部活のない日の放課後。わかりやすいと評判の物理の参考書が入ったらしいとの噂を聞きつけて、物理資料室へ向かう。それぞれの科目の資料室に保管されている大量の参考書は手続きをすれば一定期間借りることができる。
参考書だって安くない。この避けられない出費は高校生には非常に痛い。毎回親に買ってくれと言うのも気が引けるため、このシステムにはとても助けられている。
野球部やサッカー部の野太い声。腹の底から響くような吹奏楽部の演奏。頭を空っぽにして誰もいない廊下を歩いていると、重そうな箱を持ちながらおぼつかない足取りで廊下を歩いている女子を見つけた。よく見るとクラスメイトだった。
上半身がすっぽり隠れるほどのサイズの箱を抱えているせいで足元がろくに見えていないのだろう、時折身体を傾けて箱の横から障害物がないかの確認をしている。
ここは3階。行き先は教室か、職員室か、どちらにせよ階段を降りなければいけない。
「吉川さん、それ貸して。俺が持つ」
歩くことに必死だったのだろう、目の前から歩いてきたデカブツにも気づいていなかったらしい吉川さんは、顔を上げて大きく肩を跳ねさせた。
「びっっっくりしたぁぁ……。春日井くんか……クマかと思った」
「さすがに校内にクマはいないでしょ。事件じゃん」
確かに、と吉川さんが目尻をふにゃりと下げて笑う。吉川さんがひとつ動くたびにきれいに切りそろえられたボブの黒髪が蛍光灯の光を受けてつやつやと照る。
小さくてよく笑う女の子とか好きになっちゃうじゃんか! とクラスの男連中が騒いでいるのを聞いたことがある。俺からしたら皆小さいからその話題の中には入れなかったことをよく覚えている。
でもまぁ、 よく笑う人が良いのは、わかる。依弦みたいに悪魔のような笑い方をする奴は論外だが。
吉川さんから半ば強引に箱を奪う。思ったよりもずっしりと重量のある箱の中身は、どうやら紙のようだ。
「ありがと。お言葉に甘えさせてもらいます。じゃあこっちもらうね。教室までお願いしていい?」
段ボール箱を持っていて腕が疲れたのか、疲れを振り落とすように腕をぶらぶらさせたあと、俺が持っていた参考書を代わりに預かってくれた。
俺が3階の資料室まで参考書を取りに行っていなければ、吉川さんは重い箱を抱えて教室まで戻る羽目になっていたのかと考えると少しぞっとする。
自分のみぞおちほどまでしか背丈がない女の子の力はどれくらいのものなのだろう。男女平等が謳われている世の中だが、大きな男に生まれてしまったのもあって平等に対しては少し敏感だ。
だって、こんなにも違う。
「こんなクソ重いもん持たせるとか酷すぎんだろ。誰だよ」
「古文の古池先生。いけると思ったんだけど、持ってみたら意外と重かった。ほんとに助かったよ」
「いくらでも。デカいのが役立つの、こういうときくらいしかねぇし」
教室に着く頃には俺の腕も少しくたびれていて、教卓にどん、と箱を置いた瞬間とてつもない解放感に襲われた。中から紙の束を取り出す。バラを束ねて冊子にするらしく、計36ページにも及ぶ問題集になるという。
「あとは私が綴じるね。ありがとう、運ぶの手伝ってくれて」
俺が資料室から借りてきた物理の参考書が差し出された。礼を言って受け取ると、握られていた箇所だけほんのりと温かくて、そんなはずはないのに参考書が生きているのかと錯覚してしまう。無機物から人の体温を感じると、どうも変な感じがする。
「にしても、春日井くん手大きいね。参考書がミニチュアみたいに見える」
1ページ目のプリントは青木の机、2ページ目のプリントは井原の机、混ざってしまわないように生徒の机にプリントの束を置いていた吉川が、突然俺を見てそう言った。教室には吉川さんと俺しかいない。クリアな吉川さんの声がコロコロと俺のところまでまっすぐ届く。
「あーまぁ、うん」
B5判の参考書は確かに女子の小さな手で持つとそこそこのサイズに見える。世間話の延長に過ぎないのかもしれないけれど、改めてそんなことを言われても上手い反応というものが思いつかない。だから依弦から朴念仁と言われるんだろう。自分でもわかってる。
手が大きいことは別に胸を張るような事実でもあるまいし軽く流しておこうと思った矢先、開いた小さな手のひらが目の前に突き出された。上手く返答ができなかった現実逃避で俺が自分の手を見つめていたせいで、吉川さんが距離を詰めてきていることに気づかなかった。
「え?」
「手、どんくらい大きさ違うのかなって」
それは、合わせろということか?
急に生み出された女子との触れ合いの機会に身体が硬直する。部活で人が散り散りになってしまった教室では誰も助けてくれない。大して関わりもないクラスの女子と至近距離で戯れるのは少し気が引ける。
こんなとき、依弦ならどうするんだろう。そういや、あいつどこ行ったんだ。今日は俺の部活が休みだから一緒に帰るとか言っていたくせに。
依弦の机の上を見ると、中身がないせいでへしゃげてしまった通学カバンが放置されている。カバンがあるということは校内にはいるはずだが、終礼以降全く姿を見ていない。どうでもいいことばかりが頭を駆けて行くけれど、状況を打破する策はなにも思いつかない。俺は観念して右手を出した。
「うわ、めっちゃ大きい! すごいなぁ、こんなに違うんだ」
くっつけられた手のひらは小さくて、しっとりとしていた。それほど密着しているわけでもないのに、ふわふわしたクッションのような柔らかさを感じる。
違いを楽しむように色々な角度から合わせられた手を覗き込まれ、彼女が少し動くたびに花のような、桃のような淡い香りが鼻腔をくすぐる。身近に母親以外の女性がいない俺にとって、ここからどうしたらいいのかなんて皆目検討もつかない。
いつまで手を合わせていたらいいんだろう。あまり意識してしまうと手汗をかいてしまいそうだ。もう満足してくれただろうか。
引き際がわからなくて落ち着かなくなってきたとき誰かが乱暴に扉を開ける音がして、重なっていた手を慌てて引っ込めた。
扉のところでなにをするでもなく、ただ笑顔で立っている見慣れた顔。俺といるときには絶対に向けられない底なしに明るい笑顔を貼り付けて男はこちらを見ていた。
「ぁ……い、づる……」
「なぁにしてんの? オレも混ぜてよ!」
無邪気に俺たちの方へ駆け寄る依弦だが、前髪からちらりと覗いたその目からは一瞬にして笑みが失せていた。
勢いを殺しきれなかったと言わんばかりに俺に体当たりをし、そのままぴたりと身体をくっつけられる。あまりの近さに驚いて身を引くと、追いかけるようにして距離を詰められる。
ピタリとくっついた依弦の身体はじんわり汗ばんでいて、べたついた感覚を俺の身体に残していく。
「手の大きさ比べてた。春日井くんってほんとに手大きいよね」
「また……いきなりだね。なんでそんなことになったの? 随分仲良さそうだったから、泰斗と吉川さんがそういう感じなのかと思って一瞬焦っちゃった。
泰斗、吉川さんのこと好きな男いっぱいいるからそんな簡単に触れちゃだめだよ」
俺に向けてそんなに柔らかい語尾で話したことなんて、最初の方の数回しかないくせに。
「そんなことないよ。それに、私そんなにモテないし」
「高嶺の花すぎて近寄れないんだよ」
依弦が吉川さんへ、にこ、と人好きのする笑みを浮かべる。どんなことを言っても、何をしても許されそうなその笑顔が俺に向けられたことはないけれど、きっと他の人は見慣れているんだろう。この笑顔を見ると、なぜか胸がざらついたもので撫でられたような感覚がする。
綺麗なのに、その奥に何かがあるような、違和感が拭えない。
「たしかに、泰斗って手大きいよね。オレと比べてもこんなに違うんだから」
そう言って強引に右手を取られ、依弦のてのひらと合わせられる。ひとつひとつの動作がいつもよりゆっくりで丁寧で、高価な宝石を見せびらかすかのような目つきに、胸のあたりが嫌にざわつく。
俺より一関節分は小さいのに、まるで女子とは違う。硬くて、骨っぽくて、吸い付いてくるような感覚もない。去り際に手のひらの中央部分を柔く引っ掻かれて、こそばゆさに思わず全身が力んでしまった。
「もしなんか手伝えることあったらオレもやるよ。2人より3人でやったほうが早いっしょ」
「あ、ありがと。2人とも、用事とかないの?」
「ないよ。オレも泰斗も」
なんで俺の分までお前が答えるんだよ。内心むっとしながらも依弦が言ったことは間違っていないから、大人しく頷いておいた。
3人しかいない教室に、紙が擦れる音とホッチキスを止める音が響く。時折誰かが通り過ぎては、「何してんの?」と訊くだけ訊いて、手伝うことなく去っていく。そりゃそうだ、放課後にタダ働きなんて誰もしたくない。青春とは友だちと駄弁ったり身体を動かしたりゲーセンやカラオケに行ったりすることであって、間違っても大量のプリントのホッチキス止めをすることではないだろう。
「ちょっと。泰斗お前、プリントの束の角ズレてる! ちゃんと角合わせてから差し出してくんね? やりにくいんだって」
「……悪かったって。でもお前もホッチキス止める時にちょっと引っ張るのやめろ。せっかく揃えてんのに最後お前のせいでズレてんだよ」
「るせーな。もういいよ、解けりゃいいんだよ。中身は変わってねーし」
「だから何回もそう言ってんだろ。こんなのに綺麗さを求める方がアホらしい」
冊子は2つに分かれる。吉川さんが4ページ綴りの小冊子を作り、俺たちが32ページ綴りの大物を作る。長らく折り畳んで保管されていたらしいプリントにはしつこい折り癖がついていて、俺と依弦で整理係とホッチキス係を分けることになった。けれど、不器用な俺はプリントの角を揃えることすらままならなくて、依弦に何度も怒られて、バカにされる。依弦は分厚い紙束をホッチキスで上手く貫けない。鍛え方が足りなさすぎる。
いがみ合いをしながら冊子を作っていく俺たちを見て、吉川さんがぷっと吹き出した。ばちん、という大きな音と共に、俺たちは同時に吉川さんの方を向いた。
「仲いいね、君ら。いつもずっと一緒にいるし」
仲、いいのだろうか。
まぁいいのだろう。教室内も放課後も、ほとんどいつも隣に依弦がいる気がする。感覚が麻痺しかけていたけど、冷静になって考えたら四六時中一緒にいるじゃないか。小さな言い合いは絶えないけれど、大きな仲違いは一度もなかった。
「まぁな。オレ、1年の時にひどい捻挫してさ」
「……もういいだろ、その話は」
「んな凹むなって。いつまで引きずってんだ」
バシンと背中を叩かれる。ちょうど肺のあたりに直撃したらしく、大きな音が響いて俺の体内から空気が強制的に追い出される。こういう時に限って馬鹿力を出してくるのは本当にやめてほしい。
「やたらと甲斐甲斐しく世話してくれたよな、泰斗」
「そりゃ、俺が悪かったからな」
「オレも悪かったって散々言ってるのに、どうしてわかってくれないかねぇ」
やれやれ、と依弦が大げさに肩をすくめる。話に置いていかれた吉川さんがこてんと首をかしげてこっちを見ているけれど、依弦はこれ以上この話を続けるつもりはないらしい。
今までは自分だけ椅子に座って俺が集めてきたプリントを綴る作業をしていたけれど、飽きたのか立ち上がって自ら紙を集め始めた。
「ま、この通り泰斗が嫌がるからこの話はナシね。泰斗の献身的なお世話のおかげでこの通りオレの怪我はきれいに治って、めでたしめでたしってこと」
机に軽く腰掛けて、依弦が吉川さんの方に顔を向ける。吉川さんは少し不満そうに唇を尖らせていた。
「えー、何があったのか気になるじゃん。教えてよ」
食い下がられたことに一瞬驚いたのか、依弦の眉がピクリと上がる。けれど、そんなことなかったかのようにお手本のような柔和な笑みを返した。
これは承諾の笑みではない。体の良い無視だ。
これ以上踏み込んでほしくないところまで来られると、依弦はこうして笑顔で人を撒こうとする。俺が知る限り、依弦がこうやって逃げるのは半ば事故のようなあの怪我のことを訊かれた時と、自分の家のことを訊かれた時だけだ。
それほど隠すようなことでもないと思うが、依弦が言いたがらないなら俺がわざわざ話す義理もないだろうと、俺は口を噤んだ。
参考書だって安くない。この避けられない出費は高校生には非常に痛い。毎回親に買ってくれと言うのも気が引けるため、このシステムにはとても助けられている。
野球部やサッカー部の野太い声。腹の底から響くような吹奏楽部の演奏。頭を空っぽにして誰もいない廊下を歩いていると、重そうな箱を持ちながらおぼつかない足取りで廊下を歩いている女子を見つけた。よく見るとクラスメイトだった。
上半身がすっぽり隠れるほどのサイズの箱を抱えているせいで足元がろくに見えていないのだろう、時折身体を傾けて箱の横から障害物がないかの確認をしている。
ここは3階。行き先は教室か、職員室か、どちらにせよ階段を降りなければいけない。
「吉川さん、それ貸して。俺が持つ」
歩くことに必死だったのだろう、目の前から歩いてきたデカブツにも気づいていなかったらしい吉川さんは、顔を上げて大きく肩を跳ねさせた。
「びっっっくりしたぁぁ……。春日井くんか……クマかと思った」
「さすがに校内にクマはいないでしょ。事件じゃん」
確かに、と吉川さんが目尻をふにゃりと下げて笑う。吉川さんがひとつ動くたびにきれいに切りそろえられたボブの黒髪が蛍光灯の光を受けてつやつやと照る。
小さくてよく笑う女の子とか好きになっちゃうじゃんか! とクラスの男連中が騒いでいるのを聞いたことがある。俺からしたら皆小さいからその話題の中には入れなかったことをよく覚えている。
でもまぁ、 よく笑う人が良いのは、わかる。依弦みたいに悪魔のような笑い方をする奴は論外だが。
吉川さんから半ば強引に箱を奪う。思ったよりもずっしりと重量のある箱の中身は、どうやら紙のようだ。
「ありがと。お言葉に甘えさせてもらいます。じゃあこっちもらうね。教室までお願いしていい?」
段ボール箱を持っていて腕が疲れたのか、疲れを振り落とすように腕をぶらぶらさせたあと、俺が持っていた参考書を代わりに預かってくれた。
俺が3階の資料室まで参考書を取りに行っていなければ、吉川さんは重い箱を抱えて教室まで戻る羽目になっていたのかと考えると少しぞっとする。
自分のみぞおちほどまでしか背丈がない女の子の力はどれくらいのものなのだろう。男女平等が謳われている世の中だが、大きな男に生まれてしまったのもあって平等に対しては少し敏感だ。
だって、こんなにも違う。
「こんなクソ重いもん持たせるとか酷すぎんだろ。誰だよ」
「古文の古池先生。いけると思ったんだけど、持ってみたら意外と重かった。ほんとに助かったよ」
「いくらでも。デカいのが役立つの、こういうときくらいしかねぇし」
教室に着く頃には俺の腕も少しくたびれていて、教卓にどん、と箱を置いた瞬間とてつもない解放感に襲われた。中から紙の束を取り出す。バラを束ねて冊子にするらしく、計36ページにも及ぶ問題集になるという。
「あとは私が綴じるね。ありがとう、運ぶの手伝ってくれて」
俺が資料室から借りてきた物理の参考書が差し出された。礼を言って受け取ると、握られていた箇所だけほんのりと温かくて、そんなはずはないのに参考書が生きているのかと錯覚してしまう。無機物から人の体温を感じると、どうも変な感じがする。
「にしても、春日井くん手大きいね。参考書がミニチュアみたいに見える」
1ページ目のプリントは青木の机、2ページ目のプリントは井原の机、混ざってしまわないように生徒の机にプリントの束を置いていた吉川が、突然俺を見てそう言った。教室には吉川さんと俺しかいない。クリアな吉川さんの声がコロコロと俺のところまでまっすぐ届く。
「あーまぁ、うん」
B5判の参考書は確かに女子の小さな手で持つとそこそこのサイズに見える。世間話の延長に過ぎないのかもしれないけれど、改めてそんなことを言われても上手い反応というものが思いつかない。だから依弦から朴念仁と言われるんだろう。自分でもわかってる。
手が大きいことは別に胸を張るような事実でもあるまいし軽く流しておこうと思った矢先、開いた小さな手のひらが目の前に突き出された。上手く返答ができなかった現実逃避で俺が自分の手を見つめていたせいで、吉川さんが距離を詰めてきていることに気づかなかった。
「え?」
「手、どんくらい大きさ違うのかなって」
それは、合わせろということか?
急に生み出された女子との触れ合いの機会に身体が硬直する。部活で人が散り散りになってしまった教室では誰も助けてくれない。大して関わりもないクラスの女子と至近距離で戯れるのは少し気が引ける。
こんなとき、依弦ならどうするんだろう。そういや、あいつどこ行ったんだ。今日は俺の部活が休みだから一緒に帰るとか言っていたくせに。
依弦の机の上を見ると、中身がないせいでへしゃげてしまった通学カバンが放置されている。カバンがあるということは校内にはいるはずだが、終礼以降全く姿を見ていない。どうでもいいことばかりが頭を駆けて行くけれど、状況を打破する策はなにも思いつかない。俺は観念して右手を出した。
「うわ、めっちゃ大きい! すごいなぁ、こんなに違うんだ」
くっつけられた手のひらは小さくて、しっとりとしていた。それほど密着しているわけでもないのに、ふわふわしたクッションのような柔らかさを感じる。
違いを楽しむように色々な角度から合わせられた手を覗き込まれ、彼女が少し動くたびに花のような、桃のような淡い香りが鼻腔をくすぐる。身近に母親以外の女性がいない俺にとって、ここからどうしたらいいのかなんて皆目検討もつかない。
いつまで手を合わせていたらいいんだろう。あまり意識してしまうと手汗をかいてしまいそうだ。もう満足してくれただろうか。
引き際がわからなくて落ち着かなくなってきたとき誰かが乱暴に扉を開ける音がして、重なっていた手を慌てて引っ込めた。
扉のところでなにをするでもなく、ただ笑顔で立っている見慣れた顔。俺といるときには絶対に向けられない底なしに明るい笑顔を貼り付けて男はこちらを見ていた。
「ぁ……い、づる……」
「なぁにしてんの? オレも混ぜてよ!」
無邪気に俺たちの方へ駆け寄る依弦だが、前髪からちらりと覗いたその目からは一瞬にして笑みが失せていた。
勢いを殺しきれなかったと言わんばかりに俺に体当たりをし、そのままぴたりと身体をくっつけられる。あまりの近さに驚いて身を引くと、追いかけるようにして距離を詰められる。
ピタリとくっついた依弦の身体はじんわり汗ばんでいて、べたついた感覚を俺の身体に残していく。
「手の大きさ比べてた。春日井くんってほんとに手大きいよね」
「また……いきなりだね。なんでそんなことになったの? 随分仲良さそうだったから、泰斗と吉川さんがそういう感じなのかと思って一瞬焦っちゃった。
泰斗、吉川さんのこと好きな男いっぱいいるからそんな簡単に触れちゃだめだよ」
俺に向けてそんなに柔らかい語尾で話したことなんて、最初の方の数回しかないくせに。
「そんなことないよ。それに、私そんなにモテないし」
「高嶺の花すぎて近寄れないんだよ」
依弦が吉川さんへ、にこ、と人好きのする笑みを浮かべる。どんなことを言っても、何をしても許されそうなその笑顔が俺に向けられたことはないけれど、きっと他の人は見慣れているんだろう。この笑顔を見ると、なぜか胸がざらついたもので撫でられたような感覚がする。
綺麗なのに、その奥に何かがあるような、違和感が拭えない。
「たしかに、泰斗って手大きいよね。オレと比べてもこんなに違うんだから」
そう言って強引に右手を取られ、依弦のてのひらと合わせられる。ひとつひとつの動作がいつもよりゆっくりで丁寧で、高価な宝石を見せびらかすかのような目つきに、胸のあたりが嫌にざわつく。
俺より一関節分は小さいのに、まるで女子とは違う。硬くて、骨っぽくて、吸い付いてくるような感覚もない。去り際に手のひらの中央部分を柔く引っ掻かれて、こそばゆさに思わず全身が力んでしまった。
「もしなんか手伝えることあったらオレもやるよ。2人より3人でやったほうが早いっしょ」
「あ、ありがと。2人とも、用事とかないの?」
「ないよ。オレも泰斗も」
なんで俺の分までお前が答えるんだよ。内心むっとしながらも依弦が言ったことは間違っていないから、大人しく頷いておいた。
3人しかいない教室に、紙が擦れる音とホッチキスを止める音が響く。時折誰かが通り過ぎては、「何してんの?」と訊くだけ訊いて、手伝うことなく去っていく。そりゃそうだ、放課後にタダ働きなんて誰もしたくない。青春とは友だちと駄弁ったり身体を動かしたりゲーセンやカラオケに行ったりすることであって、間違っても大量のプリントのホッチキス止めをすることではないだろう。
「ちょっと。泰斗お前、プリントの束の角ズレてる! ちゃんと角合わせてから差し出してくんね? やりにくいんだって」
「……悪かったって。でもお前もホッチキス止める時にちょっと引っ張るのやめろ。せっかく揃えてんのに最後お前のせいでズレてんだよ」
「るせーな。もういいよ、解けりゃいいんだよ。中身は変わってねーし」
「だから何回もそう言ってんだろ。こんなのに綺麗さを求める方がアホらしい」
冊子は2つに分かれる。吉川さんが4ページ綴りの小冊子を作り、俺たちが32ページ綴りの大物を作る。長らく折り畳んで保管されていたらしいプリントにはしつこい折り癖がついていて、俺と依弦で整理係とホッチキス係を分けることになった。けれど、不器用な俺はプリントの角を揃えることすらままならなくて、依弦に何度も怒られて、バカにされる。依弦は分厚い紙束をホッチキスで上手く貫けない。鍛え方が足りなさすぎる。
いがみ合いをしながら冊子を作っていく俺たちを見て、吉川さんがぷっと吹き出した。ばちん、という大きな音と共に、俺たちは同時に吉川さんの方を向いた。
「仲いいね、君ら。いつもずっと一緒にいるし」
仲、いいのだろうか。
まぁいいのだろう。教室内も放課後も、ほとんどいつも隣に依弦がいる気がする。感覚が麻痺しかけていたけど、冷静になって考えたら四六時中一緒にいるじゃないか。小さな言い合いは絶えないけれど、大きな仲違いは一度もなかった。
「まぁな。オレ、1年の時にひどい捻挫してさ」
「……もういいだろ、その話は」
「んな凹むなって。いつまで引きずってんだ」
バシンと背中を叩かれる。ちょうど肺のあたりに直撃したらしく、大きな音が響いて俺の体内から空気が強制的に追い出される。こういう時に限って馬鹿力を出してくるのは本当にやめてほしい。
「やたらと甲斐甲斐しく世話してくれたよな、泰斗」
「そりゃ、俺が悪かったからな」
「オレも悪かったって散々言ってるのに、どうしてわかってくれないかねぇ」
やれやれ、と依弦が大げさに肩をすくめる。話に置いていかれた吉川さんがこてんと首をかしげてこっちを見ているけれど、依弦はこれ以上この話を続けるつもりはないらしい。
今までは自分だけ椅子に座って俺が集めてきたプリントを綴る作業をしていたけれど、飽きたのか立ち上がって自ら紙を集め始めた。
「ま、この通り泰斗が嫌がるからこの話はナシね。泰斗の献身的なお世話のおかげでこの通りオレの怪我はきれいに治って、めでたしめでたしってこと」
机に軽く腰掛けて、依弦が吉川さんの方に顔を向ける。吉川さんは少し不満そうに唇を尖らせていた。
「えー、何があったのか気になるじゃん。教えてよ」
食い下がられたことに一瞬驚いたのか、依弦の眉がピクリと上がる。けれど、そんなことなかったかのようにお手本のような柔和な笑みを返した。
これは承諾の笑みではない。体の良い無視だ。
これ以上踏み込んでほしくないところまで来られると、依弦はこうして笑顔で人を撒こうとする。俺が知る限り、依弦がこうやって逃げるのは半ば事故のようなあの怪我のことを訊かれた時と、自分の家のことを訊かれた時だけだ。
それほど隠すようなことでもないと思うが、依弦が言いたがらないなら俺がわざわざ話す義理もないだろうと、俺は口を噤んだ。



