半月ほど調子が悪かった依弦は倒れた日を境に、まるでそんなことなんてなかったかのように奇跡の回復を遂げた。目の下のクマは、まだ少しだけ残っているけれど。
「おい健太郎!! お前かよオレの机の中にレイピア入れたの!」
「傑作だろ? 依弦そういうの好きかと思ってさ。クソ硬いの作ってやったからそれ使って鬼の塚本倒してくれよ」
「剣抜いた瞬間首飛ばされて終わりだわ。またデザイン性高すぎるのが腹立つんだよな。この美大志望がよ」
ぎゃん! と教室に響く声に思わず耳を塞ぐ。やかましすぎてあの時の依弦と足して2で割ってもらいたい。美術の時間に織田が新聞紙で作っていた細長いものがまさか依弦へのプレゼントだとは思わなかった。机の中には他にも差出人は不明だがグミやガム、カリカリ梅などのお菓子が入れられていて、クラスメイトがそれなりに依弦を心配していたことがわかった。
依弦は織田特製レイピアを教室の後ろの黒板に立てかけ『勇者健太郎より賜ひし宝物』とチョークで書き記した。本当にバカだ。それで喜んでいる織田も織田だが。
「また怒られるぞ」
「いーのいーの。たぶん盛岡とかああいうの好きだし」
「なんでそんなの知ってんだよ」
「あいつの筆箱、修学旅行で買うような剣のキーホルダーついてた」
担任の化学教師の持ち物を把握しているのも依弦らしい。
実際このあと、盛岡先生がやってきて織田特製レイピアを見て大興奮していた。あまりの出来の良さに感激して「先生がもらってもいいか?」と持ち去られていったが、あれは本当に欲しかったのか体の良い没収かどちらなんだろう。
「泰斗、今日お前んち行っていい?」
終礼後、背中を突かれたと思ったら依弦からこれまで聞いたことのないお伺いがたてられて耳を疑った。
テストが迫っていて部活は休みだし、弟は修学旅行から今日戻ってくるが、帰ってくるのは今日の18時頃だと言っていた。母親も父親も仕事が繁忙期らしく帰りは遅いから、突然の訪問を断る理由はこれっぽちもない。俺ひとりがいるには、あの家は広すぎる。
「まぁ……いいけど」
「やりぃ。あんがと」
依弦は鼻歌を歌いながらがさごそと机の中を漁り、帰宅の準備をする。こいつは歌も上手くて片手間の鼻歌でも音程を外すことがない。何かひとつ壊滅的にできないことはないのかと血眼になって探したが、指パッチンができないとかいうどうでもいいものしか出てこなかった。
「つか、俺んち来て何すんだよ」
「え、勉強。あと昼寝もさせて。こないだの和室で」
連れ立って校舎を出る。テスト前で大半の部活が活動停止期間に入っているのもあって、下駄箱が混み合っていた。依弦の靴箱はよりにも寄って棚の一番上だ。俺は近いところにある自分の靴を取って履き替えてから、他の人たちの頭を越えるために少し手を伸ばして依弦の靴を取ってやる。底の薄い赤色のハイカットスニーカー。依弦の家の場所を知った今、よくこんなクッション性のない靴で長距離を歩いて足を痛めないなと感心してしまう。
小さな声で礼を言って靴を受け取った依弦が俯いて肩を震わせる。
「んだよ」
「いや……っ、お前、でか……」
「今に始まったことじゃねぇだろ。何笑ってんだ」
「んー? いやぁ急にツボったわ」
ヒーと涙を浮かべながら笑っているが、何がそんなに面白かったのかが本当にわからない。俺は誰に何を言われようと下駄箱よりも背は高いし、自販機よりもデカい。
「まぁまぁそんなカッカしなさんな。王子様みたいでかっこよかったよ、泰斗くん」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ」
靴の踵をしっかりと整えて、依弦が歩き始める。上靴の踵は容赦なく踏むくせに、スニーカーの踵は整えるのか。その優しさを少しでも上靴に分けてやったらどうだ。
俺の少し前を依弦が歩く。たまに家の前まで来ていたからか、俺の先導がなくても迷いなく歩を進めている。我が物顔で勇ましく俺の自宅までの道を歩いているのがおかしくて、今度は俺が噴き出してしまう番だった。
「なんだよ、泰斗」
「いや、急にツボった」
「はー? 意味わかんねぇこと言うな。熱中症で脳みそ茹だったんじゃね?」
「なんだ、自己紹介か?」
依弦がいなかった半月ほど、たくさんの人と話したけれど、こんなに遠慮なく言葉をぶつけられることはなかった。光を受けて一部がほぼ金に輝く茶髪が、ふよふよと揺れる。
俺は、たぶん寂しかったのだ。
依弦には絶対に言わないけれど。
「お邪魔しまぁす」
「誰もいねぇよ」
「うわ、なんかそのセリフ生々しいからやめてくんね。今日親いないからのやつじゃん」
いちいち揚げ足を取ってくる男だ。玄関で脱いだ靴を丁寧に揃えて、「手洗い場どこ」と俺を急かしてくる。家に帰ったらまず先に手を洗う育ちの良さはあるのか。なにせ家の構造が少し入り組んでいるのもあって説明するのが面倒だったから、依弦を連れて洗面台へ行く。
「お前んちでかくない? お屋敷みたい」
「じいちゃんから譲り受けたんだよ。別に金持ちってわけじゃない」
「ほぉん」
「田舎特有のなぜか無駄にデカい土地を持っているっていうあれだよ」
ハンドソープの桃の香りが鼻に流れ込んでくる。手を洗い終わって満足げな依弦をこの間の和室へと案内する。学校でのはしゃぎようはどこへやら、妙に静かに俺のあとをついてきた。
「お茶いれてくるから待ってろ」
「うい。さんきゅ」
カバンを置いて台所へと移動する。コーヒーやら紅茶やら尋ねてもよかったが、それほど丁重にもてなさないといけない相手でもあるまいし。そもそも俺はコーヒーも紅茶も飲めないから作り方も知らない。冷たい麦茶をグラスに入れて、お盆に載せて運んでいく。和室に着くと、依弦は部屋の真ん中で大の字になって目を瞑っていた。
あの日のような苦しそうな表情ではなく、穏やかな寝顔。
大きな目は閉じられて、小さな口は半分ほど開いている。
和室の隅に置いていた折りたたみの机を出してそっとお茶の載ったお盆を置く。
グラスに入ったお茶を半分ほど一気に飲むと、胸の辺りに冷えた水分がじわじわ落ちていくのがわかった。
カバンからテキストとノートを取り出して、ひとまずはテスト初日の数学の時に提出しなければいけない課題を終わらせることにした。
カリカリと進んでいくシャーペン。風に煽られて、廊下の梁に吊るされた風鈴が軽い音を立てる。軽いガラスと金属が擦れ合う音が心臓の奥の方に溜まっていた熱を吸収してくれて、身体が軽くなった。
5ページほど進んだところでつまずいて、ペンが止まる。それを狙っていたかのように、依弦がのそりと上体を起こした。
「なに、わかんないとこあるの」
「寝てたんじゃねぇのかよ」
「おう。びっくりするくらいぐっすりだったわ」
ごろつく目を擦りながら俺からテキストを奪って、俺の拙い途中式を追い始める。途中何かを書き込んだかと思えば、机に置いていた俺の教科書をぺらぺらと手繰る。見せられたページの端の方にほとんど同じと言っていいくらい似た類題があった。
「相変わらずすげー記憶力だな」
「まぁな。いつでも訊いて」
もそもそと机のところまで寄ってきて、麦茶に手を伸ばす。すっかり汗をかいているグラスが傾けられ、控えめな喉仏が数回上下した。
「寝るなって言われるかと思ったのに」
グラスには3分の1ほど飴色が残っている。まだ眠いのか半分ほどしか目が開いていない。こいつの顔をこんなにも間近で見たのはいつぶりだろう。麦茶で湿った唇。寝起きで少し柔らかくなった声。どうにも見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線がテキストの方へ逃げてしまう。
「別に。ゆっくりしていけば」
「……やさしーな、お前」
ふっと柔らかく微笑んだ依弦が、俺の肩にもたれかかってくる。
茶色の髪が、半袖から覗いた俺の腕を優しく撫でた。
「寝るなら床で寝ろ。暑い」
「えー、けち。いいじゃんかちょっとくらい」
目の下のクマは完全に消えたわけではない。一番不調だった時期を抜けたというだけで、まだ身体は本調子ではないはずだ。それでも学校に来ている以上は気丈に振る舞って、みんなから求められる木爪依弦を全力でやっている。面白おかしく反応していたが、本当は心配されることも、気を遣われることも嫌いなんだろう。
依弦の頭が胡座をかいて座る俺の太もものすぐそばに落ち着いた。触れているわけではないのに、空気を隔ててほんのりと生きた人間の熱を感じる。
身体は厄介だ。持ち主の許可も得ずに、勝手に動いてしまう。
「なに。暑いんじゃなかったの」
「暑いよ。だから近づくな」
「人の頭撫でといてそれはねぇだろ」
いつも依弦が動くのに合わせて揺れている髪は案の定柔らかくて、すり寄ってくる猫のように指に絡みついてくる。
別に、触りたかったわけじゃない。依弦を遠ざけようとしたのだと言い訳をしてしまえばよかっただけの話なのに。
こいつと出会ってからの夏は嫌いだ。暑いから近づいてほしくないのに、近くにいないと不安でたまらない。やり場のない感情は一向に片付かない。いつでも手の届くところにいてくれなんて、そんなこと言えるはずなかった。
「お前、手もでかいんだよな」
「依弦の手が小さいんだよ」
ふ、と依弦の腕が宙に伸びて、半分ほど身体を起こす。俺の手が取られたと思えば、小さなてのひらが俺の手に重ねられた。
「関節ひとつ分。前と変わんないな」
手の大きさを比べるのは二度目だ。手の大きさなんてそうそう変わるものじゃない。やっぱり、女子と違って柔らかくもなければ、吸い付いてくるような感覚もない。それでも、この温度に安心してしまう。
指間に依弦の指が落ちてくる。絡められた指がくすぐったくて、思わず息を呑んだ。
「泰斗、くすぐったがりすぎねぇ?」
「……べつに」
「嘘つけ」
前髪から覗くくっきりとした二重瞼の目。その瞳がやけに鋭くて身体が固まってしまう。いわゆる恋人繋ぎのような状態で依弦が指を動かすたび、さらに肌と肌が密着していく。
「い、いいから寝てろよ。起こしてやるから」
「泰斗も寝ろよ。昼寝大事だぞー」
「俺はいい」
ぱっと手を離して、依弦はまた畳へ寝そべる。ちりん、と風鈴の音が鳴ったのを合図に、依弦は目を閉じた。
「兄ちゃん、そろそろ起きな」
聞き慣れた弟の声が耳をつく。そういや、夕方頃に修学旅行から帰ってくる予定だったな。返事をしようにも喉が渇いて、掠れた声を絞り出すので精いっぱいだった。目を開ける。辺りはすでに紺色に染まっていて、昼間の太陽は暑さの代わりに肌寒さを連れてきたらしい。
「……俺寝てたのか……」
「びっくりしたよ。靴あるから家にいるのはわかってたけど部屋にいないから探した。こんなとこでひっくり返って、死んでるのかと思っちゃったよ」
「すまん……ありがとう」
修学旅行で海外へ行っていた優斗と顔を合わせるのは実に4日ぶりだ。帰ってきたら会話の端々に英語が混ざって、大げさなボディランゲージをするようになるんじゃないかと母親からからかわれて旅行に行ったが、4日ではさすがに海外かぶれはしないらしい。いつも通りの優しい話し方をする弟だ。
「ねぇ、その人、この前も来てたよね? ずいぶん仲良さそうじゃん」
「え……うわっ!! ちょ、依弦……」
しゃがみ込んだ優斗が指を差した先には、俺の手をがっちりと握る依弦がいた。俺がまだ勉強をしていた時から寝ていたからもうかれこれ3時間ほどは眠っているらしい。規則正しい呼吸が続いている。
「仲が良いのはいいことだよ」
「ま……まぁ。いや、違う。そういうんじゃ」
「何も言ってないよ。友だちさん、ご飯うちで食べていくの?」
「いや、家帰る……」
俺に向けて尋ねられたことだったはずなのに、隣からふにゃりとした中低音が返ってくる。
「わぉ、起きてた」
「すまん……お世話になってます……木爪依弦です」
「こんばんは。春日井優斗です。泰斗の弟です」
「こないだも面倒かけて悪かった。ありがと」
「いえいえこちらこそ。ゆっくり寝れましたか?」
俺抜きでぽんぽんと会話が進んでいく。基本的に人見知りをしないふたりだ、何も心配することはないけれど、少しくらいは俺から紹介させてもらってもいいんじゃないか。
「てか依弦、手離せ」
「あーごめん。あったかくてつい」
「兄ちゃん手ぬくいよね。筋肉のおかげなのかな」
「でかいしぬくいし、いいよな、クマみたいで」
「褒めてないだろ」
熱が触れていたところに、すぅと風が通り抜けていく。
もう少し、握っておきたかったとは言わないけれど。
「おい健太郎!! お前かよオレの机の中にレイピア入れたの!」
「傑作だろ? 依弦そういうの好きかと思ってさ。クソ硬いの作ってやったからそれ使って鬼の塚本倒してくれよ」
「剣抜いた瞬間首飛ばされて終わりだわ。またデザイン性高すぎるのが腹立つんだよな。この美大志望がよ」
ぎゃん! と教室に響く声に思わず耳を塞ぐ。やかましすぎてあの時の依弦と足して2で割ってもらいたい。美術の時間に織田が新聞紙で作っていた細長いものがまさか依弦へのプレゼントだとは思わなかった。机の中には他にも差出人は不明だがグミやガム、カリカリ梅などのお菓子が入れられていて、クラスメイトがそれなりに依弦を心配していたことがわかった。
依弦は織田特製レイピアを教室の後ろの黒板に立てかけ『勇者健太郎より賜ひし宝物』とチョークで書き記した。本当にバカだ。それで喜んでいる織田も織田だが。
「また怒られるぞ」
「いーのいーの。たぶん盛岡とかああいうの好きだし」
「なんでそんなの知ってんだよ」
「あいつの筆箱、修学旅行で買うような剣のキーホルダーついてた」
担任の化学教師の持ち物を把握しているのも依弦らしい。
実際このあと、盛岡先生がやってきて織田特製レイピアを見て大興奮していた。あまりの出来の良さに感激して「先生がもらってもいいか?」と持ち去られていったが、あれは本当に欲しかったのか体の良い没収かどちらなんだろう。
「泰斗、今日お前んち行っていい?」
終礼後、背中を突かれたと思ったら依弦からこれまで聞いたことのないお伺いがたてられて耳を疑った。
テストが迫っていて部活は休みだし、弟は修学旅行から今日戻ってくるが、帰ってくるのは今日の18時頃だと言っていた。母親も父親も仕事が繁忙期らしく帰りは遅いから、突然の訪問を断る理由はこれっぽちもない。俺ひとりがいるには、あの家は広すぎる。
「まぁ……いいけど」
「やりぃ。あんがと」
依弦は鼻歌を歌いながらがさごそと机の中を漁り、帰宅の準備をする。こいつは歌も上手くて片手間の鼻歌でも音程を外すことがない。何かひとつ壊滅的にできないことはないのかと血眼になって探したが、指パッチンができないとかいうどうでもいいものしか出てこなかった。
「つか、俺んち来て何すんだよ」
「え、勉強。あと昼寝もさせて。こないだの和室で」
連れ立って校舎を出る。テスト前で大半の部活が活動停止期間に入っているのもあって、下駄箱が混み合っていた。依弦の靴箱はよりにも寄って棚の一番上だ。俺は近いところにある自分の靴を取って履き替えてから、他の人たちの頭を越えるために少し手を伸ばして依弦の靴を取ってやる。底の薄い赤色のハイカットスニーカー。依弦の家の場所を知った今、よくこんなクッション性のない靴で長距離を歩いて足を痛めないなと感心してしまう。
小さな声で礼を言って靴を受け取った依弦が俯いて肩を震わせる。
「んだよ」
「いや……っ、お前、でか……」
「今に始まったことじゃねぇだろ。何笑ってんだ」
「んー? いやぁ急にツボったわ」
ヒーと涙を浮かべながら笑っているが、何がそんなに面白かったのかが本当にわからない。俺は誰に何を言われようと下駄箱よりも背は高いし、自販機よりもデカい。
「まぁまぁそんなカッカしなさんな。王子様みたいでかっこよかったよ、泰斗くん」
「なに寝ぼけたこと言ってんだ」
靴の踵をしっかりと整えて、依弦が歩き始める。上靴の踵は容赦なく踏むくせに、スニーカーの踵は整えるのか。その優しさを少しでも上靴に分けてやったらどうだ。
俺の少し前を依弦が歩く。たまに家の前まで来ていたからか、俺の先導がなくても迷いなく歩を進めている。我が物顔で勇ましく俺の自宅までの道を歩いているのがおかしくて、今度は俺が噴き出してしまう番だった。
「なんだよ、泰斗」
「いや、急にツボった」
「はー? 意味わかんねぇこと言うな。熱中症で脳みそ茹だったんじゃね?」
「なんだ、自己紹介か?」
依弦がいなかった半月ほど、たくさんの人と話したけれど、こんなに遠慮なく言葉をぶつけられることはなかった。光を受けて一部がほぼ金に輝く茶髪が、ふよふよと揺れる。
俺は、たぶん寂しかったのだ。
依弦には絶対に言わないけれど。
「お邪魔しまぁす」
「誰もいねぇよ」
「うわ、なんかそのセリフ生々しいからやめてくんね。今日親いないからのやつじゃん」
いちいち揚げ足を取ってくる男だ。玄関で脱いだ靴を丁寧に揃えて、「手洗い場どこ」と俺を急かしてくる。家に帰ったらまず先に手を洗う育ちの良さはあるのか。なにせ家の構造が少し入り組んでいるのもあって説明するのが面倒だったから、依弦を連れて洗面台へ行く。
「お前んちでかくない? お屋敷みたい」
「じいちゃんから譲り受けたんだよ。別に金持ちってわけじゃない」
「ほぉん」
「田舎特有のなぜか無駄にデカい土地を持っているっていうあれだよ」
ハンドソープの桃の香りが鼻に流れ込んでくる。手を洗い終わって満足げな依弦をこの間の和室へと案内する。学校でのはしゃぎようはどこへやら、妙に静かに俺のあとをついてきた。
「お茶いれてくるから待ってろ」
「うい。さんきゅ」
カバンを置いて台所へと移動する。コーヒーやら紅茶やら尋ねてもよかったが、それほど丁重にもてなさないといけない相手でもあるまいし。そもそも俺はコーヒーも紅茶も飲めないから作り方も知らない。冷たい麦茶をグラスに入れて、お盆に載せて運んでいく。和室に着くと、依弦は部屋の真ん中で大の字になって目を瞑っていた。
あの日のような苦しそうな表情ではなく、穏やかな寝顔。
大きな目は閉じられて、小さな口は半分ほど開いている。
和室の隅に置いていた折りたたみの机を出してそっとお茶の載ったお盆を置く。
グラスに入ったお茶を半分ほど一気に飲むと、胸の辺りに冷えた水分がじわじわ落ちていくのがわかった。
カバンからテキストとノートを取り出して、ひとまずはテスト初日の数学の時に提出しなければいけない課題を終わらせることにした。
カリカリと進んでいくシャーペン。風に煽られて、廊下の梁に吊るされた風鈴が軽い音を立てる。軽いガラスと金属が擦れ合う音が心臓の奥の方に溜まっていた熱を吸収してくれて、身体が軽くなった。
5ページほど進んだところでつまずいて、ペンが止まる。それを狙っていたかのように、依弦がのそりと上体を起こした。
「なに、わかんないとこあるの」
「寝てたんじゃねぇのかよ」
「おう。びっくりするくらいぐっすりだったわ」
ごろつく目を擦りながら俺からテキストを奪って、俺の拙い途中式を追い始める。途中何かを書き込んだかと思えば、机に置いていた俺の教科書をぺらぺらと手繰る。見せられたページの端の方にほとんど同じと言っていいくらい似た類題があった。
「相変わらずすげー記憶力だな」
「まぁな。いつでも訊いて」
もそもそと机のところまで寄ってきて、麦茶に手を伸ばす。すっかり汗をかいているグラスが傾けられ、控えめな喉仏が数回上下した。
「寝るなって言われるかと思ったのに」
グラスには3分の1ほど飴色が残っている。まだ眠いのか半分ほどしか目が開いていない。こいつの顔をこんなにも間近で見たのはいつぶりだろう。麦茶で湿った唇。寝起きで少し柔らかくなった声。どうにも見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず視線がテキストの方へ逃げてしまう。
「別に。ゆっくりしていけば」
「……やさしーな、お前」
ふっと柔らかく微笑んだ依弦が、俺の肩にもたれかかってくる。
茶色の髪が、半袖から覗いた俺の腕を優しく撫でた。
「寝るなら床で寝ろ。暑い」
「えー、けち。いいじゃんかちょっとくらい」
目の下のクマは完全に消えたわけではない。一番不調だった時期を抜けたというだけで、まだ身体は本調子ではないはずだ。それでも学校に来ている以上は気丈に振る舞って、みんなから求められる木爪依弦を全力でやっている。面白おかしく反応していたが、本当は心配されることも、気を遣われることも嫌いなんだろう。
依弦の頭が胡座をかいて座る俺の太もものすぐそばに落ち着いた。触れているわけではないのに、空気を隔ててほんのりと生きた人間の熱を感じる。
身体は厄介だ。持ち主の許可も得ずに、勝手に動いてしまう。
「なに。暑いんじゃなかったの」
「暑いよ。だから近づくな」
「人の頭撫でといてそれはねぇだろ」
いつも依弦が動くのに合わせて揺れている髪は案の定柔らかくて、すり寄ってくる猫のように指に絡みついてくる。
別に、触りたかったわけじゃない。依弦を遠ざけようとしたのだと言い訳をしてしまえばよかっただけの話なのに。
こいつと出会ってからの夏は嫌いだ。暑いから近づいてほしくないのに、近くにいないと不安でたまらない。やり場のない感情は一向に片付かない。いつでも手の届くところにいてくれなんて、そんなこと言えるはずなかった。
「お前、手もでかいんだよな」
「依弦の手が小さいんだよ」
ふ、と依弦の腕が宙に伸びて、半分ほど身体を起こす。俺の手が取られたと思えば、小さなてのひらが俺の手に重ねられた。
「関節ひとつ分。前と変わんないな」
手の大きさを比べるのは二度目だ。手の大きさなんてそうそう変わるものじゃない。やっぱり、女子と違って柔らかくもなければ、吸い付いてくるような感覚もない。それでも、この温度に安心してしまう。
指間に依弦の指が落ちてくる。絡められた指がくすぐったくて、思わず息を呑んだ。
「泰斗、くすぐったがりすぎねぇ?」
「……べつに」
「嘘つけ」
前髪から覗くくっきりとした二重瞼の目。その瞳がやけに鋭くて身体が固まってしまう。いわゆる恋人繋ぎのような状態で依弦が指を動かすたび、さらに肌と肌が密着していく。
「い、いいから寝てろよ。起こしてやるから」
「泰斗も寝ろよ。昼寝大事だぞー」
「俺はいい」
ぱっと手を離して、依弦はまた畳へ寝そべる。ちりん、と風鈴の音が鳴ったのを合図に、依弦は目を閉じた。
「兄ちゃん、そろそろ起きな」
聞き慣れた弟の声が耳をつく。そういや、夕方頃に修学旅行から帰ってくる予定だったな。返事をしようにも喉が渇いて、掠れた声を絞り出すので精いっぱいだった。目を開ける。辺りはすでに紺色に染まっていて、昼間の太陽は暑さの代わりに肌寒さを連れてきたらしい。
「……俺寝てたのか……」
「びっくりしたよ。靴あるから家にいるのはわかってたけど部屋にいないから探した。こんなとこでひっくり返って、死んでるのかと思っちゃったよ」
「すまん……ありがとう」
修学旅行で海外へ行っていた優斗と顔を合わせるのは実に4日ぶりだ。帰ってきたら会話の端々に英語が混ざって、大げさなボディランゲージをするようになるんじゃないかと母親からからかわれて旅行に行ったが、4日ではさすがに海外かぶれはしないらしい。いつも通りの優しい話し方をする弟だ。
「ねぇ、その人、この前も来てたよね? ずいぶん仲良さそうじゃん」
「え……うわっ!! ちょ、依弦……」
しゃがみ込んだ優斗が指を差した先には、俺の手をがっちりと握る依弦がいた。俺がまだ勉強をしていた時から寝ていたからもうかれこれ3時間ほどは眠っているらしい。規則正しい呼吸が続いている。
「仲が良いのはいいことだよ」
「ま……まぁ。いや、違う。そういうんじゃ」
「何も言ってないよ。友だちさん、ご飯うちで食べていくの?」
「いや、家帰る……」
俺に向けて尋ねられたことだったはずなのに、隣からふにゃりとした中低音が返ってくる。
「わぉ、起きてた」
「すまん……お世話になってます……木爪依弦です」
「こんばんは。春日井優斗です。泰斗の弟です」
「こないだも面倒かけて悪かった。ありがと」
「いえいえこちらこそ。ゆっくり寝れましたか?」
俺抜きでぽんぽんと会話が進んでいく。基本的に人見知りをしないふたりだ、何も心配することはないけれど、少しくらいは俺から紹介させてもらってもいいんじゃないか。
「てか依弦、手離せ」
「あーごめん。あったかくてつい」
「兄ちゃん手ぬくいよね。筋肉のおかげなのかな」
「でかいしぬくいし、いいよな、クマみたいで」
「褒めてないだろ」
熱が触れていたところに、すぅと風が通り抜けていく。
もう少し、握っておきたかったとは言わないけれど。


