捕食者は爪先立ちで、

 その日の時間割はなかなかに最悪だった。
 朝から数学、2限目は美術の予定だったけれど、担当教員の体調不良とのことでまた数学に変更、3限は古文、4限は鬼の塚本と呼ばれている教師による英語表現。午前中ずっと気が滅入るような時間割で、クラス中が疲弊していた。

 加えて天気は雨。低気圧で体調が悪くなるタチではないけれど、太陽が見えないということは存外人間にストレスを与えてしまうらしい。

「まじ……吐きそう」
「昨日の午前中、体育と美術だけだったじゃん、あれなんだったんだよ」
「くそ……塚本の野郎……」

 教室の至る所から恨み節が聞こえてくる。昼休みには教室中に屍が発生していた。どれだけ換気をしても空気が薄いような気がして、胸のあたりに溜まった二酸化炭素をいつまで経っても吐き出すことができない。

「依弦、さっきの日本語訳だけどさ」

 弁当を片付けながらそういえば授業でわからないところがあったなと思い、後ろの席に向かって話しかける。

「……」

 返事がない。

「依弦。おい、お前いつまで寝てんだ」

 机の上には何もない。教科書も、昼食さえも。何もない机に突っ伏して規則的な呼吸をしている光景は見慣れたものだが、呼びかけると返ってくるだるそうな視線が、ない。

「おーい、お前マジで起きねぇの?」

 茶色い頭の頭頂部、つむじを押してみる。加えられた力に抗うこともなく、置物のような姿勢は変わらない。

「木爪、今日一日中寝てんな」

 依弦の隣の席の安田が弁当の米をかきこみながら言う。依弦が寝ているのはいつものことだけど、休み時間になっても起きないことはとても珍しい。というか、今までこんなこと一度もなかった。

「塚本の授業でも寝てたのか?」
「さすがに起きてたっぽい。あいつに見つかったらガチめんどいからな。授業終わった瞬間秒で倒れてた」

 それくらいの理性と気力は残っていたのか。塚本は気分のムラが激しく、外れの日は寝ている生徒を絶対に許さない。当たり前のように廊下に立たせるし、授業の進行が遅れることに構いもせず寝たり私語をしたりしている生徒を糾弾する。何が彼をそこまで駆り立てるのかは謎だけれど、聞いているフリさえしていれば特に害はない教師だ。もう学年中が扱いを心得ている。

「………ほっとくか」
「腹減ったらテキトーに飯食うだろ。赤ちゃんじゃあるまいし」

 安田が弁当を食い終わったタイミングで、依弦がのそりと身体を起こした。眩しいのか、眉間には強くシワが寄っている。

「おい依弦、飯は?」
「……いい」

 流石に腹は減っているだろうに、カバンからペットボトルを取り出して水を口に含んだだけでまた眠り始めてしまった。

「こりゃ重症だな。雨の日って元気出ねぇしなぁ」
「……まぁ、そうだな」

 依弦は雨の日に具合が悪くなるタイプだったか、記憶の中の姿を呼び戻すけれど、思い当たる節はなかった。むしろ周囲がどんよりしているなか依弦だけ元気なものだから、余計に教室で目立っていたような気さえする。

「ほんとに大丈夫か?」
「……大丈夫だっつってんだろ。るせぇ」

 もごもごと籠もった声はいつもと同じ口調で憎まれ口を叩く。本人が大丈夫と言うなら大丈夫なんだろう。安田も言っていた、赤ちゃんじゃあるまいし。



 3日経っても依弦の調子はもとに戻らなかった。
 登校してくるのは始業ギリギリ、休み時間も基本寝ているか姿を消しているかで会話することはほとんどない。

 依弦が、俺の生活からほぼ消えてしまったも同然だった。

 これまで嫌というくらい毎日顔を合わせてくだらないことばかり話していた。他のクラスメイトと話すのも全て依弦が間に入ってくれていたから、自分から話しかけることも、向こうから話しかけられることもほとんどなかった。

 それでも、

「春日井ー、剣道部って地区予選どんな感じ?」
「正直望み薄だけど死ぬ気で頑張ってるよ。第二高校が強すぎるんだよな」
「サッカーもだわ。スポーツ推薦枠ずるすぎ。強いやつはあっち行くに決まってるじゃんな」
「うち勉強メインだからな。しゃーない、先輩らの足引っ張らないようにやろう」

「ねぇ春日井くん、この上の紙剥がしてくれない? 椅子がぐらついて危なくてさ」
「いいよ。これ? 掲示物貼り替えるんだ?」
「うん。美術でこの前描いたやつ飾りたいからって」
「あー、俺がじいちゃん家の犬描いたやつか」
「犬飼いのリアルな目線だったやつ! わんちゃんの名前なんていうの?」
「のりまき。黒のダックスで海苔巻きにしか見えんかったらしい」

 案外、日常はつつがなく進んでいく。
 依弦がいないとクラスメイトとコミュニケーションすら取れないと思っていたのは、どうやら勘違いだったらしい。半分以上は依弦が繋いでくれたものだけれど。

 昼休みの喧騒のなか、次々と剥がされていく掲示物を見る。書道の時間に作成した自分の名前を篆書体で書いてみようというもの。パッと見何かわからない、おしゃれなデザインのような記号のような曲がりくねった文字。面白い授業だったと思う。1ヶ月ほど教室の一部になっていたものがなくなると、なんだか違う教室にいるようでそわそわしてしまう。

「……ねぇ! 春日井くん!」
「え。あ、はい」
「ずっと話しかけてたのに。聞こえなかった?」

 女子に話しかけられていたらしい。俺の真隣にいるせいでほぼ真上を見上げるかっこうになっている森本さんは、拗ねたように頬を膨らませている。

「身長差ありすぎると声聞こえにくいらしいよ」
「えー、なにそれこまる」

 椅子に乗って掲示物を黙々と剥がし続ける藤野さんにそう言われ、森本さんがえへへ、と笑う。まっすぐな黒髪に、短く整えられたスカート。その容姿故にSNSにあげた動画が一度バズったらしく、以前話題になっていた。安全と今後の進路のことを考えなさいと教師には叱られていたが。

「ごめん、で、なに?」
「依弦くんと一緒にいないの、めずらしいね」

 大きな黒目で見つめられる。依弦の席に目を遣っても、状況は変わらなかった。
 誰もいない、空っぽの席。
 朝から来てはいたし授業にも出席していた。けれど今日、あいつの声をまだ一度も聞いていない。昼休みに入って、いつの間にかいなくなってしまったけど、いつからいないのかはわからない。カバンはあるから帰ってはいないはずだ。

「あー、なんかそういう時期もあるじゃん。男ってそんな四六時中べったりしてるわけじゃないし」
「なに、あたしたちが四六時中べったりしてるって言いたいのー?」

 揚げ足を取るのに成功した森本さんがにやりと笑う。その姿が依弦と重なってしまい、思わず笑ってしまった。時折こうしてくだらない揚げ足を取られてぽかんと口を開けた俺を見て、依弦は腹を抱えて笑う。何が面白いのかわからないことも多いけれど、むすっとされているよりはいい。

「……春日井くんって笑うんだね。怖い人かと思ってた」
「え? ふつーに笑うけど。そんなにやばいヤツだと思われてた?」
「いつも木爪に隠されちゃってるからでしょ」

 藤野さんが言う。

「春日井くんに話しかけようにも木爪が割り込んでくるし、話してたらたまに睨まれるし」
「そんなことないと思うけど」
「あんの。春日井くんとサシでゆっくり喋ったことない人が大半だから、勘違いされても仕方ないとは思うけどね」

 1年と少しこのクラスで過ごしてきた。依弦は俺とクラスメイトを繋いでくれて、いつでも明るく盛り上げてくれていると思っていた。俺が変に遠慮して他の人と話さないから、孤立しないよう気を遣ってくれているのだと思っていた。
 睨みつけて、人に敵意を向けるような依弦を、俺は知らない。

 背筋にひやりとした感覚が這う。
 突然居心地の悪さに襲われて、視線が宙を彷徨った。

「まー、あたしは遠くから見てるだけでも春日井くんのこといいなーと思ってたけどね」
「……」
「華、春日井くんまた聞いてないよ」

 依弦のことを嫌いな人はいないと思っていた。
 いや、藤野さんは依弦のことを嫌いと言ったわけじゃないけれど、口調には明らかに棘が滲んでいた。依弦と藤野さん、もしかしたらふたりの間で何があったのかもしれない。
 ずっと依弦といたのに、俺は何も知らない。

「俺、もっとみんなと話さないとな」

 いつまでも依弦に頼っているわけにはいかない。中学のときからそれほど友人は多くなく、気の合う人とだけいればいいと考えていたけれど、これから大学に行って働き始めでもしたらそんなことは言っていられなくなる。

「いいね! みんなと仲良くしていこ!」

 森本さんは、柔らかな笑顔で応えてくれた。



 結局依弦は途中で帰ってしまったらしく、5限が始める頃にはロッカーからカバンがなくなっていた。
 いつ依弦が帰ったかわからなかった。連絡先は知っているけれど、日頃からメッセージを送り合うようなタイプではないせいで、最後のメッセージは1年の12月のものだった。

「もう2年の6月だよな……」

 習慣がないといざというときに身体が動かないものだ。指先は文字を打とうとすると固まってしまう。心配なんて柄じゃないこと、しない方が身のためかもしれない。


 終礼が終わって、それぞれが部活動や塾やらで散っていく。今日剣道部は休みだ。部活成立最低限の人数程度しか部員がいない部活動が精力的に活動しているはずもない。俺みたいな剣道経験者は、それこそスポーツ推薦のある学校へ行く。入部した頃はなんでお前がこんなところにと言われたけれど、勉強に力を入れたかったから仕方のないことだった。
 じいちゃんが地域で剣道教室をしていて、小さな頃から剣道に触れて育ってきた。じいちゃんには悪いけど、剣道は趣味や息抜き程度で許してほしい。

 とりあえず図書室にでも行こうかとカバンを持って立ち上がる。目に入った後ろの席。乱雑にしまったのだろう、椅子が飛び出していた。誰かが足を引っ掛けて怪我でもしたらどうするんだと思ったが、早引きした人間に勝手にイラついても仕方ない。さっと椅子を片付けて教室を出た。

 まだ終業から15分も経っていないのに、音楽室の方向からは吹奏楽部の音出しが聞こえてきた。ぽ〜、ぱ〜と間の抜けた音のあと、たくさんの音が揃って鳴らされる。俺みたいな素人には音出しすらもひとつの完成された合奏のように聞こえてしまう。

「春日井くーん」

 1階廊下の突き当りを右に曲がって順調に図書室への歩を進めていたところ、角を曲がったすぐにところでみぞおちのあたりから女子に呼びかけられる。

「も、森本さん……どうしたんだよ、こんなとこで」
「待ち伏せってやつ。ちょっとだけ時間ちょーだい」

 当たり前のように俺の手を取って歩き出す。図書室への道は下校する人たちの動線と交わらないため、誰にも見られることはない。

「ちょ、なに、マジで。俺勉強するんだけど」
「春日井くんさ、彼女いる?」
「はぁ?」

 手を離して、身体を俺の方に向ける。よく見ると日中と顔の印象が違う気がする。ほんのり目や口、頬に色がついている。メイクをしているのだろう。

「あたしさ、お昼も言ったけど、春日井くんのこといいなぁって思ってたんだよ」
「どこがだよ。俺たちほとんど話したことないじゃん」
「一目惚れってやつ? 身体大きくてかっこいいし、今日だって玲香のこと助けてあげてたでしょ? ああいう優しいところ、いいなって思うんだ」

 これ、は、告白か。藤野さんのことを助けたのは、助けてくれって言われたからだ。それに、本当に俺たちには接点がない。身体が大きいやつなら俺のほかにもいる。男子ならほとんどが森本さんより体格はいいだろう。

「別にあたしのこと好きじゃなくていいからさ。付き合ってほしい。付き合ってから徐々にお互いのこと好きになっていけばいいじゃん?」

 小学生のとき以来、こういうのとは縁遠かった。
 しかも、男子から可愛いと言われている森本さんに。
 心臓の鼓動、体温、感情、そのどれも、

 驚くほど、平坦なままだった。

「ごめん、無理」

 考えるまでもなく返答が口をついて出る。断られると思っていなかったらしい森本さんが長いまつ毛で囲まれた目をカッと開く。

「なんで? あたしみんなから可愛いって言われてるよ?」
「なんでって……言われても」

 答えは簡単だ。俺は可愛い彼女を欲しているわけじゃない。きっと森本さんと付き合っても、俺は求められることに答えられずに、すぐ別れてしまうはずだ。
 第一、好きでもない人と付き合う趣味は俺にはない。
 可愛いと評されることは彼女にはとっておきの武器だったのだろうけど、俺はそんなことどうでもよかった。

「彼氏ほしいだけなら、他あたって」

 じゃ、と森本さんを振り切って図書室を目指す。

「春日井くんってさ、依弦くんみたいな人が好きなんだ?」

 背後から投げつけられた言葉に、思わず動きが止まる。
 なんで今、その名前が出てくるんだ。

「……はあ? 何言って、」
「生意気で悪戯っ子で、明るくて笑顔が可愛い子。お昼に冗談言った時反応よかったもんね」

 さっきまでの弱そうな女子の顔とは打って変わって、全てを見透かしたような鋭い視線が向けられる。安田から聞いたことがある。ふわふわ清楚系の女の子は大抵腹の底になんか抱えてるから、と。

「ざーんねん。かっこいい彼氏ほしかったのになぁ」

 ばいばーいと手を振りながら、森本さんは校舎へ帰っていく。あまりにもあっさりした態度は、最初から俺のことなんて好きでもなんでもなかったことを露骨に示していた。
 たまにいるのだ、身体が大きくて目立つ俺をそばに置いておきたがる人間が。この身体がある人にとっては魅力的なアクセサリーになりうるということに気づいたのは、中学のときだったことを思い出す。ろくな思い出じゃないから記憶の一番奥にしまっておいたけれど、まさかこんな形で引き出されるとは思っていなかった。

 こんなとき、依弦がいたら笑い飛ばしてくれたんだろうか。からかわれて終わりかもしれないが、それでもいないよりはマシだ。

「なにしてんだよ、ボケ」