僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 闇の底に沈んで、どれくらい経ったのだろう。時間の感覚も、身体の感覚も抜け落ちて、何ひとつ掴めない。ただ、無だけが続いていた。

(僕、死んだのかな……)

 そんな考えが浮かびかけた、そのとき。闇の奥から、今にも切れそうな細い声が、微かに震えながら届きはじめた。

「さ……」

 次第に輪郭を持ち、やがて――

「さく……咲くん! 大丈夫?」

 目の前に、紺色のセーラー服があった。首元の赤いリボンが、風に揺れている。
 顔を上げると、陽に反射して淡い茶色に見える丸い瞳。ちょこんとした小さな鼻と口。唇はぷっくりと腫れていて、左目の下には、濃い青の染みが落ちている。
 黒いロングボブは日差しを含んで、ところどころ薄い橙に透けて見える。髪は耳の上の、小さな白い子犬のヘアピンに留められた束を起点に、腰のあたりまで流れている。
 視線を落とす。両手の中には文庫本。ところどころ汚れて、ページの端がささくれ、少し裂けてもいる。
 暖かいのに暑くはない、さらりとした風が頬を撫でて通り過ぎる。その向こうで、満開の桜が舞っていた。
 甘くて、どこか香ばしい、薄い桜の匂い。目の前の彼女がもう一歩近づいた瞬間、それが少し濃くなる。

「咲くん……いつまでぼーっとしてるの。今日、ここで会おうって言ったの、あなたでしょ?」
「あ……翡翠(ひすい)姉さん! ごめん、ちょっと……小説読んでて」

 状況を把握するより先に、口が勝手に動いていた。
 そうだ。僕は今日、翡翠姉さんと約束をして、ここに来た。

「また、あの終末の世界のやつ? 飽きないね……」
「終末じゃなくて終焉! 小説はね、読んで、また読んで、文字をひとつずつ味わうの。千回は読むんだから」

 本の表紙を指でとんと叩き、題名を「ほら」と見せつけると、姉さんは小さく笑って、片手を上げ、僕の頭の上にそっと置き――すぐ離した。指先に、桜の花びらが一枚くっついている。

「口だけは立派。鼻水でも拭いて。まだ寒いんだから、長袖着ろって言ったでしょ」

 その言葉で、露出していた腕に、すうっと冷えが這い上がる。

「男にそんなのいらない。僕、強いし」
「はいはい。で、ほら。これ。持ってきてって言ったやつ」

 彼女は黒い学生鞄から、銀色の小さな四角いチップを取り出した。僕は慌てて文を脇に挟んでから、そのチップを慎重に受け取る。

「おお! ……って、え、なにこれ。ハズレじゃん」
「どういうこと? これ、違うの……?」

 姉さんの口角が下がる。僕は唇を突き出し、むっつり言う。

「ほら、これ。型番、13500番台。性能低すぎてフルダイブには使えない。期待してたのに……」
「そっか。じゃあ私、明日も掃除当番だから、ゴミ捨て場でもう一回探してみるよ」
「……うん」

 肩を落として、片足で道端の小石を、こつ、こつと蹴る。それから、ぱっと顔を上げ、笑って見せる。

「大丈夫、姉さん。僕が絶対フルダイブ用のギア作って、姉さんにも使わせてあげる」
「そうだよね。咲くんは大きくなったらギア開発者になるんだよね。じゃあそのときは、姉さん頭よくないから、代わりに咲くんのギアを売ってあげようかな」

 彼女はふっと笑って、カバンのファスナーを閉めはじめる。笑っているのに、なぜだか肩がすとんと落ちて、僕の肩よりも小さく見えた。
 でも、笑っているならそれでいい。僕はただ、にこにこしながら頷く。

「ほんと?」
「ほんとほんと」
「よし。じゃあ僕、急いでギア作らなきゃ。またね、姉さん!」

 そう言って、僕は背を向けた。
 足取りは勝手に弾み、サイドステップまで踏んで、家へ。本は脇に挟んだまま、両手をもぞもぞ動かし、工具を回す真似までしてみせる。

***

 ローテーブルの脇で、僕は腹ばいになっていた。両手に工具を握り、ギアの部品をあれこれいじっている。
 配線の組み合わせは間違っていないか。バージョンは合っているか。目の横に広げた資料と部品――そのあいだを視線だけが忙しなく往復する。
 そのとき、後頭部のあたりから、低いのにやけに温かい男の声が落ちてくる。

「咲、飯できたぞ。それ、もう片付けよう」
「うん。ちょっと待って」

 返事をしながらも、視線は前から外れない。すると、白くて柔らかい小さな手が僕の手元に伸びてきて、工具ごとすっと奪う。

「……彩羽、なにやってんの、まじで」
「イロハも触りたい! イロハもやる!」

 顔を上げると、膝までの黄色いスカートに、ゆるキャラがでかでかと描かれた白い長袖。短いツインテールの彩羽が、両手に工具を握っていた。

「お前に分かるわけ――」
「咲、片づけて。もう二回言った」

 父の声が、短く刺す。

「……はい」

 僕は無理やり彩羽の手から工具を取り返し、ポケットへねじ込む。作業途中だった部品は、リビングの隅の箱へ、乱暴にならない程度に押し込んだ。
 片づけを終えて振り向くと、ローテーブルの上には湯気を立てる白いご飯。それから味噌汁。少しだけ磯(いそ)の香りがするのに、なぜか清潔で、落ち着く。真ん中には、油がつやつやと光る唐揚げが山になっていた。
 その手前に父が座り、隣には頬をぱんぱんに膨らませて僕を見上げる彩羽がいる。僕も席に着こうとした、その瞬間。父が、思い出したように言った。

「そうだ。翡翠ちゃん呼べって言っただろ。呼んだか?」
「あ、うん。メッセージ送ったけど……返事ない。今日は家で食べてるんじゃない?」

 片目でメッセンジャーを開き、姉さんとの履歴を辿る。

『三十分後、晩ごはん。来て』

 ――既読がついていない。

 父が、もう一度、僕を見る。笑っていない顔で。

「咲。行って、翡翠ちゃん連れてきて。待ってるから」
「……はい」

 座りかけた腰を戻し、立ち上がる。唇が鼻の下に触れそうなくらい、顔をしかめたまま。

「なんで、いつも僕なんだよ。彩羽もいるのに……」

 マンションの廊下へ出て、靴を壁にとん、とん、と当てて履き直しながら、ぼそりと呟いた。そして駆け出した。赤茶けた錆の浮いた階段を、がたがた鳴らしながら上へ、上へ。 四階、一番上まで。
 姉の家の前。扉の脇には〈前田〉と書かれた名札が、どこか投げやりに貼りついている。
 僕は片足を床に突き、つま先でくるくると円を描きながら、唾を飲み込む。震える手でノックしようとした、その瞬間。
 背後の視界で、夕暮れの残光を裂くように、青と赤の光が秒ごとに交互に瞬きはじめた。遅れて、耳にあの音が入る。

 ウゥゥゥ――ウゥゥゥ――

 夜、窓の向こうでたまに聞く空気を震わせる不協和音。なのに今日は違う。音は、近づいてくる。どんどん輪郭を増して、足元から鳴っている。
 恐る恐る廊下の手すりに両手を置き、身を乗り出して下を覗く。
 そこに見えたのは――雑草しかないはずのマンションの中庭に咲く、鮮やかな赤い薔薇。瞬きをするたび、その薔薇がじわり、じわりと周りへ増えていく。そして、その薔薇の上に、窮屈そうに横たわる紺色のセーラー服の女が一人。
 髪の片側の小さなヘアピンが、夕陽を跳ね返し、鋭く目を刺した。反射的に僕は片手で目を覆う。
 顔は、よく見えなかった。それでも心臓が、いきなり暴れ出す。
 僕は手すりに背中を預け、そのままずるりと座り込んだ。右の人差し指を口に突っ込み、血の味がするほど強く噛む。
 次の瞬間、僕は立ち上がった。足はふらふらで、階段を転がるように降りる。何度も踏み外し、転び、膝と肘を擦った。それでも身体は、僕の意思と関係なく下へ、下へと運ばれていく。
 中庭に辿り着いたとき、最初に目に入ったのは、背中に手を組んで立つ鉄の巨人だった。青い警察服。きっちりした黒いズボン。
 その巨人の向こう。あり得ない方向に、脚が折れている。長い髪が垂れ、何本かは口の中に入り――口元では、黒ずんだ赤い泡が、ぶくり、と持ち上がっては引いていた。
 翡翠姉さんだ。

「ね、姉さん――!」

 声が喉を裂く。足が勝手に前へ出る。姉さんのところへ――
 しかし、青い警察服のそれが、無言で僕の前に立ちはだかる。

「おじさん! 姉さん、姉さんが……! 救急車、早く――!」
「現在、救急搬送の手配中です。到着まで、その場で待機してください」
「何言ってんだよ! あんなに……あんなに苦しそうなのに、今すぐ、何かしてやってよ!」

 僕はそれの腰のあたりを両手で掴み、力任せに引きずろうとした。びくともしない。
 そして、もう一度。無機質な声が、淡々と僕を刺す。

「当機は警察用ヒューマノイドのため、医療行為の権限を有しません。また、登録された近親者以外の者が、本人の許可なく負傷者に接触することは認められていません」

 言い終わるより早く、白い手袋越しでも分かる冷たく硬い手が、僕の脇の下へ差し込まれる。身体があっさり宙に浮く。視界が一気に跳ね上がり、足裏から床の感触が消える。

「家族だよ! 姉さんは……僕の姉さんだよ!」

 暴れて、腕を押し返そうとしても、無駄だ。それは表情ひとつ変えず、真っ黒な目で僕の右の耳の裏――端末の位置を見る。そして、告げる。

「照合結果、あなたは負傷者の近親者ではありません。よって、距離を取って待機してください」
「っ、ふざけんな……!」

 ポケットから工具を抜く。薄い十字ドライバー。工具を強く握りしめ、ためらいなくそれの右耳の裏――端末のある場所へ、全力で突き立てる。
 バキッ、と乾いた破損音が耳の裏で弾けた直後、僕を掴んでいた大きな手の力が、ふっと抜けた。身体が床へ落ちる。

「姉さん!!」

 僕は姉さんの横へ駆け寄り、膝をついてしゃがみ込む。
 焦点が合っていない。肩だけが、不規則に小さく揺れている。

「どうしよう……どうすればいいんだ……」

 泣きながら、人差し指を噛む。噛んで、噛んで、止まらない。そのとき、姉さんの口から、かすかな三文字がこぼれる。

「ね……むい……」

 その言葉を聞いた瞬間、頭の中で終焉の世界シリーズの、ある一節がひゅっと蘇る。

『今ここで寝ちゃだめだ! 絶対に、絶対に耐えろ!』

 出血で死にかけた仲間の手を握り、主人公が叫ぶ場面だ。
 僕は左手で姉さんの右手を、ぎゅっと握りしめる。

「姉さん! 寝ちゃだめだ! 絶対に! お願いだから……!」

 状態を確かめたいのに、涙で視界が滲んで、まともに見られない。
 噛みしめていた右手で目を擦りはじめると、背後からさっきと同じ声が、けれどより硬い無機質さで、背筋を這い上がってきた。

「警察官への暴力行為、および負傷者への無断接触を確認。臨時に強制制圧を実施します」

 その声を最後に、全身に短い電流が走る。身体から力が抜け、抵抗することさえできなくなる。
 僕は姉さんの隣へ、どさりと倒れ込んだ。指一本、動かせない。
 視界が、遠ざかっていく。

「…………」

 何も見えない。声も出せない。

「姉さん……父さん……彩羽……」

 僕は同じ言葉だけを、何度も繰り返した。
 そのうち。右手だけが、じんわり温かくなりはじめる。
 温もりはやがて熱へ変わる。ひりひりするほどの熱が、掌の奥に広がっていく。
 その熱に導かれるまま、僕は闇の中を歩き出した。
 すると今度は、鼻先に淡い桜の匂い。そして耳の奥をくすぐる、かすかな音まで聞こえてくる。

「さ……」

 その音は、少しずつ、確かになっていき――

「さく……咲くん!!」

 目を開けた瞬間。白い天井のライトが、刃物みたいに眼球をえぐる。頭が割れそうだ。喉には、巨大な異物感が張り付いていて、せり上がったものが、何度も引き戻される。
 焦点が合ってくる。最初に見えたのは――僕の右手を握ったまま、目を腫らして隣の椅子に座っている、すいさん。いつも丸いはずの彼女の目は、今は泣き腫らして半分ほどの細さになっていた。
 反対側では、僕の胸にしがみつき、震えている彩羽。僕は力の入らない左手を、彼女の背中へ伸ばしてみた。
 僕はそのまま、しばらく何も言えなかった。ただ静かに目を閉じて、息だけをして、横になっていた。