「春日井、ちょっと右側に身体避けてくれ」
夏の入り口。5限目の数学の授業中。教壇の真ん中に立つ教師からそう言われて身体を右向きに折り畳んだ瞬間、全生徒の視線が教室の中心最後列にいる俺の方を向いた。
「木爪! 起きろ!!」
教師のターゲットはいつものごとく俺の後ろに座る依弦だった。後ろの席で、もにょ、と小さな声が目を覚まし、柔らかい衣擦れの音が耳を撫でる。3、4限の連続体育で持てる全力を出し切った依弦は数学の授業の開始前には教科書を枕にしてすでに入眠態勢をとっていた。
数学教師は特に厳しい。授業中に眠っている生徒が多いと課題が増えたりテストの難易度が上がったりしてしまう。どうせまた面倒なことになるんだからせめて50分くらいは起きていたらどうだと言っても、「知らねー」とひとつも聞く耳を持たなかった依弦をかばう義理は俺にはない。
「うらぎりもの……」
案の定教師に注意された依弦は、絞り出すようなか細い声で俺を責めた。依弦の方は向かずに、俺は自分の手元に視線を落としてどうにか問題の続きを解こうと努力する。
が、そんな努力も虚しく終わった。依弦の細い指先がカリ、と俺の背を引っ掻き、薄いカッターシャツを越えて微弱な刺激が脊髄に到達する。予想していなかったこそばゆさに、大げさに身体が跳ねてしまった。
「んなビクつくことねぇだろ。ザコすぎ」
「……るせぇ、いたずらしてねぇで起きろ」
教科書を丸めてまだ机に突っ伏している依弦の後頭部を叩く。ほとんど力を入れていないのに、ポコ、と小気味いい音が静かな教室中に響き渡った。
「ったーー。オレの頭すっからかんなのバレたじゃんか!」
叩かれた頭をわざとらしくさすりながら依弦がそう言うと、教室中で笑いが起こる。授業も終盤に差し掛かり、なんとなくクラスの空気が淀んできていた頃に依弦の軽口で換気され、少し息がしやすくなったような気さえした。
進学クラスの2年。既に教室後ろの黒板には共通テストまでの残り日数のカウントダウンが進んでいて、否が応でも受験を意識させられる。まだ受験なんて遠い話だと思っていたのに、試験日までのカウントが365日に近づけば近づくほど、目に見えない焦りが出てきてしまう。1日ずつ、着実に消費されていっている。
入試という2文字のせいで、こんなにも息苦しくなるなんて思っていなかった。
「木爪、お前成績はいいのになぁ。先生の授業ちゃんと聞いてるから成績良いんだって、俺に胸張らせてくれよ」
教師はそれだけ言って、また黒板に向き直る。国立大学の入試問題を解くよう指示された俺たちは少しだけ姿勢を低くしてペンを走らせる。今日習ったばかりの範囲なのに、こんな応用問題解けるわけないだろ。
全員がそう言いたげな空気を醸し出しているのに、後ろの依弦だけは違った。さっき起こしたかと思った上体はまた机の上に投げ出されていて、伸びた腕と指先が俺の椅子に預けられている。
大きくため息をつく。依弦はいつもこうだ。こいつが授業中に起きているところをほとんど見たことがない。にも関わらずテストの点数は上位常連。どこかで勉強しているんだろうか。何かに必死に取り組んでいるというのは、なんとなく依弦には似合わないような気もする。飄々と、柳のように生きている依弦のことだ、きっと教科書を一度見ただけであらかた理解してしまうのだろう。腹が立つ。
「木爪! お前、もう前来て解け」
さすがに呆れた教師が依弦を教壇へ呼び出す。案の定依弦はピクリともせず、死んだように同じ姿勢で規則的な呼吸をしていた。
「おい、依弦、前行けってさ」
「……今日いつになくうるせぇな、あいつ。男の子の日かよ。おっさんだけど」
俺が問題を解く手を止めて依弦の髪を雑にかき混ぜると、小さな舌打ちと共に微妙に返事をしにくい言葉が返ってきた。
依弦は俺が品のない発言に顔を顰めるのもお構いなしに、「あー……? ぁんだあれ」と黒板の字を目を細めて見てから、ゆらりと立ち上がって前へ歩いて行く。
「積分していい?」
「未履修範囲だ。いいわけないだろ。今日教えたこと使え」
「解けりゃいいじゃんかよ〜……だる」
悪態は止まらない。けれど、チョークを指先2本で掴んで薄いへろへろとした字を連ねていく依弦から、妙に目が離せなかった。丁寧な途中式、無駄が省かれた解法、7+5の答えを筆算で出そうとした時にはヒヤヒヤしたが、それでも最後はきれいな解が導出された。最終解にシャッと下線を引いて、チョークをころりと置く。最後に見せつけるように大きなあくびをして、「これでいい?」と挑発的な目で教師に尋ねた。
「解けるのに寝るなよ、全く」
「解けるから寝るんだよ」
今は機嫌が悪いらしい。依弦は1日の中でもかなり機嫌と様子の変化が激しい。ニコニコしていたかと思えば、電池が切れたように静かになったり、俺にぴったりくっついて離れなくなったりする。そんな依弦の世話を全て任されている俺の身にもなってほしい。まったく。
「んじゃあ復習しとけよ。課題はさっきのページの最後の設問。次回の最初に答え合わせします」
チャイムの音と同時に教師が教室から去っていく。張り詰めていた空気は一気に弛緩し、異物がなくなった空間は心なしか明るくなった。
「今日依弦くんめっちゃ目付けられてたね」
隣の席の藍沢さんが依弦に目を遣りながら声をかけてきた。普段藍沢さんと話すことはほぼないけれど、たまにこうして声をかけてくれる。
「虫の居所悪かったんじゃない? まぁ寝てるこいつが100%悪いけど」
「あの先生の授業眠いからね。私も何回かまぶた落ちそうになっちゃってた」
依弦に遣っていた視線を俺に移して、にこりと柔らかく微笑む。黒板消さなきゃ、と日直の仕事を思い出したらしい藍沢さんは、次の教科の準備をしてから軽い足取りで黒板へ向かっていった。机の角に教科書の隅が綺麗に揃えられている。机上に出ている文房具は必要最低限で、シンプルなデザインのものばかりだ。黒い真っ直ぐな髪が藍沢さんの動きに合わせて揺れている。
「おいてめぇ。藍沢、彼氏いるぞ」
後ろから椅子の脚をドンッと蹴られたと思えば、依弦がいやに鋭い目つきで俺を睨んでいた。そのままじっと目を離さず見てくるもんだからなんとなく居心地が悪くなってふいと逸らしてしまう。
「……やっと起きたんかよ。なんだいきなり。知ってるわ」
「知ってて見惚れてたとかやば」
「見るくらい許せよ」
「許すわけねぇだろ」
これだから童貞は、と余計な一言を残し、依弦は鞄から現国の教科書を取り出す。
次の時間は起きているつもりなんだな、と感心したのも束の間、教科書は無事に枕として依弦の頭の下に敷かれていった。
レク自習という文化がうちの学校にはある。
基本的には自習だが、それぞれが自信のある科目の札を机に貼って、わからない問題があったら該当の札を貼っている人のところに教えてもらいに行くというものだ。
人に教えることで自分のわからないところや実は曖昧になっているところを明らかにできるから、という理由で導入され、今も伝統のように残っている。
札に記載する科目はいくつでもいい。理系科目全般と書いている人もままいる。
俺は何にするか悩みに悩んだ挙句、『現代文』の文字を札に書いた。国語と書けたらよかったけれど、残念ながら古文とは相容れない。
自習開始から15分ほどが経過した頃、ぽつぽつと席を移動し始める人が現れ始めた。
「誰かー、物理教えて」
「俺でよかったら見るよ。ダメなら山田のとこ送るわ」
「ういー」
浮ついた空気にはならず、淡々と課題がこなされていく。
実際教えている最中に自分ができていると思っていたことが穴だらけで自信をぽっきりと折られてしまうことが多々あるため、この時間を恐れている生徒も多い。
「春日井くん、いいかな。ちょっとここ教えてほしくて」
「俺……?」
先生が演習用に作成した国語のプリントの束を持った女子が俺の隣に立っていた。名前は確か、岡田さん。あまりにも静かだったから気が付かなかった。
椅子を持ってきていたらしい岡田さんが、ちょこんと座って俺の机の上にプリントを置く。
「ここ、なんでこの答えになるか解説になくて……」
「これね。直前にある『だが』で今までの論がひっくり返されてるから、問の答えになる文章はこの後ろの部分から探さないといけないでしょ?」
自分のペンで岡田さんのプリントに薄く書き込みをする。答えにたどり着くまでの流れをなんとか説明すると、岡田さんは、あぁ! とひらめいたように嬉しそうな顔をした。
「すっきりした! そういうことだったんだ」
「よかった、うまく説明できて」
「いやぁ、春日井くんの説明わかりやすいね。書いてもらったメモ、残しといていい?」
「いいけど……そんなくちゃくちゃのメモ、邪魔じゃない?」
「いいの。もう宝物だよ」
たかが問題一つ解けただけでそんなに嬉しそうな顔ができるものだろうか。俺にはよくわからない。
「そうだ、ついでになんだけどさ、古文とか教えてもらえたりしない?」
「古文は苦手で、ちょっと難しいな。他の人当たってもらった方が良いと思う」
「いいの。一緒に考えよ」
半ば強引に押し切られるように机の上にプリントが置かれる。札に書いていない教科や分野を教えるのはルール違反ではないけれど、趣旨には反してしまう。そもそも、何の力にもなれないんだったら一緒にやる意味がない。
「いや、あの、岡田さん。他の人のとこ行ってもらえれば」
「どうせ得意なんでしょ? あんだけ丁寧に説明してくれるんだから!」
振り切れなくて諦めようとしたその時だった。
「岡田、オレが教えるからこっち来いよ」
後ろから柔らかい声が飛んできた。
間違いなく声の主は依弦で、目を三日月に細めながら芯を出していないシャーペンを机にコンコンと打ち付けている。シャーペンの先には『全教科』の文字。こいつの不遜な態度と過剰な自信はどこから出てくるのだろう。結果の裏付けがあるから余計にたちが悪い。
「え、木爪くん、いいよ。迷惑かけるし」
「オレのほうが泰斗より役に立てると思うけど? 泰斗、古文ちょー苦手だかんね。時間も限られてるし、さっさと解いて次の問題解いた方が効率的でしょ?」
ね? と依弦が更に微笑みかける。
間違ったことは何一つ言っていない、し、俺が言いたかったことを全て依弦が言ってくれた。
これで岡田さんが俺のところに留まる理由はなくなった。岡田さんを見ると、唇を噛んでプリントを眺めている。
「いや、やっぱり良いかも。ちょっと自分で考えてみる。ありがとう、春日井くん」
俺にだけにこっと笑って、岡田さんは自分の席に戻っていった。
「あ、ありがとう依弦」
「マジでお前……だる」
「ごめんて」
誰かを強く拒絶することは難しい。依弦みたいに自分の思っていることをズバッと言えるタイプだったらよかったのに、なかなかそう上手くはいかない。
「あいつ、この時間合コンかなにかだと思ってんな」
「んなわけないだろ、さすがに」
「……お前のおめでたい頭どうにかなんねぇの?」
依弦が自分のこめかみでシャーペンのノックを押す。よく見ると前に俺から奪っていったペンだった。もう依弦のものとして一切の違和感なく馴染んでしまっている。
「てか依弦、起きてたんだな」
「おー、誰かさんのこと見張ってたんだよ」
「ちゃんと真面目にやってるわ、俺は」
「どーだか」
手元のほとんど進んでいないテキストに目を落とす。
「依弦」
「あ?」
「古文、教えろ」
「上から目線すぎねぇ? でけぇのは身長だけにしとけよ。態度まででけぇとか笑えなすぎる」
文句を言いながらも俺のテキストを奪って、目を通したあとに説明をしてくれる。
「おい馬鹿、んだこの誤訳。ひでぇな」
「馬鹿は言い過ぎだろ」
問題と向き合う時の依弦の顔はいつになく真剣で、なぜこの顔を毎授業でできないか不思議に思ってしまう。一語一語丁寧に訳して、荒い語調で説明してくれる。30秒に1回「馬鹿」と言われたけれど、最後には正しい答えに俺自身でたどり着けるようにアシストしてくれる技術は素直にすごいと思えた。
「さんきゅ」
「おう。もうなんかあっても訊いてくるなよ」
「こっちから願い下げだわ」
チャイムの音が鳴る。思ったよりもクラスメイトは散り散りになっていたようで、最後まで自分たちの席にいたのは俺たちだけだったようだ。
「泰斗、ずっとオレに面倒見てもらうつもり?」
「俺がお前の面倒見てんだよ。まぁ、勉強はたまに教えてくれ。それでチャラだな」
「たまに? 毎回テスト前オレに泣きついてきてねぇ?」
「……黙れ」
「はっ。ばーか」
思い当たる節が多くて口を尖らせる。
突然、ばしっと背中に衝撃が走る。
「依弦お前、なんでそんな嬉しそうな顔してんだよ、気持ち悪い」
夏の入り口。5限目の数学の授業中。教壇の真ん中に立つ教師からそう言われて身体を右向きに折り畳んだ瞬間、全生徒の視線が教室の中心最後列にいる俺の方を向いた。
「木爪! 起きろ!!」
教師のターゲットはいつものごとく俺の後ろに座る依弦だった。後ろの席で、もにょ、と小さな声が目を覚まし、柔らかい衣擦れの音が耳を撫でる。3、4限の連続体育で持てる全力を出し切った依弦は数学の授業の開始前には教科書を枕にしてすでに入眠態勢をとっていた。
数学教師は特に厳しい。授業中に眠っている生徒が多いと課題が増えたりテストの難易度が上がったりしてしまう。どうせまた面倒なことになるんだからせめて50分くらいは起きていたらどうだと言っても、「知らねー」とひとつも聞く耳を持たなかった依弦をかばう義理は俺にはない。
「うらぎりもの……」
案の定教師に注意された依弦は、絞り出すようなか細い声で俺を責めた。依弦の方は向かずに、俺は自分の手元に視線を落としてどうにか問題の続きを解こうと努力する。
が、そんな努力も虚しく終わった。依弦の細い指先がカリ、と俺の背を引っ掻き、薄いカッターシャツを越えて微弱な刺激が脊髄に到達する。予想していなかったこそばゆさに、大げさに身体が跳ねてしまった。
「んなビクつくことねぇだろ。ザコすぎ」
「……るせぇ、いたずらしてねぇで起きろ」
教科書を丸めてまだ机に突っ伏している依弦の後頭部を叩く。ほとんど力を入れていないのに、ポコ、と小気味いい音が静かな教室中に響き渡った。
「ったーー。オレの頭すっからかんなのバレたじゃんか!」
叩かれた頭をわざとらしくさすりながら依弦がそう言うと、教室中で笑いが起こる。授業も終盤に差し掛かり、なんとなくクラスの空気が淀んできていた頃に依弦の軽口で換気され、少し息がしやすくなったような気さえした。
進学クラスの2年。既に教室後ろの黒板には共通テストまでの残り日数のカウントダウンが進んでいて、否が応でも受験を意識させられる。まだ受験なんて遠い話だと思っていたのに、試験日までのカウントが365日に近づけば近づくほど、目に見えない焦りが出てきてしまう。1日ずつ、着実に消費されていっている。
入試という2文字のせいで、こんなにも息苦しくなるなんて思っていなかった。
「木爪、お前成績はいいのになぁ。先生の授業ちゃんと聞いてるから成績良いんだって、俺に胸張らせてくれよ」
教師はそれだけ言って、また黒板に向き直る。国立大学の入試問題を解くよう指示された俺たちは少しだけ姿勢を低くしてペンを走らせる。今日習ったばかりの範囲なのに、こんな応用問題解けるわけないだろ。
全員がそう言いたげな空気を醸し出しているのに、後ろの依弦だけは違った。さっき起こしたかと思った上体はまた机の上に投げ出されていて、伸びた腕と指先が俺の椅子に預けられている。
大きくため息をつく。依弦はいつもこうだ。こいつが授業中に起きているところをほとんど見たことがない。にも関わらずテストの点数は上位常連。どこかで勉強しているんだろうか。何かに必死に取り組んでいるというのは、なんとなく依弦には似合わないような気もする。飄々と、柳のように生きている依弦のことだ、きっと教科書を一度見ただけであらかた理解してしまうのだろう。腹が立つ。
「木爪! お前、もう前来て解け」
さすがに呆れた教師が依弦を教壇へ呼び出す。案の定依弦はピクリともせず、死んだように同じ姿勢で規則的な呼吸をしていた。
「おい、依弦、前行けってさ」
「……今日いつになくうるせぇな、あいつ。男の子の日かよ。おっさんだけど」
俺が問題を解く手を止めて依弦の髪を雑にかき混ぜると、小さな舌打ちと共に微妙に返事をしにくい言葉が返ってきた。
依弦は俺が品のない発言に顔を顰めるのもお構いなしに、「あー……? ぁんだあれ」と黒板の字を目を細めて見てから、ゆらりと立ち上がって前へ歩いて行く。
「積分していい?」
「未履修範囲だ。いいわけないだろ。今日教えたこと使え」
「解けりゃいいじゃんかよ〜……だる」
悪態は止まらない。けれど、チョークを指先2本で掴んで薄いへろへろとした字を連ねていく依弦から、妙に目が離せなかった。丁寧な途中式、無駄が省かれた解法、7+5の答えを筆算で出そうとした時にはヒヤヒヤしたが、それでも最後はきれいな解が導出された。最終解にシャッと下線を引いて、チョークをころりと置く。最後に見せつけるように大きなあくびをして、「これでいい?」と挑発的な目で教師に尋ねた。
「解けるのに寝るなよ、全く」
「解けるから寝るんだよ」
今は機嫌が悪いらしい。依弦は1日の中でもかなり機嫌と様子の変化が激しい。ニコニコしていたかと思えば、電池が切れたように静かになったり、俺にぴったりくっついて離れなくなったりする。そんな依弦の世話を全て任されている俺の身にもなってほしい。まったく。
「んじゃあ復習しとけよ。課題はさっきのページの最後の設問。次回の最初に答え合わせします」
チャイムの音と同時に教師が教室から去っていく。張り詰めていた空気は一気に弛緩し、異物がなくなった空間は心なしか明るくなった。
「今日依弦くんめっちゃ目付けられてたね」
隣の席の藍沢さんが依弦に目を遣りながら声をかけてきた。普段藍沢さんと話すことはほぼないけれど、たまにこうして声をかけてくれる。
「虫の居所悪かったんじゃない? まぁ寝てるこいつが100%悪いけど」
「あの先生の授業眠いからね。私も何回かまぶた落ちそうになっちゃってた」
依弦に遣っていた視線を俺に移して、にこりと柔らかく微笑む。黒板消さなきゃ、と日直の仕事を思い出したらしい藍沢さんは、次の教科の準備をしてから軽い足取りで黒板へ向かっていった。机の角に教科書の隅が綺麗に揃えられている。机上に出ている文房具は必要最低限で、シンプルなデザインのものばかりだ。黒い真っ直ぐな髪が藍沢さんの動きに合わせて揺れている。
「おいてめぇ。藍沢、彼氏いるぞ」
後ろから椅子の脚をドンッと蹴られたと思えば、依弦がいやに鋭い目つきで俺を睨んでいた。そのままじっと目を離さず見てくるもんだからなんとなく居心地が悪くなってふいと逸らしてしまう。
「……やっと起きたんかよ。なんだいきなり。知ってるわ」
「知ってて見惚れてたとかやば」
「見るくらい許せよ」
「許すわけねぇだろ」
これだから童貞は、と余計な一言を残し、依弦は鞄から現国の教科書を取り出す。
次の時間は起きているつもりなんだな、と感心したのも束の間、教科書は無事に枕として依弦の頭の下に敷かれていった。
レク自習という文化がうちの学校にはある。
基本的には自習だが、それぞれが自信のある科目の札を机に貼って、わからない問題があったら該当の札を貼っている人のところに教えてもらいに行くというものだ。
人に教えることで自分のわからないところや実は曖昧になっているところを明らかにできるから、という理由で導入され、今も伝統のように残っている。
札に記載する科目はいくつでもいい。理系科目全般と書いている人もままいる。
俺は何にするか悩みに悩んだ挙句、『現代文』の文字を札に書いた。国語と書けたらよかったけれど、残念ながら古文とは相容れない。
自習開始から15分ほどが経過した頃、ぽつぽつと席を移動し始める人が現れ始めた。
「誰かー、物理教えて」
「俺でよかったら見るよ。ダメなら山田のとこ送るわ」
「ういー」
浮ついた空気にはならず、淡々と課題がこなされていく。
実際教えている最中に自分ができていると思っていたことが穴だらけで自信をぽっきりと折られてしまうことが多々あるため、この時間を恐れている生徒も多い。
「春日井くん、いいかな。ちょっとここ教えてほしくて」
「俺……?」
先生が演習用に作成した国語のプリントの束を持った女子が俺の隣に立っていた。名前は確か、岡田さん。あまりにも静かだったから気が付かなかった。
椅子を持ってきていたらしい岡田さんが、ちょこんと座って俺の机の上にプリントを置く。
「ここ、なんでこの答えになるか解説になくて……」
「これね。直前にある『だが』で今までの論がひっくり返されてるから、問の答えになる文章はこの後ろの部分から探さないといけないでしょ?」
自分のペンで岡田さんのプリントに薄く書き込みをする。答えにたどり着くまでの流れをなんとか説明すると、岡田さんは、あぁ! とひらめいたように嬉しそうな顔をした。
「すっきりした! そういうことだったんだ」
「よかった、うまく説明できて」
「いやぁ、春日井くんの説明わかりやすいね。書いてもらったメモ、残しといていい?」
「いいけど……そんなくちゃくちゃのメモ、邪魔じゃない?」
「いいの。もう宝物だよ」
たかが問題一つ解けただけでそんなに嬉しそうな顔ができるものだろうか。俺にはよくわからない。
「そうだ、ついでになんだけどさ、古文とか教えてもらえたりしない?」
「古文は苦手で、ちょっと難しいな。他の人当たってもらった方が良いと思う」
「いいの。一緒に考えよ」
半ば強引に押し切られるように机の上にプリントが置かれる。札に書いていない教科や分野を教えるのはルール違反ではないけれど、趣旨には反してしまう。そもそも、何の力にもなれないんだったら一緒にやる意味がない。
「いや、あの、岡田さん。他の人のとこ行ってもらえれば」
「どうせ得意なんでしょ? あんだけ丁寧に説明してくれるんだから!」
振り切れなくて諦めようとしたその時だった。
「岡田、オレが教えるからこっち来いよ」
後ろから柔らかい声が飛んできた。
間違いなく声の主は依弦で、目を三日月に細めながら芯を出していないシャーペンを机にコンコンと打ち付けている。シャーペンの先には『全教科』の文字。こいつの不遜な態度と過剰な自信はどこから出てくるのだろう。結果の裏付けがあるから余計にたちが悪い。
「え、木爪くん、いいよ。迷惑かけるし」
「オレのほうが泰斗より役に立てると思うけど? 泰斗、古文ちょー苦手だかんね。時間も限られてるし、さっさと解いて次の問題解いた方が効率的でしょ?」
ね? と依弦が更に微笑みかける。
間違ったことは何一つ言っていない、し、俺が言いたかったことを全て依弦が言ってくれた。
これで岡田さんが俺のところに留まる理由はなくなった。岡田さんを見ると、唇を噛んでプリントを眺めている。
「いや、やっぱり良いかも。ちょっと自分で考えてみる。ありがとう、春日井くん」
俺にだけにこっと笑って、岡田さんは自分の席に戻っていった。
「あ、ありがとう依弦」
「マジでお前……だる」
「ごめんて」
誰かを強く拒絶することは難しい。依弦みたいに自分の思っていることをズバッと言えるタイプだったらよかったのに、なかなかそう上手くはいかない。
「あいつ、この時間合コンかなにかだと思ってんな」
「んなわけないだろ、さすがに」
「……お前のおめでたい頭どうにかなんねぇの?」
依弦が自分のこめかみでシャーペンのノックを押す。よく見ると前に俺から奪っていったペンだった。もう依弦のものとして一切の違和感なく馴染んでしまっている。
「てか依弦、起きてたんだな」
「おー、誰かさんのこと見張ってたんだよ」
「ちゃんと真面目にやってるわ、俺は」
「どーだか」
手元のほとんど進んでいないテキストに目を落とす。
「依弦」
「あ?」
「古文、教えろ」
「上から目線すぎねぇ? でけぇのは身長だけにしとけよ。態度まででけぇとか笑えなすぎる」
文句を言いながらも俺のテキストを奪って、目を通したあとに説明をしてくれる。
「おい馬鹿、んだこの誤訳。ひでぇな」
「馬鹿は言い過ぎだろ」
問題と向き合う時の依弦の顔はいつになく真剣で、なぜこの顔を毎授業でできないか不思議に思ってしまう。一語一語丁寧に訳して、荒い語調で説明してくれる。30秒に1回「馬鹿」と言われたけれど、最後には正しい答えに俺自身でたどり着けるようにアシストしてくれる技術は素直にすごいと思えた。
「さんきゅ」
「おう。もうなんかあっても訊いてくるなよ」
「こっちから願い下げだわ」
チャイムの音が鳴る。思ったよりもクラスメイトは散り散りになっていたようで、最後まで自分たちの席にいたのは俺たちだけだったようだ。
「泰斗、ずっとオレに面倒見てもらうつもり?」
「俺がお前の面倒見てんだよ。まぁ、勉強はたまに教えてくれ。それでチャラだな」
「たまに? 毎回テスト前オレに泣きついてきてねぇ?」
「……黙れ」
「はっ。ばーか」
思い当たる節が多くて口を尖らせる。
突然、ばしっと背中に衝撃が走る。
「依弦お前、なんでそんな嬉しそうな顔してんだよ、気持ち悪い」



