泣き崩れていた女性が、こちらを見ている。
その視線に、妙な居心地の悪さを覚えた。
――何だよ。
そんなに。
俺の本音は、滑稽か?
惨めに見えるのか?
……違う。
そうじゃない。
壊れているはずなのに。
あの女は、どこか冷静だった。
それが、気持ち悪い。
そして。
その瞳に映っているものを、俺は理解できなかった。
――
「この家を売って、マンションに引っ越す?」
「権利書も渡した……?」
その瞬間。
私の中で、何かが決定的に崩れた。
最後の場所が、無くなる。
「婚約者? 誰のこと……?」
「そんな人、知らない!」
母の言葉が、理解できない。
理解したくない。
大声で怒鳴っていた。
何を言っているのか、自分でも分からない。
聞こえない。
母の声も。
頭の中が、白く塗り潰されていく。
――怖い。
その感情だけが、残っていた。
気づけば。
私は、母の首に手を掛けていた。
……。
現実が、遅れてやってくる。
動かない体。
何も言わない顔。
そこでようやく。
理解した。
――全部、終わった。
私は、そこで終わったのだと。
ぼんやりと、母の体を見つめながら。
記憶が、遡る。
中学の頃から。
私は、ずっと“いない人間”だった。
殴られるわけじゃない。
蹴られるわけでもない。
教師の目の前では、何も起きない。
なのに。
誰も、私と話さない。
声をかけても、返ってこない。
グループも、班も。
私の席だけ、空いているような感覚。
孤独。
空虚。
時々、物がなくなる。
そして、決まってトイレで見つかる。
気づけば。
学校に行かなくなっていた。
親の顔も、見れなくなった。
そんな私にも。
唯一、話してくれる存在がいた。
近所の男の子。
四つ下の。
兄弟のいない私にとっては、弟のような存在。
彼といる時だけは。
少しだけ、“普通”だった。
ある日。
私は衝動的に。
右手に、小さなタトゥーを入れた。
蛇の形。
理由は、分からない。
ただ。
何かを変えたかった。
でも。
すぐに後悔した。
消せない。
戻れない。
だから私は。
右手を隠すようになった。
サポーターで。
その日も。
男の子が、部屋に来ていた。
たわいもない会話。
それだけで、十分だった。
――ほんの、いたずらのつもりだったのだろう。
その子は、私の腕を引いた。
サポーターが、外れた。
……あの時の顔は、忘れられない。
「……怖いよ……」
「……お姉ちゃん……」
「……きたない……」
子どもの、何気ない一言。
たった、それだけ。
それだけで。
私は、完全に外へ出られなくなった。
引きこもり。
生きているのか、死んでいるのかも分からない日々。
時間だけが過ぎていく。
部屋の中で。
トイレも。
食事も。
全部、部屋で済ませる。
母が寝た後に、冷蔵庫のものを取る。
そんな生活。
そして。
その母までも――
「……もう……」
「生きていたくなかった」
すべてを終わらせたかった。
数年ぶりに、玄関を出た理由は。
終わるため。
でも。
――ほんの一瞬だけ。
考えた。
このままでいいのか。
誰かに迷惑をかけないか。
意識がぼやける中で。
最後に残った“常識”が、わずかに抵抗した。
そして。
視界の端に――
バスが映った。
――
目の前にいるこの女性。
壊れてしまった、この人。
……そして。
ゆっくりと。
俺を見ている。
まるで。
何かを、重ねるように。
「……似てる……」
かすれた声が、落ちた。
