僕が書いた世界の果てで、君の幸せを問う

 病室の中は、昨日と九割以上同じだった。
 皺ひとつない、ぱりっと張ったベッドのシーツ。そして昨日と同じように、ただぼんやり宙を見つめる奥様。
 違いがあるとすれば……テーブルの上に、インコの絵が描かれたマグカップが三つ。中身は柚子茶。それから奥様の横の棚には、梅干しのギフト箱やクッキー缶が、奥様の横の棚を塞ぐように積み上げられている。その隣の小瓶に挿された薔薇は、昨日よりほんの少しだけ項垂(うなだ)れていた。
 そしてもうひとつ。お客様の肩が、昨日より落ちて見えた。

「昨日は……すみませんでした。娘のことで、こほん」

 お客様はマグカップの取っ手を何度もいじりながら、そこに視線を縫い付けたまま言う。

「いえいえ。こちらも当然、娘さんが不安に思われるのはもっともだと分かっています。むしろ、そういう心配が出るのは自然です」

 隣に座るすいさんが、微笑みながら落ち着いた声で答える。そのあとを、僕が引き取る。

「はい。だからこそ、私たちみたいな専門スタッフが同席して、接続中も随時モニタリングします。なので、必要以上に不安にならなくて大丈夫です」
「それなら、いいんですが……はは。こほん」

 お客様は小さく笑い、また咳をする。

「では今日も、よろしくお願いします」

 そう言って僕が頭を下げると、お客様は小さく頷いた。その反応を背に、柚子茶で身体を温める。それから、いつも通りギアのセッティングを終えた。
 椅子に腰を下ろし、ギアを装着してハーフダイブボタンを押す。

『ようこそ、スタジオ・ジェネシスへ』

 ――同期中の機器:四台
 ――接続可能ワールド:20571120_岩本様_G1192831

 視線でそのワールドをなぞり、選択する。

『管理者権限で実行しますか?』

 確認の問いに、もう一度だけ目で答える。
 ほどなく、見慣れた暗転が視界を覆う。
 二日目の始まりだ。僕たちはまた、優しい嘘の世界へ降りていった。

***

 第二の世界――小説『お前を殺さざるを得ない、終焉の世界にて』

 それは、未知の隕石〈エルドライト〉の衝突によって、人類がほとんど壊滅した近未来の東京。隕石の影響で動植物はおぞましい姿へ――変異体(バリアント)へと進化を遂げた。
 隕石から放たれる謎の波動が、電子機器さえ無力化し、文明は沈黙する。生き残った人類の希望は、エルドライトに感応するごく一部の者――感応者(イグナイター)に託されていた。
 感応者の少年・そらは、銀髪で正体不明――しかも失語症の少女・ことりと出会う。だが彼女と共にいるうち、そらは数々の事件に巻き込まれ、やがて命を落とす。
 そして目を覚ます。夢でしか見たことのない、瓦礫の下に咲く、幼い日のトラウマが染みついた薔薇園で。

***

 まぶたの隙間から、青い光が滲み込んでくる。

「……ん」

 視界の中で、あらゆるものが何重にもぶれて、少しずつ焦点が噛み合っていく。そして目に飛び込んできたのは、昨日とはまるで違う景色だった。
 緑は一欠片もない。周囲には、灰色に変色した建物の墓場が広がっている。ひび割れた壁。膝をつくように半壊した建物。崩れ方は、どれも違う。
 しかし、ひとつだけ共通点があった。
 建物をぎちぎちと締めつける、 巨大な樹(き)の幹の束。その幹を、血管の中の血みたいな青い光が、一定のリズムで脈打ちながら上下している。
 空は、今にも落ちてきそうな重さの濃い灰色。水を含みすぎた雲が、低く垂れこめている。肌に、ねっとりとした膜が張り付く。でも不思議と、嫌な感じはしなかった。別に暑いわけでもなく、むしろどこか暖かくて、胸の奥だけが、わずかにゆるんだ。

「……このワールド、小説で見たよりずっと陰気だね」

 隣に、すいさんがぬっと現れて言った。昨日と同じ姿、白い鳥の姿をした獣人の何か。その赤い瞳が、空を見上げている。

「ですよね……雨も降ってないのに、羽まで濡れてるみたいです。……って、今〈小説〉って言いました?」

 彼女の顔を覗き込むと、すいさんは目を合わせないまま視線を泳がせる。

「あ……うん! 終末がどうとかのやつ。明日のコンセプトになるって聞いたから、ちょっとだけ読んだ」
「……変だな。湿気った空と廃墟……この組み合わせなら、たしか三巻のはずだが」

 顎に手をやって小さく呟いた、そのとき。目の前を、深海の闇を含んだ紺青(こんじょう)の翅(はね)を持つ、僕の手のひらより大きな蝶が、ふわふわと揺れながら近づいてきた。
 間違いない。あれは〈花粉霊(かふんれい)〉だ。美しい粉塵をまき散らし、幾多(いくた)の市民の皮膚と骨を溶かして死へ導いた、死の蝶。

「あぶない!」

 言葉より先に身体が動いた。僕はすいさんを抱えるように覆い、花粉霊とは反対方向へ跳び、背中から床に叩きつけられる。

「な、なに!? どうしたの?」

 すいさんがぱっと起き上がり、目を丸くして僕を見下ろした。

「……え、えっと。変異体(バリアント)も危険じゃないようにって設計にお願いしてるので……たぶん、大丈夫だと思います」

 そのとき、横から低いのに妙に芯のある声が差し込んだ。お客様だ。
 昨日と同じ仮面、同じスーツ。そして相変わらず、左手の薬指を右手で撫でる癖を繰り返しながら、こちらへ歩いてくる。

「ははっ。す、すみません……」

 起き上がって、尻のあたりを払う。すいさんは片方の口角だけ上げ、目尻をすっと下げたままこちらを見ている。僕は視線を逸らし、何もついていないのにもう一度、尻を払った。
 それから三人で、気まずく立ち尽くす。奥様の到着を待つあいだ、僕はすいさんにメッセージを送る。

『今日、奥様……昨日より遅い気がするんですけど、大丈夫ですか?』

 すぐに返信が飛んでくる。

『数値は問題ない。でも二日連続だから、脳に負担がないわけじゃない。もう少し待ってみよう』

 読み終えた、その瞬間。五メートルほど先。何もないはずのコンクリートの上空に、光の粒がゆっくり集まりはじめ、やがて形を結ぶ。そして奥様が、静かに降りてくる。
 昨日と同じ白い半袖に、緑のパンツ。首には、かすかに青く光る小さな欠片のついたネックレス。髪はヘアクリップでまとめられ、陶器(とうき)みたいな顔の輪郭がはっきり出ている。
 奥様は道の真ん中で立ち尽くし、こちらを見た。唇がわずかに震え、左手はぎゅっと拳を握りしめ、右手は指でネックレスを撫でている。口で浅く息をし、両脚が小刻みに震えているのが見える。
 そこへ、お客様が一歩前へ出る。丁寧に手を差し出し、穏やかだが有無を言わせない声で言う。

「おはようございます、姫君。昨夜はよい夢をご覧になりましたか?」

 奥様はその手を五秒ほど見下ろし、そっと握る。

「……疲れすぎて、何も見てない。っていうか、全然寝れてない」
「それは失礼を……では今夜は、ご主人様にお願いして、眠りやすいよう睡眠薬を投与していただきましょうか」

 お客様は彼女の手を包み込むようにして言う。

「ううん、いい。眠るより、明日なにするか考えてたほうが楽しかった」

 奥様は目を細め、かすかに笑って続ける。

「だから今日は、もっと満足させてね。トトさん」
「もちろんでございます、姫君。本日も〈ピヨピヨツアー〉一同、全身全霊でお仕えいたします」

 その言葉を合図に、僕らはゆっくりと、建物の墓場のあいだへ歩き出した。

***

 僕は今日のスケジュール・ウィンドウを開き、予定を確認する。

 午前:薔薇園ツアー
 昼:巨大生エビ捕獲
 午後一時:変異体狩り・アドベンチャー

 シンプルだ。
 その三つの中で、いちばん最初に目を奪われたのは午前の薔薇園ツアーだった。あの小説で、何度も胸を締めつけられた場面の舞台。
 しばらく歩くと、延々と続いていた廃墟の終わりに、ぽっかりと開いた大きな空地が見えてきた。
 だだっ広い平地いっぱいに、見渡すかぎりの緑の海が広がっている。その上で、深い真紅の薔薇と、ほの白い薔薇が、凛(りん)と咲き、確かな存在感を放っている。
 そして不思議なことに、その空地の上だけ、雲が途切れていた。濃い灰色の空に、澄んだ穴がひとつ開いている。
 空地の真ん中には、半壊した軽自動車が一台、ぽつんと座り込んでいた。

「……わぁ!」

 空地の手前で、いちばん最初に声を漏らしたのは奥様だった。
 彼女は小走りで駆け出した。アスファルトと草むらの境目を越えたその瞬間、くすんで見えていた髪色が、光を含み、淡い黒の艶を取り戻す。
 彼女は、薔薇が密集する場所まで歩いていき、しゃがみこんでそっと目を閉じた。廃墟の空地に残るのは、彼女の呼吸と、草が風に撫でられて擦れ合う音だけ。
 そこへ、草を踏む足音が近づく。
 ざく、ざく、と柔らかい地面を確かめるような歩調で、お客様が歩み入ってくる。
 仮面をつけたスーツの男と、私服の若い女性。ありえないはずの組み合わせが、なのに、薔薇園の真ん中では、不思議と馴染んでいる。

「こちらの薔薇園、ご満足いただけましたか、姫様」

 お客様はしゃがみ、近くの赤い薔薇を一輪折る。そして、奥様の右耳のあたりへ差し込む。奥様は頭に触れ、薔薇の感触を指先で確かめてから、照れた笑みを浮かべる。

「うん! とても綺麗……」

 その光景に、僕は隣のすいさんへ声を落として話しかける。

「奥様、花……すごくお好きなんですね」
「そうだね。病室にも薔薇があったでしょ」

 言われて思い出す。ベッド脇の棚に、一輪だけ挿してあった薔薇。
 エルフの世界のネックレス。終焉の世界の薔薇。どちらも物語の中心を担う重要な小道具であり、そして現実の奥様のそばにもある。
 奥様が、お客様の小説を心から愛してくださったから? それとも……
 そんな思考の途中で、前方の奥様がこちらを振り向き、小さく手を振った。

「ピピちゃんも、こっち来て!」

(ピピ? 僕じゃないよな。僕は確かにププだったはず……)と思っていると、隣のすいさんが、もじもじしながら一歩前へ出た。

 いつの間に〈ピピちゃん〉って呼ばれる距離になったんだ。
 そうやって、すいさんが薔薇園へ吸い込まれていく。僕のつま先だけが、アスファルトと草地の境界線で、ぴたりと止まっていた。向こう側は鮮やかで、こちら側は色褪(いろあ)せている。

「ピピちゃん、ここ、座って」

 十メートルほど前で、奥様が自分の前を指し示しながら、すいさんの腕を引く。
 すいさんは照れた笑みを浮かべ、奥様の前にしゃがみこむ。

「ちょっと待ってね」

 奥様の指が、滑らかに動く。現実ではぴくりとも動かないはずの指先が、ここではためらいなく動いている。束を分け、編み込み、撫でつける。
 すいさんは、されるがままになっている。
 ほどなくして――

「できた! すっごく可愛い!」

 すいさんの髪は、もみあげから耳の後ろを通って細く編み込まれ、後ろでひとつにまとめられていた。白く編まれた髪が、頭の上で小さな月桂冠を描いている。

「それから、これも……」

 奥様は近くの赤い薔薇を一輪折り、すいさんの後ろ髪に挿した。
 それと同時に、音も、光も、背景も遠のいて、風ひとつないはずの空間ですいさんの髪だけが、さらり、さらりと揺れているように見えた。
 すいさんはなぜか下唇をかすかに噛み、眉間を寄せている。大きく澄んだ瞳は、普段よりもずっと透明で、その奥がゆらゆらと震えている。それでも彼女は、僕のほうへ顔を向け、両目をぎゅっと閉じて笑ってみせた。
 心臓が、急に速度を上げる。気づけば僕は指に力を込め、両手を固く組んでいた。

「……大丈夫、ピピちゃん?」

 奥様は、すいさんの顔を心配そうに覗き込みながら、肩に手を置く。

「……はい! 嬉しすぎて、ちょっとだけぼーっとしちゃいました。ボクもやってあげますね。えっと、でも……三つ編みはできなくてただのハーフアップでも、いいですか?」
「うん! お願い!」

 奥様はそう答えると、頭のヘアクリップを外し、髪を一度ぱさっと払ってから、背中をすいさんへ向けて座る。
 すいさんも同じように手を伸ばす。奥様の髪を掬い取り、指先を迷わせながら結び目を作っていく。しばらくして、黒い髪がきれいな輪を描いた。そして今度は、白い薔薇を一輪折り、奥様の後ろ髪へ静かに挿してあげる。

「……とても、お綺麗です」

 すいさんは口をわずかに開けたまま、奥様をじっと見つめる。

「ほんと? でもわたし、目も小さいし、背も低いし……」
「そんなことないです! ほんとに、ほんとにです! 今は奥さ……お姫様みたいな目が、すごく人気なんですよ!」

 もみあげの髪を指でいじっていた奥様の手を、すいさんは両手で包むように押さえ、きっぱりと言った。
 その頃、僕の隣にお客様が来て、建材の欠片に腰を下ろした。何も言わないまま。ただ、ぱっと笑みを浮かべて視線を奥様に釘づけにし、微動だにせず座っているだけ。

「……」

 気まずい。何か言わなきゃ、と思って、僕が先に口を開いた。

「奥様が楽しそうで……本当に、よかったですね」
「……はい」

 また沈黙。今度は、お客様のほうが先に言う。

「ひとつ……聞いてもいいですか」
「はい! もちろんです。僕でよければ」

 お客様は軽く頭を下げ、視線を自分の手元へ落としたまま言う。

「これまでお仕事をされてきて……記憶障害の患者さんが、VRをきっかけに記憶を取り戻した、そういうケースって、本当にあるんでしょうか」

 VRで記憶が戻った――そんな奇跡みたいな話なら、一年ほど前に、ニュースになっていたのを覚えている。でも、それはあくまで奇跡だ。少なくとも、僕が見てきた現場にはない。
 僕は五秒ほど黙り込み、それからゆっくりと口を開く。

「すみません。僕が担当したケースの中では、まだ……」
「やっぱり、そうですよね。すみません、変なことを聞いてしまって」
「いえ! 全然! こちらこそ、はっきり答えられなくて……すみません」

 小さく頭を下げるお客様に、僕は両手を胸の前で軽く振ってみせる。
 そして、花とは縁がなさそうな男ふたりは、崩れた建材の上から。薔薇園の中で、二輪の花が無邪気に笑い合う光景を、ただ黙って眺めていた。