情報システム本部の島に足を踏み入れた瞬間、壁の端っこにぶら下がっている、妙にけばけばしい虹色の横断幕が目に入った。
『AIセキュリティチーム社内異動 積極募集中! 』
僕は周囲をざっと見回す。
誰もいない。それを確認してから、忍び足でそろりそろりと横断幕の下へ近づいた。そこで視界に飛び込んできたのは、やけに目立つ青い髪。
「……あの。葵ちゃん、こんばんは」
彼女の席まで行って声をかけると、葵は真っ黒なサングラスをかけたまま椅子に座り、正面だけをじっと見据えていた。両手は、目の前の何かを払う仕草で、しっしっと小さく動いている。
机の周りには、学生時代の教科書でしか見たことがないような、分厚くて重そうな電子機器が雑然と積まれている。
僕はその隣の席に静かに腰を下ろし、葵の横顔を見つめた。
このまま、彼女が何も答えないまま、時間だけが永遠に過ぎていけばいいのに――そんなことさえ思いかけた頃。やがて、彼女の喉から低いため息が落ちた。
「はぁ……」
彼女はサングラスをおでこへずらし、こちらを見て言う。
「で、何ですか? さっちゃんさん」
「えっと……こんばんは」
「こんばんは?」
顎に手をつき、葵は気のない調子でそのまま言い返してきた。僕は唇の内側を湿らせて、もう一度声をかける。
「……僕が挨拶しに来ちゃ、だめ?」
「だめじゃないですけど。さっちゃんさんがアタシの席まで来るの、初めてですよね。で、用件は?」
曖昧に笑って、別の話題へ逃げる。
「いや、なんでも……それより今日、タバコ吸ってないんだ」
「誤魔化さないでください。用件は?」
葵はぐい、と首をこちらへ突き出し、上目遣いで覗き込んでくる。僕はもう一度だけ周囲を確認する。
――やっぱり、誰もいない。
そのまま葵の肩に、両手を置く。ビクッ、と肩が跳ねる。
葵は両手を胸の前へ中途半端に上げて、声を詰まらせる。
「な、なに?」
「……き、聞いて。頼みがある。それと、紙を一枚、もらえる?」
僕は差し出された紙に、用件を書き始める。鉛筆を握るのが妙にぎこちなくて、書いては消してを何度も繰り返す。
ようやく短い文に落とし込んで、彼女に紙を差し出す。
『今日、終了した案件のワールドデータを抜き取りたい。データ保管庫に入って、僕が直接コピーする。監視に引っかからないように、どうにかできないかな 』
彼女はそれを受け取ると眉を寄せ、首を傾げ、何度も読み返す。そして小さく呟く。
「……周りに誰もいないのに、紙って」
紙を軽く折り畳むと、葵はすっと立ち上がる。そして僕の前に来ると、上体を軽く折り、片手で自分の膝を支えたまま、もう片方の手で僕の頭をそっと撫でる。
「……ああ。昨日見た観相は外れてなかったですね。間違った選択でバカになって帰ってくるなんて。アタシは悲しいのです」
その手をそっと取って下ろす。久しぶりのフルダイブだからだろうか。やわらかな指先の温度が、場違いなくらい生々しい。
小さく咳払いして、改めて口頭で頼み込む。
「真面目に。頼む。どうにか、ならない?」
葵は僕の目をじっと見据える。それから、淡々と言う。
「顔を見る限り、冗談じゃないんでしょうけど……常識的に無理なの、分かってますよね」
そう言って、彼女は指を二本立ててみせる。
「まず一つ目。データ、どうやって持ち出すんです? 終了案件を許可なしで抜いたら、解雇じゃ済まない。外部に転送したら記録も残る。……分かってますよね?」
「……それは、僕が直接、自分の端末にコピーすれば――」
「は?」
葵は片目を細め、口を半開きにして僕の言葉を遮る。
「ワールドって、アバターも環境も各種情報も全部パッケージ保存ですよ? 容量、軽く1ペタは超えますけど」
僕は答えの代わりに、右耳の後ろを見せる。
「ヒューマノイド用SSD、付けといたから……たぶん大丈夫」
僕の言葉が終わるより早く、彼女の半開きだった口が、そのままあんぐりと、きれいに開いた。
「え?? 正気ですか? 端末に直接コピーするつもり? 脳が溶けますよ」
「……そ、そんなに?」
「ちょっと待ってください」
彼女は虚空を見ながら、視線だけを右へ左へと走らせる。唾が、やけに乾いていく。
「えーっと……。一ペタを人間用端末に保存したら、過負荷で、一分も持たずに死ぬって――」
葵は途中で言葉を切り、目尻をすっと下げて僕をどこか切なげに見つめる。
「もし人生がきつかったら相談窓口に電話してくださいって番号も……」
「わ、分かった。えっと、一分……」
僕は彼女の言葉を強引に遮って、頭の中で秒針を刻み始める。
カチ、カチ、と。一秒、二秒、三秒。一分は六十回。思ったより、ずっと長い。そんなふうに三十秒ほど数えたあたりで、目の前から聞こえた声に、僕ははっと我に返った。
「はぁ……どのみちコピー中に負荷が来て、強制終了で終わりですよ」
「それなら心配いらない。ギアの安全線も切ってあるし、フルダイブ中だから途中で何かあっても、起き上がったりはしないはずだ」
次の瞬間、葵の両手が僕の頬をがしっと掴む。ぐい、と顔を引き寄せられる。
眉は下がっているのに、口角だけが吊り上がっている。
「さっちゃんさん! ほんとに、ほんっとに、頭おかしくなったんですか!? やば、最高……!」
数秒だけ僕の顔を凝視して、ぱっと手を離す。そして今度は人差し指を一本、僕の目の前に突き立てる。
「コピーも……まあ記録は残りますけど。それはそれとして、二つ目。今日の終了案件って、例の作家がどうこうってやつですよね?」
「……うん」
「今日の午後、下の島に降りたら、めちゃくちゃ大騒ぎでしたよ。強制終了がどうこうって。コピーがどうとか以前に、担当のさっちゃんさんがそのワールド付近に入った時点で、監査が飛んできます」
僕は目を閉じると、強制終了案件の報告で引っ立てられたすいさんが、頭を下げたまま叱責を浴びている姿が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
だからこそだ。僕は小さく首を振って雑念を振り払う。それから両手を揃え、葵の膝だけが視界に入るほど深く頭を下げる。
「だから、お願いだ。虫のいい話だって分かってるけど、葵ちゃんに……手を貸してほしい。天才の葵ちゃんにしか、頼めないんだ」
「……」
返事がない。顔を上げると、葵は視線を逸らし、横髪を指にくるくる巻きつけながら、ほんの少しだけ俯いていた。
僕はもう一度だけ、言う。
「……お願いします」
やがて、小さな声が落ちてくる。
「……要するに、データ保管庫の監視網をハッキングしろってことですね」
「手を貸してくれるの? 本当に? でも、もし何かあったら――」
「今さらそれ言います?」
葵はしれっと言い捨てると、自分の席へ戻り、何事もなかったみたいに座る。そして静かに引き出しを開ける。取り出したのは、ノートを二冊貼り合わせたほどの大きさの、黒い四角い電子機器だ。
――ノートPCと呼ばれるもの。幼い頃、父がそれを使っていた姿が、ぼんやりと浮かぶ。
葵はそれを直角に開くなり、目に見えない速度でキーを叩きはじめる。
タタッ、タタタッ。軽快な音の中で、彼女は淡々と言う。
「アタシが作った監視ロジックなのに、引っかかるわけないでしょ。今回のワールドデータは、前にさっちゃんさんが担当してた別案件のデータとして偽装します。はぁ……」
言い終えると、葵は深く息を吐く。
僕は笑いそうになるのを堪えたまま言う。
「本当にありがとう! この恩、絶対忘れない」
「社内ツールは使えないので……たぶん一分。長くて二分が限界です。そこまでに終わらせてください。それ以降は、アタシも知りません」
「うん、もちろん! じゃあ僕、先にデータ保管庫に行ってるね!」
立ち上がり、背を向けた瞬間だった。
葵が僕の服の袖を掴んで、引き留める。指先の力は弱いのに、なぜか逆らえない。
「……ひとつだけ、聞いていいですか?」
「何?」
「なんで、そこまでやるんです? 他人のことなのに」
振り返り、彼女を見下ろす。
笑い気のない、いつも通り眠たげな目が、まっすぐに僕を見ている。
なぜだろう。もう覚悟していたはずなのに、僕はまた答えを探して彷徨う。見えない解答用紙を覗き込むみたいに、ぼんやりと彼女の黒い瞳の奥を見つめる。
――映っているのは、ただの僕の顔だけ。しかし、ほどなくして別の像が重なりはじめる。
今日見たお客様の姿。そして今度は、AIが管理する世界に頷きながら、いくつも諦めてきた僕自身。
救急車が間に合わず、事切れた父を背負って雪道を歩いた、あの日の僕。皆を幸せにしたくて選んだ道のはずなのに、漆黒の円い機械を抱え、マニュアル通りに動かされている僕。
それら全部が喉の奥で膨らんで、息が詰まる。
それでも僕は胸元の襟を掴み、腹の底から――たった一文を絞り出した。
「……ただ、そうしないと一生、後悔する気がした」
その言葉を聞いた葵は、ふっと笑う。そして袖を離し、あくび混じりに言う。
「大学の頃から何も変わってないですね。これで貸し借りはなしです」
「貸し借り……?」
「ほんと、バカですね。まあ、いいか。早く行ってください。準備できたら連絡します」
「うん……ほんとにありがとう!」
ノートPCをいじる葵を背に、僕は踵を返してエレベーターへ向かった。乗り込む前に、最後に一度だけ振り返る。廊下の奥、あの青い髪がまだそこにある。
やたらと騒がしい色。なのに今だけは、夏の波みたいに、胸に溜まっていた澱をさらってくれる気がした。
エレベーターの中へ足を踏み入れる。すぐに女性のアナウンスが流れる。
『カネコ・サク様。どの島へ移動なさいますか?』
静かに答える。
「データ保管庫へ」
『AIセキュリティチーム社内異動 積極募集中! 』
僕は周囲をざっと見回す。
誰もいない。それを確認してから、忍び足でそろりそろりと横断幕の下へ近づいた。そこで視界に飛び込んできたのは、やけに目立つ青い髪。
「……あの。葵ちゃん、こんばんは」
彼女の席まで行って声をかけると、葵は真っ黒なサングラスをかけたまま椅子に座り、正面だけをじっと見据えていた。両手は、目の前の何かを払う仕草で、しっしっと小さく動いている。
机の周りには、学生時代の教科書でしか見たことがないような、分厚くて重そうな電子機器が雑然と積まれている。
僕はその隣の席に静かに腰を下ろし、葵の横顔を見つめた。
このまま、彼女が何も答えないまま、時間だけが永遠に過ぎていけばいいのに――そんなことさえ思いかけた頃。やがて、彼女の喉から低いため息が落ちた。
「はぁ……」
彼女はサングラスをおでこへずらし、こちらを見て言う。
「で、何ですか? さっちゃんさん」
「えっと……こんばんは」
「こんばんは?」
顎に手をつき、葵は気のない調子でそのまま言い返してきた。僕は唇の内側を湿らせて、もう一度声をかける。
「……僕が挨拶しに来ちゃ、だめ?」
「だめじゃないですけど。さっちゃんさんがアタシの席まで来るの、初めてですよね。で、用件は?」
曖昧に笑って、別の話題へ逃げる。
「いや、なんでも……それより今日、タバコ吸ってないんだ」
「誤魔化さないでください。用件は?」
葵はぐい、と首をこちらへ突き出し、上目遣いで覗き込んでくる。僕はもう一度だけ周囲を確認する。
――やっぱり、誰もいない。
そのまま葵の肩に、両手を置く。ビクッ、と肩が跳ねる。
葵は両手を胸の前へ中途半端に上げて、声を詰まらせる。
「な、なに?」
「……き、聞いて。頼みがある。それと、紙を一枚、もらえる?」
僕は差し出された紙に、用件を書き始める。鉛筆を握るのが妙にぎこちなくて、書いては消してを何度も繰り返す。
ようやく短い文に落とし込んで、彼女に紙を差し出す。
『今日、終了した案件のワールドデータを抜き取りたい。データ保管庫に入って、僕が直接コピーする。監視に引っかからないように、どうにかできないかな 』
彼女はそれを受け取ると眉を寄せ、首を傾げ、何度も読み返す。そして小さく呟く。
「……周りに誰もいないのに、紙って」
紙を軽く折り畳むと、葵はすっと立ち上がる。そして僕の前に来ると、上体を軽く折り、片手で自分の膝を支えたまま、もう片方の手で僕の頭をそっと撫でる。
「……ああ。昨日見た観相は外れてなかったですね。間違った選択でバカになって帰ってくるなんて。アタシは悲しいのです」
その手をそっと取って下ろす。久しぶりのフルダイブだからだろうか。やわらかな指先の温度が、場違いなくらい生々しい。
小さく咳払いして、改めて口頭で頼み込む。
「真面目に。頼む。どうにか、ならない?」
葵は僕の目をじっと見据える。それから、淡々と言う。
「顔を見る限り、冗談じゃないんでしょうけど……常識的に無理なの、分かってますよね」
そう言って、彼女は指を二本立ててみせる。
「まず一つ目。データ、どうやって持ち出すんです? 終了案件を許可なしで抜いたら、解雇じゃ済まない。外部に転送したら記録も残る。……分かってますよね?」
「……それは、僕が直接、自分の端末にコピーすれば――」
「は?」
葵は片目を細め、口を半開きにして僕の言葉を遮る。
「ワールドって、アバターも環境も各種情報も全部パッケージ保存ですよ? 容量、軽く1ペタは超えますけど」
僕は答えの代わりに、右耳の後ろを見せる。
「ヒューマノイド用SSD、付けといたから……たぶん大丈夫」
僕の言葉が終わるより早く、彼女の半開きだった口が、そのままあんぐりと、きれいに開いた。
「え?? 正気ですか? 端末に直接コピーするつもり? 脳が溶けますよ」
「……そ、そんなに?」
「ちょっと待ってください」
彼女は虚空を見ながら、視線だけを右へ左へと走らせる。唾が、やけに乾いていく。
「えーっと……。一ペタを人間用端末に保存したら、過負荷で、一分も持たずに死ぬって――」
葵は途中で言葉を切り、目尻をすっと下げて僕をどこか切なげに見つめる。
「もし人生がきつかったら相談窓口に電話してくださいって番号も……」
「わ、分かった。えっと、一分……」
僕は彼女の言葉を強引に遮って、頭の中で秒針を刻み始める。
カチ、カチ、と。一秒、二秒、三秒。一分は六十回。思ったより、ずっと長い。そんなふうに三十秒ほど数えたあたりで、目の前から聞こえた声に、僕ははっと我に返った。
「はぁ……どのみちコピー中に負荷が来て、強制終了で終わりですよ」
「それなら心配いらない。ギアの安全線も切ってあるし、フルダイブ中だから途中で何かあっても、起き上がったりはしないはずだ」
次の瞬間、葵の両手が僕の頬をがしっと掴む。ぐい、と顔を引き寄せられる。
眉は下がっているのに、口角だけが吊り上がっている。
「さっちゃんさん! ほんとに、ほんっとに、頭おかしくなったんですか!? やば、最高……!」
数秒だけ僕の顔を凝視して、ぱっと手を離す。そして今度は人差し指を一本、僕の目の前に突き立てる。
「コピーも……まあ記録は残りますけど。それはそれとして、二つ目。今日の終了案件って、例の作家がどうこうってやつですよね?」
「……うん」
「今日の午後、下の島に降りたら、めちゃくちゃ大騒ぎでしたよ。強制終了がどうこうって。コピーがどうとか以前に、担当のさっちゃんさんがそのワールド付近に入った時点で、監査が飛んできます」
僕は目を閉じると、強制終了案件の報告で引っ立てられたすいさんが、頭を下げたまま叱責を浴びている姿が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
だからこそだ。僕は小さく首を振って雑念を振り払う。それから両手を揃え、葵の膝だけが視界に入るほど深く頭を下げる。
「だから、お願いだ。虫のいい話だって分かってるけど、葵ちゃんに……手を貸してほしい。天才の葵ちゃんにしか、頼めないんだ」
「……」
返事がない。顔を上げると、葵は視線を逸らし、横髪を指にくるくる巻きつけながら、ほんの少しだけ俯いていた。
僕はもう一度だけ、言う。
「……お願いします」
やがて、小さな声が落ちてくる。
「……要するに、データ保管庫の監視網をハッキングしろってことですね」
「手を貸してくれるの? 本当に? でも、もし何かあったら――」
「今さらそれ言います?」
葵はしれっと言い捨てると、自分の席へ戻り、何事もなかったみたいに座る。そして静かに引き出しを開ける。取り出したのは、ノートを二冊貼り合わせたほどの大きさの、黒い四角い電子機器だ。
――ノートPCと呼ばれるもの。幼い頃、父がそれを使っていた姿が、ぼんやりと浮かぶ。
葵はそれを直角に開くなり、目に見えない速度でキーを叩きはじめる。
タタッ、タタタッ。軽快な音の中で、彼女は淡々と言う。
「アタシが作った監視ロジックなのに、引っかかるわけないでしょ。今回のワールドデータは、前にさっちゃんさんが担当してた別案件のデータとして偽装します。はぁ……」
言い終えると、葵は深く息を吐く。
僕は笑いそうになるのを堪えたまま言う。
「本当にありがとう! この恩、絶対忘れない」
「社内ツールは使えないので……たぶん一分。長くて二分が限界です。そこまでに終わらせてください。それ以降は、アタシも知りません」
「うん、もちろん! じゃあ僕、先にデータ保管庫に行ってるね!」
立ち上がり、背を向けた瞬間だった。
葵が僕の服の袖を掴んで、引き留める。指先の力は弱いのに、なぜか逆らえない。
「……ひとつだけ、聞いていいですか?」
「何?」
「なんで、そこまでやるんです? 他人のことなのに」
振り返り、彼女を見下ろす。
笑い気のない、いつも通り眠たげな目が、まっすぐに僕を見ている。
なぜだろう。もう覚悟していたはずなのに、僕はまた答えを探して彷徨う。見えない解答用紙を覗き込むみたいに、ぼんやりと彼女の黒い瞳の奥を見つめる。
――映っているのは、ただの僕の顔だけ。しかし、ほどなくして別の像が重なりはじめる。
今日見たお客様の姿。そして今度は、AIが管理する世界に頷きながら、いくつも諦めてきた僕自身。
救急車が間に合わず、事切れた父を背負って雪道を歩いた、あの日の僕。皆を幸せにしたくて選んだ道のはずなのに、漆黒の円い機械を抱え、マニュアル通りに動かされている僕。
それら全部が喉の奥で膨らんで、息が詰まる。
それでも僕は胸元の襟を掴み、腹の底から――たった一文を絞り出した。
「……ただ、そうしないと一生、後悔する気がした」
その言葉を聞いた葵は、ふっと笑う。そして袖を離し、あくび混じりに言う。
「大学の頃から何も変わってないですね。これで貸し借りはなしです」
「貸し借り……?」
「ほんと、バカですね。まあ、いいか。早く行ってください。準備できたら連絡します」
「うん……ほんとにありがとう!」
ノートPCをいじる葵を背に、僕は踵を返してエレベーターへ向かった。乗り込む前に、最後に一度だけ振り返る。廊下の奥、あの青い髪がまだそこにある。
やたらと騒がしい色。なのに今だけは、夏の波みたいに、胸に溜まっていた澱をさらってくれる気がした。
エレベーターの中へ足を踏み入れる。すぐに女性のアナウンスが流れる。
『カネコ・サク様。どの島へ移動なさいますか?』
静かに答える。
「データ保管庫へ」

