捕食者は爪先立ちで、

 6月末。真夏の気配がぷんぷんとしていて、頭が茹だりそうなほど暑い日が増えてきた。

 今日は午後から教師たちの会議があるとかなんとかで、午前のみの授業になっている。何もわざわざそんな日に持久走なんてやらなくてもいいじゃないかと思うのに、グラウンドを延々と走り続ける俺達を、教師は日陰で叱咤する。自分より遥かに年下のガキに無茶をさせて何が楽しいんだろう。大人という生き物はつくづく意味がわからない。

「春日井! 本気出してないだろ!」

 剣道部顧問が体育担当の教師なのは厄介だ。少しでも手を抜くとバレてしまう上に、下手すれば部活時間を削って説教をされることになる。

「すんません!」

 ここでは心の中で舌打ちをするに留めて、黙ってペースを上げておくことが最良だとこれまでの失敗から学んだ。今日は特に機嫌が悪そうだし、あとで何か言われたらテキトーに謝っておけばいい。

 普段から走り込みをしている上に他の奴らよりもコンパスが長い分、余裕が生まれる。俺より先を走っているのはサッカー部のエースとバスケ部のレギュラーだけで、あとの生徒は半周以上後ろを走っていた。

 代わり映えのないトラックを走り続ける。いっそ外周にしてくれればまだマシだったのに、と無駄なことを考えている間に、小さな背中に追いついた。

「依弦、お前もっと走れるだろ」

 追い抜き際に肩を小突くと、目を細めて睨まれる。息はかなり上がっていて、少しつつけば転んでしまいそうなくらい足取りが不安定だ。周回遅れで追いついた背中。いつもならほとんど並んで煽り合いながら走っているのに、こんなに差がついているのは始めてだ。

 先日の帰り道、依弦が迷いのない足取りで歩いていたことを思い出す。
 もう高校生だ、自分の足でしっかりと歩けるに決まっている。依弦はバスケもサッカーも、スポーツなら大抵のことは平均以上にできて、身長差がある相手とのジャンプボールだって成功させられる。負けん気も強い。

 何かおかしい。この走り方は。

「大丈夫か?」

 少しペースを落としてそう尋ねると、ふいとそっぽを向いて拒絶された。依弦とはここ半月ほどまともに会話していない。俺から話しかけなかったから関わりがないのかと考えたこともあったけれど、これだけ近いところで話しかけても拒否されるのだ。意図的に距離を置かれるとなかなかきついものがある。
 俺も顧問の目があったから、それ以上深入りすることはなく二度ほど依弦を抜かして走り続けた。順位は3位。結局サッカー部とバスケ部を抜かせなかったということで授業後に5分ほど顧問からありがたいお叱りを受けて、持久走は無事終わった。



「依弦、ひとりで帰んのかよ」

 体育を最後に授業がすべて終わった。今日は部活もないから、生徒たちは担任がホームルームの終了を告げると、各々の今後の予定を充実させるべく塊となって話に花を咲かせ始める。
 今日は俺も部活がない。今までなら予定が合いそうな時は真っ先に後ろから声をかけてきていたのに。足早に出口へ向おうとしていた依弦を腕を掴んで呼び止めた。
 あれだけしつこく絡んできていた依弦がもう半月も俺に関わろうとしてこない。クラスの人たちもさすがにおかしいと思い始めているらしく、いくつかの視線が俺たちに向いているのを嫌ほどに感じる。

「おい、依弦」
「あ、あぁ、うん。早く帰ろ」

 掴まれた腕を捩って俺の手から逃げ出そうとする。
 ここまでされれば無視はできなかったのか、一緒に下校することには頷いてくれたけれど、頑なに視線は逸らされている。顔が背けられていても、その首筋、耳、頬と赤くなっているのがありありとわかった。

 教室を出て、廊下を歩いて、下駄箱で靴を履き替える。ずっと、居心地の悪い無言が続いてる。
 12時ちょうどの太陽が、真上から俺たちの頭頂部をジリジリと焦がしていく。持久走の熱は引いてくれず、止まらない汗のせいで制服のカッターシャツが肌にはりついて気持ち悪い。

「…………」

 右隣で不規則に揺れる頭を横目で見る。一言も発さず、ただ黙々と足を進める依弦に、少し腹が立った。

「依弦」

 返事はない。

「なぁ、俺には言ってくれよ」
「…………」

 帰路に唯一ある信号が赤になる。車を1台、2台見送ると、もう道を阻むものも、俺たちを見ているものもなくなった。
 それを見計らったように右半身に、とす、と重みがのしかかってきた。

 燃えるように、熱い身体。

 太陽の熱を上手く逃がし切ることができず、かわいそうなくらいにすべてを溜め込んでしまっている。

「熱中症だな。なんで言わなかった」
「……ごめん、」

 息を吐き、溶け出してしまいそうな震えたか弱い声でそう言う。俺は自分の鞄と依弦の鞄をまとめて肩にかけ、今にも前に倒れ込みそうな依弦を背負う。余計暑くなってしまうかと思ったけれど、とりあえず確実に安全なところまでたどり着くことが第一だ。意識はあるし話もできる。まだそれほど緊急性はない。

「俺んち連れてくぞ」
「わるい……」

 家が近くてよかった。あと3分ほどで着く。
 大人しく俺に背負われている依弦の熱が背中から直に伝わってくる。
 小さな身体にこんな熱を蓄えていたのか。
 なぜ早く言ってくれなかったのか。
 あの時俺がちゃんと走り続けるのを止めるように言っていれば。
 しても仕方がない後悔ばかりが頭を占めるのを振り払うように、懸命に足を動かした。


 春日井家はじいちゃんからの譲りもので、無駄に広くて部屋数も多い。物置きになっていたり何も置かれていなかったりする部屋ばかりで、正直家族4人では持て余している。突然依弦を連れてきたところで、誰も困りはしない。

「あ、兄ちゃんも帰ってきたんだ。……てか、だれ? 友だち? 大丈夫なの?」

 玄関で中2の弟がアイスを齧りながら出迎えてくれる。修学旅行の関係でテストが早まり、この1週間は午前で帰宅してきている。俺の背に乗る物体に目を遣り、のんびりしている場合ではないと悟ったのか急いでアイスを食べきった。

「友だち。なぁ優斗(ゆうと)、タオルケット2枚と氷嚢4つ用意してくれないか? あと母さんにもメッセージで伝えといてくれ。熱中症のやつ匿ってるって」
「ん。和室に持って行っとく。あとポカリと扇風機も置いとくね。和室かなり涼しいから扇風機で十分だよ」

 我ながらよくできた弟だと思う。剣道一家で夏に熱中症でぶっ倒れることなんて日常茶飯事だったから、対応には手慣れている。よほど重症でない限りは、水を飲ませて冷やして和室に転がしておけというのがじいちゃんの教えだった。

「おい、依弦、起きてるか?」
「……ん。ごめん。ありがと……。お邪魔します」
「律儀だな、お前」

 背負ったまま依弦のスニーカーを片方ずつ脱がせて、玄関に放っておく。縁側に面した和室には、優斗が用意してくれた物一式が綺麗に揃えられていた。

「ちょっと休んどけ」
「ぅん……」

 依弦を横たわらせ、腹にタオルケットをかけてやる。頭の下に敷いたタオルケットの高さを調整し、首筋と腋窩、気休めに額にも氷嚢を乗せる。
 太陽が直接差さないこの和室はかなり涼しい。風が吹くと庭の草木がかさかさと擦れ合う音がして、さっきまでの鬱々とした気分が和らいでいくような気がした。
 汗でべったりと額についた前髪を払ってやる。そういやここ半月ほど、依弦の顔をしっかり見ていなかった。
 まだ熱の残る、白い肌。眉間に寄った皺は顔の赤みが引くにつれて少しずつ消えていく。

「お前、クマ酷いな」

 目の下をそっと撫でる。濃いクマが目の下に巣食っていて、一日やそこらでできたものじゃないことだけは確かだった。なんでこんなものに気づけなかったんだ。身長差を理由にちゃんと依弦の顔を見ていなかった自分に、猛烈に腹が立つ。少し顔を覗き込んでいれば、こんなことにはならなかったはずなのに。

「最近寝れてないのか?」

 尋ねると、話すことを迷ったかのようにしばらくの間を置き、やがて観念したのか、視線だけこちらに寄越して小さな声が部屋にこぼれ落ちた。

「ずっとだよ。うち、夜は飲み屋やってて。母さんひとりだから、日中は会社で働いて、夜は居酒屋。それでオレの学費とか生活費、全部出してくれてんだ。オレが知らんふりしてたら、母さん倒れるだろ」

 それだけ言って、依弦はすぅ、と目を閉じた。

 同時に、白くて細い指先が俺の指を絡め取る。

「暑いだろ。手離せ」
「いいから、うるさい。頭に響く」

 規則的な呼吸に安堵すると、これまで焦りに支配されていた思考がクリアになる。

「……もっと早く言えよ」

 悔しい。
 俺は近くにいたのに、何もできなかった。

 一年前の怪我の時も、今も。何も変わっちゃいない。
 穏やかな表情で眠る依弦の横に、そっと自身の身体を横たえる。
 俺よりも遥かに小さい身体で、そんなもん背負ってんじゃねぇよ。

 絡んだ細い指から力が抜けていく。

 人に頼れない依弦が、俺の横で眠っている。
 それが嬉しくて、依弦の頬に手が伸びた。

 いつから俺は、こいつから離れられなくなったんだろう。





「おい、そろそろ起きろ」
「ん……、あ、そうか。ごめん。今何時?」
「20時。夕飯食ってくか? 母さんいいって言ってたけど」
「さすがにわりぃって。うちでも母さん用意してくれてるし」
「そうか」

 額に置いた氷嚢を除けながら、依弦がゆっくりと起き上がる。まだ若干の頭痛が残っているらしく、こめかみをぐっと押さえて痛みに耐えている。

「家、送っていく」
「え、いいよ。ひとりで帰れる」
「そんな状態のやつひとりで帰せるわけねぇだろ。途中で死なれたら寝覚め悪いし」
「死なねぇって」

 こういう時に限って、俺は頼ってもらえない。
 もう何を言っても無駄だと思い、荷物をまとめて帰ろうとする依弦をただ黙って見つめる。タオルケットを丁寧に畳んでさぁ立ち上がろうというとき。

「……ほらな」

 たちくらみか、依弦は盛大によろけてそのまま壁に手をついた。

「いつもみたいに黙って背負われてろ」
「るせぇ……」

 ひとつ大きなため息をつき、立ち上がる。それまで同じか、自分よりも高いところにあった依弦の目線がぐっと下がり、下から睨みつけられる。こんなに小さかったっけ、こいつ。

「おら、乗れ」
「んな偉そうなタクシーあるかよ……」
「軽口叩けるくらいには回復したな」

 一瞬躊躇う素振りを見せるも、観念したのかゆっくりと俺の肩へ手を伸ばしてくる。もとより細いと思っていた腕はこの半月でさらに質量を失ってしまったようで、簡単に折れそうなくらい頼りなかった。

 家を出る時、優斗が見送りに出てきてくれた。穏やかな笑顔で「また来てね」と手を振ってくる様子に、依弦がはっと笑う。

「お前の弟、似てなさすぎだろ。ちょっとは可愛げ分けてもらえよ」

 俺が歩くのに合わせて、背負われた依弦の足がぷらぷらと揺れている。少しだけ日中の暑さを残した湿度の高い空気が俺たちにまとわりついて、背中に預けられた規則正しい鼓動と落ち着かない熱を増幅させてくるのが厄介だった。

「依弦、兄弟は?」
「いねぇよ。一人っ子」
「そうか」

 それ以上会話が広がるはずもない。1年と少し一緒にいたのに、いまさらどこまで踏み込んでいいかわからないとか、本当にどうかしてる。これまで避けてきた話題だったから、身体が危険信号を出して勝手にブレーキをかけられる。

「居心地悪くなってんじゃねぇよ。オレのせいなんだからズカズカ訊いてこいっての」

 口を開きかけては何かを言い淀む俺を見かねたのか、頭にぼか、とげんこつが落とされた。不調のせいか、いつもより勢いは弱かった。

「隠してて悪かったな」

 首筋に頭がのしかかってくる。やめてくれ、しおらしい姿が似合わなすぎて吐きそうだ。

 依弦がぽつぽつと家までの道のりを指示してくれる。結局依弦に訊きたいことは何も思いつかなくて、帰路はほとんど無言だった。まばらにしか人がいない道を、ただひたすらに歩く。30分くらい歩いた頃だろうか、大きな提灯のついた一軒家で依弦のナビが終わった。

 中心部分が大きく膨れ上がった提灯は、中に入ったライトで淡いオレンジに光っている。民家が密集した住宅街に突如現れた『石の花』と書かれた少し年季の入った店。店先に出ている看板には今日のメニューが几帳面な文字で綴られていた。

「ここ」
「お前んち、学校から遠くね?」
「真っ先に出てくる感想それかよ。まぁ、近くはねぇわな」

 チャリでも使えばすぐなんだけどな、と依弦が言う。そういえばこいつは入学して間もない頃から今の今までずっと徒歩通学だなと思い出す。これだけの距離があれば大抵の生徒は自転車で通うことを選ぶのに。

「大体朝ってぼーっとしててさ。そんな頭でチャリ乗って事故ったらシャレんなんねーだろ」

 俺の背中から軽やかに降りる。自分の足で立てることを証明するように何度か足を踏みしめた。

「家、手伝ってるのか」
「まーね。皿洗いとか、そこらへんだけ。中学の時はもっとがっつり手伝ってたんだけど、最近はあんまだな。ここ半月くらい謎に忙しくて中途半端にアドレナリン出てたせいで夜全然寝らんなかったわ。
 母ちゃんには無理してるってバレたくなかったから、余計に気ィ張ってたんだろうな」

 夜眠れない分、学校で眠る。どうせ眠れないからって、夜の空いた時間に勉強しているのかもしれない。こいつの成績は勉強もせずにそう簡単に取れるものじゃない。進学のことを考えて成績維持はマスト。体調不良を訴えた際、一番に連絡がいくのは親だから、教師にも不調を伝えるのは避けるに決まっている。

 そうだ、こいつは、へらへらしながらいとも容易く自分を犠牲にすることができてしまうやつだった。

「そんなに大変なら、手伝いやめりゃいいのに」

 本当はこんなこと言うつもりじゃなかった。でも、

「父ちゃんがやってたんだよ、この店。だから母さんもオレも、潰したくなくて」

 きっと、依弦はこれを聞いてほしかったんだろう。提灯をつんと突く白くて細い指が、オレンジの光を受けて淡く照らされている。そう長くは待たなくとも、依弦の薄い唇が再び言葉を紡ぎ始める。

「癌だったらしい。オレが小6のとき。なんか知らんけどそこら辺の記憶だけ曖昧でさー。細かいこと覚えてないから感傷に浸れないんだよな」

 泣こうにも泣けねぇし、と。

 この話を笑ってできるようになるまで、依弦はどれだけ我慢をして、耐えてきたのだろう。父も母も祖父母も健在で、出来の良い弟を持つ俺には完全に理解できないことだ。同情、共感、傾聴、慰め、どれも、俺には上手くできっこない。

 ふぅ、と体温と同じくらいの生ぬるい風が頬を撫でて通り過ぎる。
 もうお客さんが入っているのだろう、中から乾杯! と大人たちが杯をぶつけ合う音が聞こえてきた。明日は土曜だ。ここが大人たちの貴重なはしゃげる場所となっているのが、店内から漏れ聞こえる話し声から伝わってくる。

「今日久しぶりにぐっすり寝れたわ。泰斗んちの和室いいな」
「また来いよ」
「おう。じゃ」

 ありがと、と依弦がくしゃりと顔を崩して笑う。茶色の髪が風に揺られて綿毛のように飛んでいきそうで、咄嗟に依弦の頭に手を伸ばしてしまった。

「やめろよ、ガキじゃねぇし」

 依弦はするりと俺の手から逃げ出して、裏口へと歩を進める。

「おやすみ。気をつけて帰れよ」
「おう。おやすみ」

「おはよう」と「またな」以外の挨拶をしたことがなかったせいで、その言葉をどんな顔で言えばいいのかわからなかった。クラスメイトが観測できない、学校の外で交わされた言葉は、なんだかむず痒い。

 依弦の髪の感覚が手のひらから離れてくれない。
 温かさを風に飛ばされてしまわないように、ぎゅっと拳を握りしめて家へ帰ることにした。