふわりと立ちのぼる。彼女は正面――朝焼けのほうを見つめたまま、やがて静かに言う。

「それ、兄ちゃんがやりたいんでしょ。あんな顔してるのに、イロハがやめろって言えるわけないじゃん」
「……顔?」

 僕はSSDをポケットの奥へ押し込み、プロセッサを端末へはめ込みながら答える。
 彩羽がこちらを向く。朝の光を受けた丸い瞳の奥で、橙色が小さく揺れる。

「だからって、また倒れたら許さないから」
「うん……大丈夫。心配しないで」

 僕は手を伸ばして、彼女の髪に積もった雪を払う。
 それから、僕はもう一度、言う。

「……ありがとう、彩羽」

***

 彩羽は「明日、一限あるから」と言い残し、僕らを置いて先に走って帰っていった。
 病院の正門の向こう――雪の白さの中から、ようやく小さな黒いタクシーの輪郭が浮かび上がってくる。
 すいさんはマフラーを鼻と耳まで引き上げ、顔の半分を埋めたまま言う。

「うぅ、寒っ……通勤時間だからか、遅すぎだろ」
「だから中で待とうって言ったのに……」
「でも、ずっとあと五分で到着って出てるんだよ。それより、葵ちゃんには連絡した?」
「あ、そうだ」

 僕はすぐに視線を落とし、葵に『ちゃんと生きてる。心配するな』という短い安否のメッセージを打ち始めた。
 だが同時に、不意に頭の中でひとつの穴が開く。
 ワールドは抜き取った。生命兆候はすいさんが頼める相手がいると言っていた。病院への潜り込みは、お客様が何とかすると言っていた。

 ――じゃあ、肝心のVRギアは?

 フルダイブギアなら、時間をかければ僕でも作れる。違法だろうが作ればいい、そんな口ぶりで答えた記憶はある。でも、複数台を揃えるとなれば話は別だ。数台作るには一ヶ月以上はかかる。もし、その前に奥様の容体が悪化したら――
 そう考えた瞬間、すいさんが僕の右手を掴んで、ぐいっと引く。

「それ、やめて」
「なにがですか」

 気づけば僕は無意識に右手を口元へ持っていっていた。最悪のときにだけ出る、逃げ道のない癖。

「……いや。ワールドは抜き取れたんですけど、肝心のギアがなくて」
「はぁ……だから周りに頼れって言ってんの。ギアなら、ボクがもう四台、確保してある。今日の午前中にお客様のところ行けば受け取れるよ」
「え? 何それ。闇市場とか、そういう……?」

 すいさんは僕の脇腹を小突く。

「このお姉さんにはね、いろいろ方法があるの。ほら、タクシー来た。早く乗るよ」

 ちょうど目の前にタクシーが止まり、ドアが開く。すいさんは先に乗り込んだ。僕は靴にこびりついた雪を軽く叩き落としてから、乗り込む前にもう一度だけ病院を見上げる。
 正門の横、片隅。今日僕を治療したそれが、分厚く着込んだ二人の子どもと一緒に雪だるまを作っている。
 男の子は拾った小枝で雪だるまの顔に丸を描きながら、くすくす笑う。

「へへ、これ先生の雪だるま! ほら、メガネもかけてる!」

 すると女の子がその小枝を取り上げる。

「リアも! リアもやる!」
「やめろよ、リア! ぼくが描くんだ!」

 二人がわちゃわちゃ言い合うと、それは慌てず、慎重に二人の腰へ腕を回し、ひょいと持ち上げる。

「こらこら、けんかはいけません。レオくんも、リアちゃんも、そろそろ中に入りましょう。冷えは万病のもとですよ?」

 そして病院へ入る直前、それは一瞬だけ立ち止まり、こちらを見る。
 舞い落ちる雪。白い雪原。白い医師のガウン。あたりが白一色だからこそ、眼鏡の奥の顔が妙にはっきり見えた。
 口は一直線のままなのに、目尻だけが少し下がっている。
 本当なら、今すぐにでも叩き壊したいはずのそれに対して、僕は同じように、静かに頭を下げ返していた。
 両手を強く握りしめ、顔を上げたときには、もう彼は病院の中へ消えていた。

「おい、何してんの。早く乗って。寒くて死ぬ」
「……ちょっと考えごとがあって。それよりすいさん、なんで僕の家の場所知ってるんですか? 社員情報、勝手に見ていいんです? 上司でもさすがに……」
「緊急事態だから、緊急! ほら、背に腹は代えられないっていうか!」

 すいさんは顔を真っ赤にして、両手で正体のよくわからないジェスチャーをしはじめる。
 そうして僕ら二人はAIタクシーに乗り込み、目的地――二子玉川病院へ向かい始めた。
 気づけばすいさんが僕の肩にそっと頭を預け、浅い呼吸だけを繰り返していた。彼女の首がつらくならないように、僕は肩を少し落として窓の外を見る。
 窓の外の世界は、ただ白い。延々と続く白さ。高いビルも見当たらない。それなのに、なぜだろうか。僕の目には、透明な壁が空へ突き上がり、世界を囲っているように映った。
 その風景は、窓に薄く霜が張りはじめたせいで、みるみる霞んでいく。やがて霜は隙間なく広がり、外の景色は消えて、残ったのは真っ白な壁だけ。

 ――もう、外は見えない。

 同時に、風ひとつ入ってこない。車内を巡るのは、ヒーターが吐く温い風だけで、指先からじわじわと体をほどいていく。
 守られているのか、閉じ込められているのか、分からなくなる。
 僕は指先をドアにかけ、窓を下ろすボタンを押してみる。もちろん、動かない。
 すると、機械めいた女声が流れる。

『運転中は、お客様の安全のため窓を開けられません。ご了承ください』

 僕は代わりに指で、窓ガラスに小さな円を描いてみた。その部分だけ霜が薄れて、透明な穴がひとつ空く。穴の向こうから、もう一度だけ外の世界が覗く。
 だが、ほどなくして霜がまた寄ってきて、穴は白く塞がれていく。
 冷たく、素早く。
 僕は何度も、何度も円を描いた。
 そのたびに覗いては閉ざされる白の向こうへ、ただ身を預けるようにして――タクシーの揺れに体を任せた。