誰のための正解に、この声を殺すのだろう


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春の香りを孕んだそよ風が、私の髪を優しく撫でる。
見上げた空では、太陽の周りを囲むように光の輪が作られていた。

「もう二月後半か」

時間は残酷に、けれども平等に、私を置いて過ぎ去っていこうとしている。
聞き慣れた先生の声が教室に響いた。

「三回目の希望調査の締め切り、あと一週間だぞー」
「まだ決めてないやつは、三年になって後悔しないためにもしっかり決めておけよ。将来にも関わってくるんだからな」
私たちのことを想って言ってくれているのだと分かっていた。
先生の眼差しからは、真っ直ぐな優しさが溢れ出ている。
だからこそ、胸の奥が少しだけチリっと痛んだ。

「起立、礼」

号令とともに、教室の張り詰めた空気が一気に和らぐ。
部活へ向かう人もいれば、楽しげに友達と喋り始める人もいる。そんな日常のノイズを背に、私は帰りの準備もそこそこに教室を出ようとした。
けれど、背後から先生の声に呼び止められる。

「高橋」
「……なんでしょうか?」
「希望調査、しっかり書けよ。この前話した大学も視野に入れておけ」
「……はい。わかりました。わざわざ、ありがとうございます」

「いい子の高橋かのん」の仮面が剥がれ落ちてしまわないよう、丁寧に頭を下げる。

「高橋、お前なら大丈夫だと思うが――期待してるぞ」
先生はそう言って、またあの信頼に満ちた笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。失礼します」
引き攣りそうになる頬を必死に抑えながら、私は早足で教室を後にした。
廊下に一歩踏み出すと、放課後の喧騒が容赦なく耳に飛び込んでくる。
けれど私の耳の奥では、先生の「期待してる」という言葉と、あの時クローゼットで吐き出した自分の拙いメロディーが、不協和音のように重なって鳴り響いていた。

いつもの通学路。
二月の夕暮れは冬の名残でまだ少しだけ肌寒いが、風の中に混じる微かな土の匂いが、確かに春の訪れを告げていた。
世界は新学期へ、そして「受験生」という次のステップへ向けて、着実に前を向いて動き出そうとしている。
17歳の境界線に取り残されている私は、一体どうなるんだろう。
当然、私の問いに答えてくれる人なんて誰もいない。
返ってくるのは、自分の規則正しい足音だけ。
胸には、実体のない不安だけが澱みのように残っていた。

答えのない問いを頭の中で反芻しているうちに、視線は自然と足元へと落ちていく。
アスファルトのひび割れを数えるようにして、ただ機械的に足を動かし続けた。

はっと我に返ったときには、もう自分の部屋の前に立っていた。
ただ、外の世界のすべてをシャットアウトしたくて、部屋の鍵をかける。
___ガチャリ。
静かな空間に、虚しい金属音が響いた。
そこは間違いなく私の部屋のはずなのに、ずっと持ち主を待っている寂しい部屋のように見えた。
重い鞄を床へ下ろす。
胸の奥に凝り固まった不安をすべて吐き出すように、私は深く、長い息をこぼした。

カバンの底から、目を背けるようにして進路希望調査書を取り出す。
まばゆいほどに真っ白なその紙は、今の私には直視することすらできなかった。

ふらつく足取りのまま、机に向かう。
目の前に広がる、白紙の進路希望調査書。
たまらず、ぎゅっと目を閉じた。
先生の困ったような笑み。お母さんの、心から安心したような笑顔。親友の絵里の、キラキラと輝いた瞳――。
それらが堰を切ったように脳裏に溢れ出す。

ここに「○×大学」と書き込んでしまえば、すべてが楽になるのかもしれない。
親も、先生も安心してくれる。誰もが望む、順風満帆な人生のレールに乗ることができる。

――それなのに、どうしてこんなにペンを持つ手が震えているんだろう。

どうして、あのクローゼットで吐き出した拙い歌が、しがみつくように脳裏をかすめるのだろう。

『書け』

脳がそう冷酷に命じているのに、身体はまるで自分のものではないように動かない。

――何事も挑戦!

うるさい。
それでも私は、先生のために、親のために、「いい子の高橋かのん」であり続けるために、夢を諦めなきゃいけない。シンガーソングライターなんていう、不確かな未来は捨てなきゃいけないんだ。

――諦めなかった自分を褒めてあげたいくらい

もう、やめてよ。
心臓が早鐘のようにバクバクと音を立てる。
呼吸が浅くなり、視界が歪む。私の心は、もうぐちゃぐちゃだった。
このままじゃダメなことくらい分かっている。なのに、指先は震えるばかりで、一文字もインクを落とせない。

『書くしかないんだ!』

心のどこかで、誰かが狂ったように叫んだ。
その声を、他のすべての迷いを塗りつぶすように、私は祈るような心地で紙にペンの先を押し付けた。
――その、瞬間。
「ピコピコッ」
気の抜けるような、この場にひどく不相応な機械音が、静まり返った部屋に鳴り響いた。

そんな、まさか。
心臓が跳ね上がる。淡い期待が、一瞬にして胸の奥へ広がっていく。

――期待するから、傷つくんだ
すぐに冷や水を浴びせるような声がして、私は自分に落ち着くよう必死に言い聞かせた。
カバンの底へ手を突っ込み、スマホを取り出す。

意を決して、画面を点灯させた。
その瞬間、
キャンバスに水彩絵の具が広がるように、温かい鼓動が胸に響く。
真っ暗な闇に無数の星が灯るように、今まで灰色だった私の『好き』に、鮮やかな色が灯った気がした。

鼓動が早くなる。

あの時と同じ、内側から締め付けられるような痛み。
なのに不思議と不快感はなく、妙な心地よさがあった。
目を閉じて、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
それでも興奮は収まらない。心臓がうるさいくらいに跳ねる。

恐怖と喜び。対になるふたつの感情が混ざり合い、一色に溶けていく不思議な感覚。
限界まで膨れ上がった感情に背中を押されるように、私は恐る恐る、震える指先でたった一件の通知をタップした。

『――素敵な歌声ですね。これからも頑張ってください。』

真っ白な寂しい画面に映し出された、無機質な文字列。
 絵文字も、感嘆符も、熱烈な長文でもない。
けどうれしくて、信じられなくて、ゆっくりと画面に指をすべらせる。

再読み込み。

再読み込み。

再読み込み。

__私の一等星は、消えることがなかった。

途端に、視界がじわっと滲んだ。
涙で文字が読めないくらい、世界がぐちゃぐちゃになる。
心臓が、うるさいくらいに胸の奥を叩いている。

__あぁ、届いていたんだ。

真っ暗な闇の中に一人で放り込んだはずの私の歌を、誰かが見つけて、聴いて、言葉をくれた。
気まぐれなコメントだったかもしれない。
誰にでも同じ言葉を送っているのかもしれない。
それでも、初めて本当の私を見てもらえた気がした。
私という存在を、認めてもらえた気がした。

そう思うと一気に涙が溢れ出し、私の頬を伝う。
スマホを抱きしめ、幼い子どものように声を上げて泣いた。

泣き止んだ頃には、夜空の星たちが「自分を見て」と言わんばかりに輝き始めていた。
まだ滲む視界の先に、真っ白な進路希望調査書が浮かび上がる。

じっと見つめる。
あれだけ怖くて、憎らしかったはずの紙切れが、今はなぜか愛おしく思えた。
折り目をつけないようにそっと、丁寧に引き出しにしまう。

先生や親に、何か言われるかもしれない。
だけど、それでも構わなかった。
1週間後、私は普通の大学の名前を書くかもしれない。あるいは、専門学校の名前を書くのかもしれない。

――夢を諦めるのは、誰のためだろう。

――それが自分のためじゃないなら、もう少しだけ抗ってみてもいいはずだ。

答えが返ってくることはない。何が正解かもわからない。
それでも、あの星たちのように「私の好き」を届けるために、必死になってみようと思う。
だからといって、急にファンが増えるわけじゃない。
親や先生が賛成してくれる保証だって、どこにもない。
それなのに、心は不思議なほど晴れ渡っていた。

ゆっくりと窓を開ける。
冷たくもどこか温かい夜風が、肺いっぱいに満ちていく。
あの時、胸が痛んだ理由が、今ならわかる気がした。 

進路希望調査書は真っ白なまま。
何を書くかは、まだ決められない。
それでも、ボイスレコーダーを起動させた。
誰に聞かせるわけでもない歌を、私は歌う。
昨日よりほんの少しだけ、大きな声で。

ただ夜空に輝き続ける星だけが、私の歌をじっと聴いていた。