データ保管庫の前に辿り着くと、そこには何もない、真っ白な廊下がまっすぐ奥へ伸びていた。埃ひとつ見当たらない。
色と呼べるものは、足元――左右の壁の角に走る、赤い蛍光の細いラインだけ。
線に沿ってしばらく進むと、視界の先に、僕の背丈より少し高い黒い扉が現れた。
僕はその場で一度、息を整える。それから静かに扉の前へ近づき、手のひらを当てる。
直後、機械音が落ちてくる。外国語訛りみたいな妙な抑揚で、だからこそ逆に、人間の声に聞こえた。
『入場権限を確認しますので、少々お待ち下さい』
手を当てたまま、息まで止めて背筋を伸ばして立つ。ほどなくして、アナウンスが続く。
『カネコ・サク様。本人確認を完了しました。近頃AIハッキングが頻発しています。保管庫のデータ取り扱い前に、規則を再確認してください』
その言葉が消えるのと同時に、扉は音もなく左右へ滑り、その輪郭ごと消える。
僕は慎重に、内側へ足を踏み入れる。すると、さっきまで空っぽだったはずの向こう側で黒い球体が、僕が視線を向けるたび、次々と姿を現しはじめる。
大きさはばらばらだ。拳ほどのものから、小さな部屋を丸ごと飲み込めそうなものまで。共通しているのはただひとつ。厚みという概念が消えているほどに黒い。
球体は目で追えない速さで、サイズを変え、位置を入れ替える。微細に震えているようにも見えた。
そうしてただ立ち尽くし、前を見つめていた僕の視界の隅に、文字が跳ねた。
『さっちゃんさん、準備できました。そっちはどうです?』
『無事入ったよ』
『じゃあ今回のワールド……20571120_岩本様、これで合ってます?』
『うん、合ってる』
返信を送り終えると、僕の視線はすぐ横の小さな白いテーブルへ滑る。
この空間の白とは違う、生活に寄った白、その上に鎮座する黒いボタンを、ためらいなく押し込む。
すると、透き通った微細粒子が集まり、青いホログラムパネルが立ち上がる。続いてキーボードとマウスが、空中から組み上がるように現れる。
パネルには簡素な表示だけが浮かんでいる。
『検索するデータセット名を入力してください』
その下に、細長い検索欄がひとつ。それを見つめていた矢先、目の前にもう一度、葵からメッセージが届く。
『20571120_岩本様を20570314_坂本様 として認識させておきます。でも、岩本様のワールドデータ、容量1.57ペタです。……本当に大丈夫ですか?』
コピーしてから一分が限界だと聞いていた1ペタを、軽く半分以上も上回る数値。
それでも僕の視線は止まらない。意識するより先に、返事が勝手に出来上がっていった。
『大丈夫。準備できてる。始められるなら言って』
『……分かりました。さっきも言ったけど、長くて2分です。セキュリティソフトが検知します。あれは外部プログラムなので、アタシにも止められません』
『了解』
短く返して、僕はそっとキーボードの上に手を置く。指先が震え、キーの上に触れては離れ、触れては離れる。
震えを少しでも抑えたくて、僕は脚をきつく組み、踏ん張った。そうして間もなく、視界に文字が跳ねた。
『開始!』
僕は必死に指を動かした。指だけは驚くほど速く動き、検索コードを打ち込んでいく。しかし、最後のエンターキーだけが、どうしても押せなかった。
『20570314_坂本様』
普段なら三秒で打てるはずの短い文字列。それが今日は、別の言語みたいに遠い。
〈2〉を四回も〈3〉と打ち間違えて消し、ようやく数字を揃えたと思ったら、今度は名字の一文字目を誤る。焦ってバックスペースを押し続け、せっかくの入力が一瞬で消える。
『10秒経過!』
葵のカウントダウンが、容赦なく目の前に降ってくる。
打たなきゃ――だというのに、今度は指が動かない。
視界がぐるぐる回り、外縁からじわじわ黒が滲みはじめる。
『20秒!』
目を閉じる。必死に、すいさんが前に教えてくれた呼吸法を思い出して、なぞる。
ゆっくり息をする。深く吸って、ゆっくり吐く。
――もう一度、深く。ゆっくり。
すると、幻のすいさんが「大丈夫、大丈夫」と言って、肩をぽん、と叩いてくれる気がした。温かな手触り。震えが、ほんの少しだけ引いていく。
目を開く。きらりと揺れて瞬くメッセージが、真っ先に目に飛び込んでくる。
『50秒!』
最後に大きく息を吸い込み、指を走らせる。
『20570314_坂本様』
――エンター。
短いローディングが挟まり、次の瞬間。僕の横に、顎の高さまである巨大な黒い球体が、ぬるりと姿を現した。
僕はその球体に視線を固定したまま、視界の下端に浮かんだ〈コピーする〉を押す。
『20571120_岩本様のデータをコピーしますか? 警告:データ容量が1ペタバイトを超えています』
岩本様という文字だけを素早く確認して、即座に許可ボタンを押す。すると右目の視界だけがすっと欠け、同時に視界の右下でコピー率が0%から、ゆっくり上がりはじめる。
『80秒! まだ!? 二分も保たないかも。急いで!』
返事はしない。僕は数字だけを穴が空くほど見つめる。
12%。1%ずつ上がるたびに、全身ががくん、がくんと揺れる。
『90秒! 早く!』
――まだ、77%。
『95秒! 返事しろ!』
順調だった数字が、98%で、ピタリと止まる。
全身が固まる。
『100秒! 検知される! もう無理!』
その表示と同時に、別の文字が重なる。
『コピーが完了しました』
欠けていた右目の視界が、ふっと戻る。すると、目の前にあった球体が、一瞬で僕の拳にも満たない大きさへと縮んだ。
僕はその場に、どさり、と座り込んだ。額から流れる冷汗を手のひらで払って、震える目で葵に送る。
『ミッション・コンプリート』
即座に返信が跳ねる。
『このバカ!! 早く出て接続終了しなさい!!』
僕は跳ね起き、出口へ駆ける。膝が笑い、足元がまともに定まらない。
扉を抜けた途端、視界に飛び込んできたのは廊下の赤いラインだった。その光が滲んで、二本、三本に増えて見える。
息を殺して、そっと振り返る。さっきまでそこにあった黒い球体の群れは、跡形もなく消えていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、僕は接続終了のボタンを探す。視界にウィンドウが開く。
『接続を終了しますか?』
それを見た途端、さっきまで身体中を叩いていた震えが、嘘みたいに引いた。
(意外と平気じゃん。運動してるからか? 視界が滲むくらいで――)
僕は思わず、乾いた笑いを漏らして、終了ボタンを押した。
……押したはずだった。
確かに、両目で〈接続終了〉を見て、押した。それなのに目の前は相変わらず、あの真っ白な壁のまま。もう一度押しても、やっぱり何も反応がない。
そのとき、青い髪が視界にぬっと割り込んだ。だが、頭が逆さまだ。床に横たわっている葵が、異様な角度でこちらを見上げている。
「さっちゃんさん! さっちゃんさん!!」
葵が僕の肩を掴んで揺さぶる。目を大きく見開き、眉間をきつく寄せている。彼女がこんな顔をするのを、僕は初めて見た気がした。
「どうしたの、葵ちゃん。それより、接続終了が効かないんだけど」
「やばい! やばいって! 先輩!! 接続終了して!! 聞こえてる!?」
彼女は叫び続けながら、今度は頬まで叩いてくる。
パン、パン、と乾いた音が響く。でも、痛くない。
「うるさ……耳が裂けるって。大丈夫だって、僕は平気――」
言いかけた瞬間、彼女の目尻に小さな水滴が溜まり、頬をつたって落ちた。
そして、あり得ないことが起きる。床に横たわっているはずの彼女の顎に溜まった涙が――ぽとりと、天井の方へ落ちて、僕の頬に触れた。
「……は?」
疑問が形になるより早く、葵が震える手で僕の頬を一度、拭った。手を離した指先に、べっとりと暗い紅が広がっている。
次の瞬間、その赤が噴き上がる。僕の視界を塗りつぶすように、どす黒い赤が溢れ出す。
彼女が叫んでいる。けれど音は届かない。
血が、波になる。赤い海が僕の視界を縁から覆い、熱く、重く、まとわりついてくる。僕はその中へ、ずぶずぶ沈んでいった。
息が奪われ、光が薄れ、赤はやがて漆黒へ。世界が、底のない闇に塗り替わっていく。
色と呼べるものは、足元――左右の壁の角に走る、赤い蛍光の細いラインだけ。
線に沿ってしばらく進むと、視界の先に、僕の背丈より少し高い黒い扉が現れた。
僕はその場で一度、息を整える。それから静かに扉の前へ近づき、手のひらを当てる。
直後、機械音が落ちてくる。外国語訛りみたいな妙な抑揚で、だからこそ逆に、人間の声に聞こえた。
『入場権限を確認しますので、少々お待ち下さい』
手を当てたまま、息まで止めて背筋を伸ばして立つ。ほどなくして、アナウンスが続く。
『カネコ・サク様。本人確認を完了しました。近頃AIハッキングが頻発しています。保管庫のデータ取り扱い前に、規則を再確認してください』
その言葉が消えるのと同時に、扉は音もなく左右へ滑り、その輪郭ごと消える。
僕は慎重に、内側へ足を踏み入れる。すると、さっきまで空っぽだったはずの向こう側で黒い球体が、僕が視線を向けるたび、次々と姿を現しはじめる。
大きさはばらばらだ。拳ほどのものから、小さな部屋を丸ごと飲み込めそうなものまで。共通しているのはただひとつ。厚みという概念が消えているほどに黒い。
球体は目で追えない速さで、サイズを変え、位置を入れ替える。微細に震えているようにも見えた。
そうしてただ立ち尽くし、前を見つめていた僕の視界の隅に、文字が跳ねた。
『さっちゃんさん、準備できました。そっちはどうです?』
『無事入ったよ』
『じゃあ今回のワールド……20571120_岩本様、これで合ってます?』
『うん、合ってる』
返信を送り終えると、僕の視線はすぐ横の小さな白いテーブルへ滑る。
この空間の白とは違う、生活に寄った白、その上に鎮座する黒いボタンを、ためらいなく押し込む。
すると、透き通った微細粒子が集まり、青いホログラムパネルが立ち上がる。続いてキーボードとマウスが、空中から組み上がるように現れる。
パネルには簡素な表示だけが浮かんでいる。
『検索するデータセット名を入力してください』
その下に、細長い検索欄がひとつ。それを見つめていた矢先、目の前にもう一度、葵からメッセージが届く。
『20571120_岩本様を20570314_坂本様 として認識させておきます。でも、岩本様のワールドデータ、容量1.57ペタです。……本当に大丈夫ですか?』
コピーしてから一分が限界だと聞いていた1ペタを、軽く半分以上も上回る数値。
それでも僕の視線は止まらない。意識するより先に、返事が勝手に出来上がっていった。
『大丈夫。準備できてる。始められるなら言って』
『……分かりました。さっきも言ったけど、長くて2分です。セキュリティソフトが検知します。あれは外部プログラムなので、アタシにも止められません』
『了解』
短く返して、僕はそっとキーボードの上に手を置く。指先が震え、キーの上に触れては離れ、触れては離れる。
震えを少しでも抑えたくて、僕は脚をきつく組み、踏ん張った。そうして間もなく、視界に文字が跳ねた。
『開始!』
僕は必死に指を動かした。指だけは驚くほど速く動き、検索コードを打ち込んでいく。しかし、最後のエンターキーだけが、どうしても押せなかった。
『20570314_坂本様』
普段なら三秒で打てるはずの短い文字列。それが今日は、別の言語みたいに遠い。
〈2〉を四回も〈3〉と打ち間違えて消し、ようやく数字を揃えたと思ったら、今度は名字の一文字目を誤る。焦ってバックスペースを押し続け、せっかくの入力が一瞬で消える。
『10秒経過!』
葵のカウントダウンが、容赦なく目の前に降ってくる。
打たなきゃ――だというのに、今度は指が動かない。
視界がぐるぐる回り、外縁からじわじわ黒が滲みはじめる。
『20秒!』
目を閉じる。必死に、すいさんが前に教えてくれた呼吸法を思い出して、なぞる。
ゆっくり息をする。深く吸って、ゆっくり吐く。
――もう一度、深く。ゆっくり。
すると、幻のすいさんが「大丈夫、大丈夫」と言って、肩をぽん、と叩いてくれる気がした。温かな手触り。震えが、ほんの少しだけ引いていく。
目を開く。きらりと揺れて瞬くメッセージが、真っ先に目に飛び込んでくる。
『50秒!』
最後に大きく息を吸い込み、指を走らせる。
『20570314_坂本様』
――エンター。
短いローディングが挟まり、次の瞬間。僕の横に、顎の高さまである巨大な黒い球体が、ぬるりと姿を現した。
僕はその球体に視線を固定したまま、視界の下端に浮かんだ〈コピーする〉を押す。
『20571120_岩本様のデータをコピーしますか? 警告:データ容量が1ペタバイトを超えています』
岩本様という文字だけを素早く確認して、即座に許可ボタンを押す。すると右目の視界だけがすっと欠け、同時に視界の右下でコピー率が0%から、ゆっくり上がりはじめる。
『80秒! まだ!? 二分も保たないかも。急いで!』
返事はしない。僕は数字だけを穴が空くほど見つめる。
12%。1%ずつ上がるたびに、全身ががくん、がくんと揺れる。
『90秒! 早く!』
――まだ、77%。
『95秒! 返事しろ!』
順調だった数字が、98%で、ピタリと止まる。
全身が固まる。
『100秒! 検知される! もう無理!』
その表示と同時に、別の文字が重なる。
『コピーが完了しました』
欠けていた右目の視界が、ふっと戻る。すると、目の前にあった球体が、一瞬で僕の拳にも満たない大きさへと縮んだ。
僕はその場に、どさり、と座り込んだ。額から流れる冷汗を手のひらで払って、震える目で葵に送る。
『ミッション・コンプリート』
即座に返信が跳ねる。
『このバカ!! 早く出て接続終了しなさい!!』
僕は跳ね起き、出口へ駆ける。膝が笑い、足元がまともに定まらない。
扉を抜けた途端、視界に飛び込んできたのは廊下の赤いラインだった。その光が滲んで、二本、三本に増えて見える。
息を殺して、そっと振り返る。さっきまでそこにあった黒い球体の群れは、跡形もなく消えていた。
「……ふぅ」
小さく息を吐き、僕は接続終了のボタンを探す。視界にウィンドウが開く。
『接続を終了しますか?』
それを見た途端、さっきまで身体中を叩いていた震えが、嘘みたいに引いた。
(意外と平気じゃん。運動してるからか? 視界が滲むくらいで――)
僕は思わず、乾いた笑いを漏らして、終了ボタンを押した。
……押したはずだった。
確かに、両目で〈接続終了〉を見て、押した。それなのに目の前は相変わらず、あの真っ白な壁のまま。もう一度押しても、やっぱり何も反応がない。
そのとき、青い髪が視界にぬっと割り込んだ。だが、頭が逆さまだ。床に横たわっている葵が、異様な角度でこちらを見上げている。
「さっちゃんさん! さっちゃんさん!!」
葵が僕の肩を掴んで揺さぶる。目を大きく見開き、眉間をきつく寄せている。彼女がこんな顔をするのを、僕は初めて見た気がした。
「どうしたの、葵ちゃん。それより、接続終了が効かないんだけど」
「やばい! やばいって! 先輩!! 接続終了して!! 聞こえてる!?」
彼女は叫び続けながら、今度は頬まで叩いてくる。
パン、パン、と乾いた音が響く。でも、痛くない。
「うるさ……耳が裂けるって。大丈夫だって、僕は平気――」
言いかけた瞬間、彼女の目尻に小さな水滴が溜まり、頬をつたって落ちた。
そして、あり得ないことが起きる。床に横たわっているはずの彼女の顎に溜まった涙が――ぽとりと、天井の方へ落ちて、僕の頬に触れた。
「……は?」
疑問が形になるより早く、葵が震える手で僕の頬を一度、拭った。手を離した指先に、べっとりと暗い紅が広がっている。
次の瞬間、その赤が噴き上がる。僕の視界を塗りつぶすように、どす黒い赤が溢れ出す。
彼女が叫んでいる。けれど音は届かない。
血が、波になる。赤い海が僕の視界を縁から覆い、熱く、重く、まとわりついてくる。僕はその中へ、ずぶずぶ沈んでいった。
息が奪われ、光が薄れ、赤はやがて漆黒へ。世界が、底のない闇に塗り替わっていく。

