天使の言葉の余韻が、まだ空間に残っている。
俺は無意識に、チャラ男へ視線を向けた。
――その顔からは、何も消えていた。
怒りも、焦りも、恐怖も。
さっきまで確かにあった“人間らしさ”が、跡形もなく抜け落ちている。
「魂と執着の分離は、完了したようですね」
天使の声が、静かに告げる。
その言い方は、どこか満足そうにも聞こえた。
そして――
その視線が、ゆっくりと移る。
「あなた」
呼びかけられた女性が、大きく肩を震わせた。
「あの日、あなたは母親と口論になりましたね」
ビクリ、と全身が反応する。
言葉を発することもできず、
ただ震えだけが止まらない。
「あなたにとって、自室とは」
淡々と続けられる声。
「外界から完全に遮断された、唯一の安全圏だった」
「それを失うことは――耐え難い“侵害”だったのでしょう」
……何の話をしている?
理解が追いつかないまま、ただ聞くしかない俺。
だが次の言葉で。
世界の温度が、一気に下がった。
「それでも」
ほんのわずかな間。
「母親に手をかける、という選択はどうでしょう」
――は?
音が消えたような錯覚。
「あなたはあの日」
「家を奪われるという現実を知り」
「母親と衝突し」
「――命を奪った」
理解が、遅れてやってくる。
遅れて。
確実に。
重く。
チャラ男は、無表情のまま動かない。
俺は――
体温だけを奪われていくような感覚に襲われていた。
「その後、あなたは外へと出た」
「自暴自棄の状態で」
天使の声は変わらない。
だが、その“冷たさ”が異常だった。
「思考は曖昧で――」
「しかし明確な“終わり”を望んでいた」
女性の呼吸が乱れる。
声にならない音が漏れる。
「視界の端に、走るバスが映った」
――やめろ。
そう思った。
だが、止まらない。
「あなたは、ガードレールを越えた」
ゆっくりと。
丁寧に。
見せつけるように。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
天使の声に、わずかな色が混じった気がした。
「……そのとき、あなたは考えていた」
「このまま飛び込めば」
「バスの中の人間も巻き込むかもしれない、と」
長い沈黙。
だが。
「あなたは、止まらなかった」
女性の肩が、崩れ落ちる。
「その一歩を進めた瞬間」
「バスを追い越し、割り込んできた車が――」
「衝突した」
すべてが、繋がる。
「その車はあなたを跳ね、ガードレールへ」
「車体は横を向き」
「そこに--」
「避けきれないバスが突っ込んだ」
沈黙。
もう、説明はいらなかった。
理解してしまったからだ。
彼女は。
あの時、あの場所にいた。
そして。
すべての“起点”の一つだった。
女性はその場に崩れ落ち、
声を上げて泣いた。
ただの嗚咽ではない。
壊れた音だった。
「……違う……」
か細い声。
「違うの……あの時、私は……」
言葉が続かない。
ただ。
「……一瞬だけ」
掠れた声が、ようやく繋がる。
「……全部、終わるって思って……」
静寂。
その一言で、すべてが十分だった。
天使は、何も言わない。
ただ、観ている。
そして。
ゆっくりと。
視線が動いた。
――俺に向いている。
「……」
理解はしている。
この事故の構造も。
この二人の関係も。
だが。
俺には。
まだ。
当事者である感覚が、ない。
ただの巻き込まれた側。
そういう整理が、頭の中で自然にできていた。
――その時。
「本当に、そう思っているのですか?」
天使の声が、落ちる。
変わらないはずの声音。
だが。
圧が違う。
「……愚かしい」
その言葉は、やけに重かった。
視線が、逸らせない。
逃げ場がない。
――何かが、来る。
直感が、警鐘を鳴らしていた。
そして俺は、この後。
とんでもない“事実”を知ることになる。
