ここには、生きていた頃の常識は存在しない。
与えられる情報を、ただ理解するだけの場所。
感情すら、ほとんど無い。
「この場に到達した時点で、“生なる器”は消滅しています」
天使の声が、静かに響く。
「それに付随する名称、記憶の一部、そして感情も――本来は消え去るものです」
……本来は?
その言い回しに、違和感が引っかかった。
そう思考が浮かんだ瞬間、天使がこちらに視線を向けた――気がした。
「しかし」
声のトーンが、わずかに変わる。
「複雑に絡み合った因果を持つ魂は、例外的に“感情の残滓”を保持することがあります」
残滓。
「未練、執着、後悔――」
「完全に一致する言葉はありませんが、そういった概念に近いものです」
言葉の一つひとつに、わずかな重みが乗っている気がした。
そして。
「それでは」
その抑揚は、再び消える。
「あの事故の全容を説明いたしましょう」
「ちょっと待て」
割り込んだのは、チャラ男だった。
さっきまでの威勢はない。
だが、その声には焦りが滲んでいる。
「そんなもん説明されたって……」
言葉が少し詰まる。
「どうせ、俺たちもう死んでんだろ?」
「だったら関係ねえだろ。知ったところで意味ねえじゃねえか」
……一理ある。
たしかに。
知ったところで、何が変わるというのか。
そもそも、感情すらまともに残っていない俺たちに――
だが。
「……なんで、そんなに焦ってるんだ?」
自分でも驚くほど自然に、疑問が浮かんだ。
その瞬間。
天使から、何かを向けられた気がした。
――笑っている。
ありえないはずなのに、確信した。
ゾクリ、と。
生きていないはずの身体に、寒気が走る。
ふと、気配を感じて振り向く。
女性が。
頭を抱えて、座り込んでいた。
さっきまで、微動だにしなかった彼女が。
「……っ」
震えている。
そして。
「本当に……どうでもいいじゃない!」
初めて、その声を聞いた。
「どうせ無くなるんでしょ!?」
「だったら……さっさと終わればいいでしょ!!」
張り裂けるような声。
感情。
ここに来て、初めて“人間らしさ”が表に出た。
……そうか。
この二人は。
まだ、感情を持っている。
未練か。
執着か。
それとも――後悔か。
だが。
俺には、それが無い。
どこまでいっても。
これは、自分のことなのに。
まるで他人の出来事のようにしか認識できない。
――その時。
一つの疑問が、浮かび上がった。
チャラ男の車が原因で事故が起きた。
バスが巻き込まれ、
俺は死んだ。
ここまでは分かる。
なら。
……この女性は、なぜここにいる?
あのバスには、乗っていなかったはずだ。
事故現場にも――
「だからこそ」
天使の声が、思考を断ち切る。
今度は、はっきりと。
俺に向かって。
「説明すると、申しているのです」
間違いない。
今、こいつは――
微笑んだ。
「すべては、繋がっています」
その一言で。
すべてが、嫌な方向へと繋がる予感がした。
天使の語る真実は。
静かに。
だが確実に――
俺たちを、“底”へと引きずり込もうとしていた。
