僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 ギアをもぎ取った途端、世界がぐにゃりと歪んだ。吐き気が、胃の腑から逆流してくる。
 人生で二度目の強制終了。全身の神経が焼け付くように痺れ、奥歯ががちがちと鳴る。椅子から立ち上がろうと両脚に力を込めても、言うことをきかない。
 椅子に座ったまま、視界の向こう、奥様が横たわるベッドのほうを確認する。
 フルダイブしていたはずのお客様は、いつの間にか奥様の傍まで来ていた。彼女の手を握り、ベッドの柵に両肘を突いたまま、かろうじて体重を支えている。

「コトハ! コトハ!!」

 まだ耳の奥で鳴り続ける機械音を突き破って、彼の声が届く。その声に重なるように、ベッド脇のバイタルモニターから抑揚のない硬い女性の機械音声が告げる。

『心拍数一七五。アドレナリン値の急上昇を検知。β遮断薬の投与量を増加します』

 そのとき、隣から誰かが僕の手を掴んだ。振り向くと、すいさんが眉間を押さえ、顔をしかめながら起き上がろうとしている。

「咲くん……状況、は……」

 その直後、再び機械音声が続く。

『患者の心停止状態を確認。自動蘇生プロトコルを開始します。経皮埋込型除細動(けいひうめこみがたじょさいどう)を実施します』

 それから、ほどなくして。

 ダンッ!

 奥様の身体がベッドの上で跳ねた。スプリングが軋み、苦鳴を上げる。
 そのおぞましい光景を前に、お客様は何も言わない。ただ奥様の手を両手で強く握りしめ、顔のほうへ引き寄せたまま、全身を小刻みに震わせている。
 ダンッ、ダンッ、と数回。鈍い音が繰り返され、また機械音声が流れる。

『自発循環回復(じはつじゅんかんかいふく)を検知。ただしリズム不安定。抗不整脈薬(こうふせいみゃくやく)を投与します。ペーシングモード稼働。心拍、毎分七〇で維持します』

 その直後、バイタルモニターから、規則的な「チッ、チッ、チッ」という音だけが響き続ける。
 そして数秒もしないうちに、病室のドアがガラッ、と乱暴に開いた。慌ただしく二人が飛び込んでくる。
 昨日の午前に出くわした医師と看護師だ。僕は思わず視線を逸らしたが、二人は僕になど目もくれず、奥様のベッドへ駆け寄っていった。
 お客様はふらつきながら立ち上がり、無言で場所を空けた。そして無表情のまま、親指の爪をもう片方の手のささくれに食い込ませた。鮮血が指を伝って流れ落ちても、彼はただその行為を繰り返すだけだった。

「酸素飽和度(さんそほうわど)が低すぎる。ベンチレーター、強制モードに切り替えて!」
「はい!」

 医師の指示に、看護師は手慣れた動きで奥様に装着されていたギアを外し、モニターの前に立つと指先でいくつもボタンを叩きはじめた。同時に、奥様の首元に繋がるホースから、

 シュウゥ……ッ、――カツ。

 乾いた音が漏れる。
 医師は続けて、指先ほどの小さなライトを奥様の瞳に当てながら言う。

「脳はまだ持ってる。急いでクーリング準備! 心電図のリズムは?」
「心電図リズム、ペーシングに全面依存。自発拍動、ほとんどありません!」

 言葉というより、ほとんど叫びだった。
 僕は、左手の上に重なっているすいさんの手を、そっと握り返す。唾を何度も飲み込みながら、ただその光景を見つめていた。
 二人は奥様の身体をあちこち確認し、モニターとベッドの間を何度も往復した。やがてベッドごと廊下へ押し出し、外で待機していた他の看護師たちと合流すると、そのままどこかへ駆けていく。
 後に残ったのは、沈黙だけ。
 病室の中は何も変わっていないのに、奥様だけが消えている。それだけで部屋はやけに広く、がらんと空っぽに見えた。
 僕が立ち上がろうとしたとき、隣のすいさんが僕の手を押し返すようにして立ち上がる。そして床の片隅に置かれた奥様のギアを持ち上げると、お客様に向かって九十度、深く頭を下げる。

「申し訳ありません。こんなことになるなんて……」

 細い声が震えているのが、こちらにまで伝わる。僕はただ頭を下げたまま、彼女の足元だけを見ていた。
 数秒の沈黙のあとで、お客様が答える。

「……いえ。前にも何度か、ありました」

 顔を上げると、彼は眉間に手を当て、深く息を吸った。それからポケットから革の財布を取り出し、淡く光を反射する白い長方形のカードを一枚、抜き取る。

「ご存じのとおり、僕は社会貢献ランクAです。病院が妻を死なせるはずがない。明日になれば、また向こうで……虚空だけを見つめて横たわっているでしょう」

 そう言いながら、そのカードを片手で握り込み、ぱきん、と半分に折る。

「最初は、ここまでじゃなかったんです。一度、また一度、あの扉を出て、妻が戻るたびに、目が、耳が……感覚がひとつずつ、消えていく。それだけでした」

 彼は折れたカードを、そのまま握り潰す。その拍子に、さっき引きちぎった指先の傷が開き、真っ白なカードに赤い血がべっとりと移った。望んでも手に入らないはずの高潔(こうけつ)な〈ランクA〉の証明が、生々しい命の色に塗り潰されていく。

「無理なお願いだとは分かっています。ですが、明日もこのまま、VRへ接続できるよう、手を貸していただけませんか。代償なら、いくらでも払います」

 お客様は僕らに向かって深く頭を下げて言った。
 すいさんが何かを口にしかけた、その瞬間。僕の脳裏に、あの場面がフラッシュバックする。
 僕が奥様のセーフティモードを切った、あの瞬間だ。
 僕は椅子から立ち上がった。すいさんの隣に並び、同じように頭を下げる。

「……申し訳ありません。一度、VR使用中に強制終了が発生すると、対象者は法的にVRへ再接続できなくなります。弊社も、当然その法律に従っておりますので、お力になれる方法が……」

 僕の言葉に続いて、すいさんが口を開く。

「金子の言うとおりです。申し訳ありません。既にご存じだとは思いますが……この先、もしVRに接続したら、本当に命を落とす可能性があります。それに、たとえ私たちが準備できたとしても、病院側が私たちの立ち入りを許可しないはずで……」

 彼女が言い終えるより先だった。視界の端を、お客様の影が横切る。僕はまだ床しか見ていなかったはずなのに。

 ガンッ!

 頭蓋骨(ずがいこつ)が砕けそうな音が床に響く。膝をつく過程すら省略し、お客様は倒れ込むように額を床に叩きつけていた。

「病院に入ることなら、僕がどうにでもします!!」

 張り裂けるような声が床を伝い、天井まで跳ね返る。僕は慌ててしゃがみ込み、彼の肩へ手を伸ばす。

「お客様、そんなことをされても……私たちにも、できることが――」

 腕を掴んで起こそうとする。しかし、びくともしない。

「お願いします。僕は、守らなければならない約束があります。僕を、嘘つきのままにしないでください。妻を、あんなふうに置いていかせないでください……!」

 涙が混じった震える声が、鼓膜を這い、頭の芯を揺さぶる。
 なぜだろう。この光景を、この絶望的な背中を、僕は前にも見たことがある気がする。
 考えに沈んだまま、呆然と彼の腕を掴んで固まっていると、すいさんが僕の肩を強く引いて、無理やり立たせた。そして低い声で言う。

「……お客様。私たちも可能な範囲で方法を探してみます。ただし、期待はしないでください。その点だけ、ご了承ください」
「方法って、何を――」

 反論しかけた、その瞬間。視界の隅に、短いメッセージが飛び込んできた。

『黙って、ついてきて』

 そして僕たちは逃げるように病室を飛び出した。
 背後から、声になりきらない嗚咽が聞こえる。その声は、分厚いドアを閉めたあとも、耳の奥に粘りついて離れなかった。

***

 昨日までやけに長く感じていた病室からの道が、今日はなぜかひどく短かった。気づけば僕は、もう病院の外に立っていた。

「それにしても、すいさん。方法って……本当にあるんですか?」

 隣を見て問いかけると、彼女はマフラーで目元まで深く隠し、その場でしゃがみ込んだ。もう一度、声をかけようとした瞬間、薄い震えがコート越しに伝わってくるのが分かって、僕は何も言えなくなる。ただ黙って隣に座り、彼女の背に手を置いた。
 どれくらい経っただろう。日が完全に沈み、雪が強まり、靴跡が残るほど積もりはじめた頃だった。
 そろそろ戻ろう、と声をかけようとした、そのタイミングで、すいさんが先に口を開いた。

「方法……ないわけじゃ、ない」
「え? さっきの、ただの建前じゃなくて、本気なんですか?」

 僕も既に頭の中でルートをいくつも引いてみた。でも、どれも数歩で壁にぶつかる。最初から出口なんて存在しない迷路だった。
 彼女はマフラーの隙間から、潤んだ片目だけを覗かせて僕を睨む。

「病院のことは……お客様がどうにかするって言った。そこは、信じるとして……残るのは、奥様の生命兆候(バイタルサイン)をどう誤魔化すか。それと、VRをどうやって用意するか」
「それは、僕も分かってますよ。それで生命兆候とVR、どうするんです?」

 小さく息を吐くと、すいさんはしばらく黙ってから言う。

「生命兆候は……頼める相手がいる。VRはたぶん、お前にしかできない」
「僕ですか? 無茶言わないでください。僕だってさっきから、いろんな方法を――」

 言いかけたところで、すいさんが食い気味に遮る。

「どんな方法?」
「うちの会社のVRとワールドは使えない。だから市販のVRを買って、市販のワールドを……って言いたいところですけど。僕らの職業で急にそれやったら、たぶんAIに検閲されます」

 空を見上げて、言葉を探す。間髪を入れずに、彼女が促す。

「それで?」
「じゃあ、違法に自作する。VR本体だけはどうにかしても、ワールドは、仮に割れで手に入れてもアバターの最適化がされてなくて……」

 初めてVRを組んだときのことが、ふいに蘇った。ろくに最適化もされていない、漂うだけの無料アバターで接続して、過負荷を起こし、強制終了。数日間、吐き気とえずきに追い立てられながら、ふらふらと歩き回った。
 大きく息を吸い、飲み込んでから言葉を絞り出す。

「つまり、奥様のアバター情報を抜き出すしかない。でも、それって結局、うちの会社に戻る話で……そこで詰むじゃないですか」
「……なんで詰むの?」
「だってデータ保管庫のセキュリティ、どれだけ厳しいか知ってるでしょ。関連エンジニアか、セキュリティ関係者でもないと入れないはず……」

 言いながらすいさんを見ると、彼女は姿勢ひとつ変えず、片目だけで僕を射抜いていた。

 ――エンジニア。

 その単語が、脳の奥にある開けてはいけない扉を無理やりこじ開ける。刹那、薄暗い部屋でヒーターもつけずに一人で丸まっている彩羽の姿が脳裏に閃いた。
 慌ててその思考に蓋をして、言葉でかき消すように口を開く。

「だめです。絶対。変なことをしたら、AIに即バレます。今回の案件、いくらだと思ってるんですか。AIに喧嘩を売るなんて……そんなの、正気の沙汰じゃないですよ!」

 首を振る僕を見て、すいさんはようやく、腕の間に沈めていた頭を持ち上げる。

「いるんだよ。そういうバカが」
「今、冗談言ってる場合じゃ――はぁ……」

 僕は一度口を閉じ、鼻筋を両手で擦ってから、もう一度言葉を継ぐ。

「仮にデータを抜けたとして、バレたら損害賠償で――まあ……僕は今とそう変わらないかもしれない。でも、もしそのせいで奥様が本当に亡くなって、しかも発覚したら……それは、刑務所ですよ」
「発覚しても、全部ボクがやったって言うよ。それなら?」

 横から流れ込んできた言葉に、僕は反射的に口を半開きにして、彼女を見る。

「は……? 正気ですか? 金持ちの心配なんかするんじゃないって自分で言ったくせに……なんで、すいさんが――」

 僕がそう言っている途中で、すいさんが僕の右手を引いた。彼女の赤く腫れた目尻に真っ白な雪が触れた途端に溶けて、透明な涙になって頬を伝った。

「咲くんがそんなふうにし続けてるのに……私が黙っていられると思ってるの?」

 言われて初めて、指先に熱を感じた。恐る恐る視線を落とす。いつの間にやったのだろう。人差し指の皮がぼろぼろに噛みちぎられ、鮮血が掌まで伝っていた。
 それでも僕は表情ひとつ動かさず、手を引っ込めてコートのポケットの奥へ押し込み、顔を背ける。

「気にしないでください。だからって、すいさんがリスクを背負う必要はありません」

 すると彼女は僕の両頬を掴み、強引に顔を正面へ戻させる。

「言い逃れしないで。で、お前は何がしたいの? そんなに苦しそうな顔、見たくない。ボクが手伝うから」
「僕は……」

 彼女の顔をまっすぐ見られなくて、言葉が途中で止まる。
 すいさんが急に立ち上がる。

「……ごめん。今、本社から報告に来いって。ボク、先に行かなきゃ」

 袖で目の下を何度か拭い、足元に置いてあった、ギアの入ったバッグへ手を伸ばす。

「一緒に行きます。重いでしょう」
「いい。お前がいないときだって、ボク一人で運んでた。この時間なら、タクシー乗ればいいし、お前は早く帰って休んで」

 そう言って彼女は、二つのバッグを両手に提げ、雪の中を歩き出した。華奢な身体が荷物の重さに傾ぎ、今にも倒れそうなのに、それでも一度も振り返らない。一歩、また一歩。雪を踏みしめながら、彼女は遠ざかっていく。
 頭では〈追いかけろ〉と叫んでいるのに、足の裏が地面に貼りついて動かない。

 みっともない。

 そう思いながら、しばらく同じ場所に座り、病院の玄関前に置かれた造花を眺めていた。雪の中でも赤だけは鮮やかで、色褪せることなく、やけに頑なにそこに残っている。

「はあ……」

 頭に渦巻く感情の澱(よど)みをいったん押し込んで、深く息を吐く。肩に積もった雪を払って立ち上がり、少し顔を傾けて横のホログラム掲示板を見る。

『第三世代AI医師導入・認証病院』

 続けて、どこでも見かける国のスローガンが流れる。

『すべての国民が公平に、秩序正しく。AI資本主義が牽引する、AI時代のリーダー、幸福な日本』

 僕はまた正面へ顔を戻す。遠くに広がる、色とりどりのネオンが夜空を照らしていた。
 しかし、どの光も体温を感じさせない。目が眩むほど鮮やかで、毒々しい化学色(ケミカルカラー)ばかりだった。
 AIに捨てられること。AIに決められた人生を生きること。
 そのどちらにも、幸福なんて見当たらない。
 僕らはただ、模造の草の上で咲いたふりをしている、哀しい偽花だった。