「まぁた森本がやったらしいぜ」
「は? なに。いきなりどうした」
あまり欠席者が出ないうちのクラスに、珍しく空席がある。森本さんが普段座っている席は一番窓側の最前。一番前の席というのは、意外と目立たないらしい。その名を聞くまで森本さんが欠席していることにすら気づかなかった。
「やったって、なにを」
依弦の隣でコンビニの焼きそばパンを齧っている安田に尋ねる。まだ登校してきたばかりなのに、というのはこいつには通じない。基本的に安田はいつも何か食っている。口の中のものがなくなるまで待ってくれと制止され大人しく続きを待っていると、依弦が大きなため息をついた。
「どーせまたあれだろ」
「そうだよあれだよ」
「だからなんだよ」
自分だけが除け者にされている話題ほど面白くないものはない。
「4組の可愛い子いるじゃん。あの子の彼氏寝取ったらしい」
「……」
反応に困って依弦を見ると、右手人差し指のささくれを取ろうとしていた。完全に興味がない話への態度だ。しかもささくれを剥くのは怪我するからやめろと何度も言ったのに。ポケットから絆創膏を出して渡してやると、驚いたような顔をして小さく礼を言ってきた。
「てかなんでそれで森本さんが休むんだよ。やられた側ならまだしも」
「なんか……春日井って健康だよな」
「は?」
「そうだよ、泰斗は健康で健全なんだよ。女子の病みとか全く理解してくれなさそうなところがチャームポイントなんだよ。インスタのアイコン黒くなったらバグか? とか言うんだよ、きっと」
勝手にチャームポイントを決められた挙句、なにか馬鹿にされているような気がしてならない。それ以上説明はしてくれそうになかったし、まぁ興味もさほどない話題だったから深くまで追いかけずに諦めることにした。
だが、クラス中がやけにざわついている。ちらほら森本さんの名前も聞こえてくることから、その話題で持ち切りになっているのだろう。
あの日俺をからかってきた森本さんのことを思い出してみる。
まつげが長かったことくらいしか出てこなかった。
今日の日直は依弦だった。平時ならこれといって日直の仕事はないが、なにせ今は夏休みの課題配布ラッシュに突入している。課題の冊子を取りに行くのは大抵日直の仕事だし、日直が女子だった場合は手近なところにいる男子に声がかけられがちだ。
依弦は男子な上、癪だが俺という便利なお供を従えていると教師に認識されているせいでありとあらゆる課題の運搬役を任されてしまっていた。
放課後、明日配布予定の課題を取りに行くと依弦から言われ、もちろん俺に拒否権はなかったから仕方なくついてきた。
「なんかよぉ、人使い荒くねぇ? いくら泰斗がいるからってこれはあんまりだわ」
無賃労働反対! と職員室へ行くまでの階段で依弦が大きな声を出す。右腕を振り上げてずいぶんと様になっているが、抗議なら教師の前でやらないと意味がないだろう。無駄なエネルギーをこんなところで使うくらいなら温存して少しでも多くの荷物を運んでほしい。
依弦が階段を上がるのに合わせて、シャツの裾がひらりとはためく。尻側の裾をスラックスに入れこまずに、前だけ緩く入れている。曰く、それがおしゃれらしい。一度俺のシャツでも同じことをされたが、腰回りが華奢じゃないと似合わないなという結論に至り却下された。
「なぁ、森本さんのってそんなに揉めてんの?」
「いつまでその話してんだよ」
「……え、っ……!」
刹那、階段の途中で急に振り返った依弦がバランスを崩して倒れかかってくる。あまりに突然で予想もしていなかったことに心臓が大きくどくんと跳ね上がったが、身体は勝手に動いてくれた。
半分だけ足を踏み外した依弦の身体を受け止めても、長年鍛えた体幹のおかげで共倒れになることはなかった。ありがとうじいちゃん。まさかこんなところで筋トレが役に立つなんて思わなかった。
「あ、あぶねぇ……死ぬかと思った……」
「こっちのセリフだわ」
すぐに体勢を持ち直して一足先に依弦が踊り場に着いて、じっと俺を見下ろしてくる。束の間の俺の方が視線が低いこの瞬間が、依弦は気に入っていると前に話していたことを思い出す。
「てか、なんでそんなに森本が気になんの」
「なんでって、言われても」
依弦の後ろにある大きな窓から容赦なく日光がさしてきているせいで目が痛んだ。逆光で依弦がどんな表情をしているのかもよくわからない。けれど、その声に棘があることだけは、さすがの俺でもわかった。
「この前、森本さんに告白? されたんだよ」
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
上から叩きつけられるような大きな声。思わず周囲に人がいないか確認してしまった。どこかから声を聞きつけた人がトラブルかと思って駆けつけてこないか心配になって、咄嗟に依弦の口を手で塞いだがやめろと暴れられて、すぐに振り払われる。
「なぁおい! オレそれ聞いてないんだけど!!」
「言ってねぇからな」
「っだよそれ!!」
依弦の手に持っていた学級日誌で思い切り頭を叩かれた。
「ってーな! んだお前こそいきなりでけぇ声出しやがって! なんで全部おめーに言わねぇといけねんだ!」
久しぶりに腹から声を出した気がする。静かに漂っていた空気がびりびりと震えて、一瞬にして俺たちを緊張で包み込む。
「……いつのことだよ」
「依弦がくたばってたとき」
「……けっこう前じゃねぇか」
軽く舌打ちをし、茶色の髪をガシガシとかき混ぜる。
苛立っている時のクセだ。
「おわっ、」
突然手を引かれ、踊り場の隅に追いやられる。光に目をやられてしまって視界が暗い。目の前で俯いている依弦の顔はまだ見えない。なんで突然こんなに怒られなければならないのかわからず、俺も意地になって沈黙を貫く。
しばらく何の動きもないまま待っていると、強張って上がっていた依弦の肩からふ、と力が抜けた。
「返事、なんてしたの?」
駄々をこねたせいで親に置いていかれそうになった子どものような、頼りなくて同情を誘う声に、心が揺れる。
「ふつーに断ったよ」
ずっと足元を見ていた依弦の視線が上がり、目が合う。どれくらい時間が経ったのだろう、もうすっかり目は慣れていて、依弦の表情もよく見えるようになっていた。口元が、緩やかに弧を描いている。
「なんで断ったの。森本、かわいいって言われてるじゃん」
「しっくりこなかったんだよ。俺はお前と馬鹿やってる時の方が楽しいし、そもそもお前の世話すんので手いっぱいだっつの」
「……そっか」
そのまま何も言わず、依弦は俺に背を向けて階段を上がっていく。機嫌を損ねさせるようなことを言ってしまっただろうか。あれだけ声を荒げて舌打ちまでされたのに、急に大人しくなられると調子が狂ってしまう。
「今日、泰斗んち行っていい?」
突如襲ってきた居心地の悪さにどうしようかと頭を抱え始めたその時、パタパタと上靴が床を蹴る音に混ざって、控えめなお伺いが飛んできた。
「いいけど。親御さん心配しねぇの?」
「大丈夫。ちゃんと連絡入れてっから」
何事もなかったかのように、俺たちの会話は再開する。今までの人生で喧嘩らしい喧嘩をしたことがないせいで仲直りの仕方もわからないから、依弦のからっとした性格はありがたかった。
「お邪魔しまぁす」
「誰もいねぇよ」
もう勝手もわかったもので、ひとつの迷いもなく俺の先を歩いて、玄関に入る。手洗い場で手を洗うまではこの間と同じだったが、今日は俺が台所でお茶を淹れるところまでついてきた。
「んだよ」
「んー。今日は機嫌が良いからオレが運ぶ」
「落とすなよ」
「大丈夫だって」
「お前ならやりかねん」
ふたり分のグラスを載せたお盆をそっと依弦に渡す。いつも忙しないこいつのことだからどうせ歩いている途中に足をもつれさせて盛大にひっくり返すだろうと思っていたけれど、存外器用に運ぶものだ。愛想笑いさえ上手くできるのならレストランでのバイトも様になるかもしれない。
「じゃ、オレ寝るわ」
いつもの和室に腰を下ろしお茶を半分くらい一気に飲んだと思えば、すぐに畳めがけて横になった。すぅ、と大きく息を吸って「畳のにおいする〜」ととろけた顔をしている。
「頬くっつけてると跡つくぞ」
「そんなの勲章じゃん。むしろかっけーだろ」
依弦のよくわからない価値観は置いておくとして、なんだか今日は俺も眠い。テストが終わってあとは夏休みに入るのを待つだけのいま、腑抜けきっていた。
それに、今日は風が気持ちいい。和室に横になると庭の木がかさかさ揺れる音が耳に入ってくると同時に、少しだけ体温より冷たい風が肌を撫でる。こんな日に昼寝をしなかったら、きっと未来の俺は後悔するに違いない。
「俺も寝るわ。テキトーに起こして」
「珍しいじゃん。お前もやっと昼寝の大事さに気づいたか」
お茶を載せた折りたたみローテーブルを部屋の端に持っていく。ついでに押入れから座布団を2枚引っ張り出してきて枕にした。
「うわぁ……泰斗、ガチで寝にいくじゃん」
「寝る時は全力で寝るんだよ」
「マジで朝まで寝ちまいそう」
依弦の隣にどかりと寝転ぶ。
ちりん、と風鈴が揺れるのを合図に、目を閉じた。
「は? なに。いきなりどうした」
あまり欠席者が出ないうちのクラスに、珍しく空席がある。森本さんが普段座っている席は一番窓側の最前。一番前の席というのは、意外と目立たないらしい。その名を聞くまで森本さんが欠席していることにすら気づかなかった。
「やったって、なにを」
依弦の隣でコンビニの焼きそばパンを齧っている安田に尋ねる。まだ登校してきたばかりなのに、というのはこいつには通じない。基本的に安田はいつも何か食っている。口の中のものがなくなるまで待ってくれと制止され大人しく続きを待っていると、依弦が大きなため息をついた。
「どーせまたあれだろ」
「そうだよあれだよ」
「だからなんだよ」
自分だけが除け者にされている話題ほど面白くないものはない。
「4組の可愛い子いるじゃん。あの子の彼氏寝取ったらしい」
「……」
反応に困って依弦を見ると、右手人差し指のささくれを取ろうとしていた。完全に興味がない話への態度だ。しかもささくれを剥くのは怪我するからやめろと何度も言ったのに。ポケットから絆創膏を出して渡してやると、驚いたような顔をして小さく礼を言ってきた。
「てかなんでそれで森本さんが休むんだよ。やられた側ならまだしも」
「なんか……春日井って健康だよな」
「は?」
「そうだよ、泰斗は健康で健全なんだよ。女子の病みとか全く理解してくれなさそうなところがチャームポイントなんだよ。インスタのアイコン黒くなったらバグか? とか言うんだよ、きっと」
勝手にチャームポイントを決められた挙句、なにか馬鹿にされているような気がしてならない。それ以上説明はしてくれそうになかったし、まぁ興味もさほどない話題だったから深くまで追いかけずに諦めることにした。
だが、クラス中がやけにざわついている。ちらほら森本さんの名前も聞こえてくることから、その話題で持ち切りになっているのだろう。
あの日俺をからかってきた森本さんのことを思い出してみる。
まつげが長かったことくらいしか出てこなかった。
今日の日直は依弦だった。平時ならこれといって日直の仕事はないが、なにせ今は夏休みの課題配布ラッシュに突入している。課題の冊子を取りに行くのは大抵日直の仕事だし、日直が女子だった場合は手近なところにいる男子に声がかけられがちだ。
依弦は男子な上、癪だが俺という便利なお供を従えていると教師に認識されているせいでありとあらゆる課題の運搬役を任されてしまっていた。
放課後、明日配布予定の課題を取りに行くと依弦から言われ、もちろん俺に拒否権はなかったから仕方なくついてきた。
「なんかよぉ、人使い荒くねぇ? いくら泰斗がいるからってこれはあんまりだわ」
無賃労働反対! と職員室へ行くまでの階段で依弦が大きな声を出す。右腕を振り上げてずいぶんと様になっているが、抗議なら教師の前でやらないと意味がないだろう。無駄なエネルギーをこんなところで使うくらいなら温存して少しでも多くの荷物を運んでほしい。
依弦が階段を上がるのに合わせて、シャツの裾がひらりとはためく。尻側の裾をスラックスに入れこまずに、前だけ緩く入れている。曰く、それがおしゃれらしい。一度俺のシャツでも同じことをされたが、腰回りが華奢じゃないと似合わないなという結論に至り却下された。
「なぁ、森本さんのってそんなに揉めてんの?」
「いつまでその話してんだよ」
「……え、っ……!」
刹那、階段の途中で急に振り返った依弦がバランスを崩して倒れかかってくる。あまりに突然で予想もしていなかったことに心臓が大きくどくんと跳ね上がったが、身体は勝手に動いてくれた。
半分だけ足を踏み外した依弦の身体を受け止めても、長年鍛えた体幹のおかげで共倒れになることはなかった。ありがとうじいちゃん。まさかこんなところで筋トレが役に立つなんて思わなかった。
「あ、あぶねぇ……死ぬかと思った……」
「こっちのセリフだわ」
すぐに体勢を持ち直して一足先に依弦が踊り場に着いて、じっと俺を見下ろしてくる。束の間の俺の方が視線が低いこの瞬間が、依弦は気に入っていると前に話していたことを思い出す。
「てか、なんでそんなに森本が気になんの」
「なんでって、言われても」
依弦の後ろにある大きな窓から容赦なく日光がさしてきているせいで目が痛んだ。逆光で依弦がどんな表情をしているのかもよくわからない。けれど、その声に棘があることだけは、さすがの俺でもわかった。
「この前、森本さんに告白? されたんだよ」
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
上から叩きつけられるような大きな声。思わず周囲に人がいないか確認してしまった。どこかから声を聞きつけた人がトラブルかと思って駆けつけてこないか心配になって、咄嗟に依弦の口を手で塞いだがやめろと暴れられて、すぐに振り払われる。
「なぁおい! オレそれ聞いてないんだけど!!」
「言ってねぇからな」
「っだよそれ!!」
依弦の手に持っていた学級日誌で思い切り頭を叩かれた。
「ってーな! んだお前こそいきなりでけぇ声出しやがって! なんで全部おめーに言わねぇといけねんだ!」
久しぶりに腹から声を出した気がする。静かに漂っていた空気がびりびりと震えて、一瞬にして俺たちを緊張で包み込む。
「……いつのことだよ」
「依弦がくたばってたとき」
「……けっこう前じゃねぇか」
軽く舌打ちをし、茶色の髪をガシガシとかき混ぜる。
苛立っている時のクセだ。
「おわっ、」
突然手を引かれ、踊り場の隅に追いやられる。光に目をやられてしまって視界が暗い。目の前で俯いている依弦の顔はまだ見えない。なんで突然こんなに怒られなければならないのかわからず、俺も意地になって沈黙を貫く。
しばらく何の動きもないまま待っていると、強張って上がっていた依弦の肩からふ、と力が抜けた。
「返事、なんてしたの?」
駄々をこねたせいで親に置いていかれそうになった子どものような、頼りなくて同情を誘う声に、心が揺れる。
「ふつーに断ったよ」
ずっと足元を見ていた依弦の視線が上がり、目が合う。どれくらい時間が経ったのだろう、もうすっかり目は慣れていて、依弦の表情もよく見えるようになっていた。口元が、緩やかに弧を描いている。
「なんで断ったの。森本、かわいいって言われてるじゃん」
「しっくりこなかったんだよ。俺はお前と馬鹿やってる時の方が楽しいし、そもそもお前の世話すんので手いっぱいだっつの」
「……そっか」
そのまま何も言わず、依弦は俺に背を向けて階段を上がっていく。機嫌を損ねさせるようなことを言ってしまっただろうか。あれだけ声を荒げて舌打ちまでされたのに、急に大人しくなられると調子が狂ってしまう。
「今日、泰斗んち行っていい?」
突如襲ってきた居心地の悪さにどうしようかと頭を抱え始めたその時、パタパタと上靴が床を蹴る音に混ざって、控えめなお伺いが飛んできた。
「いいけど。親御さん心配しねぇの?」
「大丈夫。ちゃんと連絡入れてっから」
何事もなかったかのように、俺たちの会話は再開する。今までの人生で喧嘩らしい喧嘩をしたことがないせいで仲直りの仕方もわからないから、依弦のからっとした性格はありがたかった。
「お邪魔しまぁす」
「誰もいねぇよ」
もう勝手もわかったもので、ひとつの迷いもなく俺の先を歩いて、玄関に入る。手洗い場で手を洗うまではこの間と同じだったが、今日は俺が台所でお茶を淹れるところまでついてきた。
「んだよ」
「んー。今日は機嫌が良いからオレが運ぶ」
「落とすなよ」
「大丈夫だって」
「お前ならやりかねん」
ふたり分のグラスを載せたお盆をそっと依弦に渡す。いつも忙しないこいつのことだからどうせ歩いている途中に足をもつれさせて盛大にひっくり返すだろうと思っていたけれど、存外器用に運ぶものだ。愛想笑いさえ上手くできるのならレストランでのバイトも様になるかもしれない。
「じゃ、オレ寝るわ」
いつもの和室に腰を下ろしお茶を半分くらい一気に飲んだと思えば、すぐに畳めがけて横になった。すぅ、と大きく息を吸って「畳のにおいする〜」ととろけた顔をしている。
「頬くっつけてると跡つくぞ」
「そんなの勲章じゃん。むしろかっけーだろ」
依弦のよくわからない価値観は置いておくとして、なんだか今日は俺も眠い。テストが終わってあとは夏休みに入るのを待つだけのいま、腑抜けきっていた。
それに、今日は風が気持ちいい。和室に横になると庭の木がかさかさ揺れる音が耳に入ってくると同時に、少しだけ体温より冷たい風が肌を撫でる。こんな日に昼寝をしなかったら、きっと未来の俺は後悔するに違いない。
「俺も寝るわ。テキトーに起こして」
「珍しいじゃん。お前もやっと昼寝の大事さに気づいたか」
お茶を載せた折りたたみローテーブルを部屋の端に持っていく。ついでに押入れから座布団を2枚引っ張り出してきて枕にした。
「うわぁ……泰斗、ガチで寝にいくじゃん」
「寝る時は全力で寝るんだよ」
「マジで朝まで寝ちまいそう」
依弦の隣にどかりと寝転ぶ。
ちりん、と風鈴が揺れるのを合図に、目を閉じた。


