誰のための正解に、この声を殺すのだろう

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どんよりとした灰色の分厚い雲が、空を覆っている。
日の光なんか一切見えなくて、今の私の心情そのものだな、なんて思った。

全く進んでいない授業の予習に、無理やり視線を戻す。
重要そうな単語にチェックを付け、意味を調べる。
わざわざ朝早く来て予習しているのに、授業の内容は全く頭に入ってこない。

もういいかな。
そう思って、机に突っ伏した。
冷え切った木目が、おでこからじわじわと私の体温を奪っていく。
誰もいない早朝の教室は静かで、だからこそ、頭の中の雑音がいつもより大きく響いた。
雑音から目を背けるように、ポケットからスマホを取り出す。

意味のないつぶやき。

評論家を気取った誰かの批判コメント。

クラスメイトの華やかなストーリー。

画面を適当にスワイプしていく。

ただ、ぼんやりと光が切り替わっていくのを眺めていた。
なのに、ある画面でスワイプする手がぴたりと止まった。

「17歳の天才シンガーソングライターに突撃インタビュー!!」

見たくない。
そう思っているはずなのに、私の意志とは逆に、指先が勝手に再生ボタンを押してしまった。
騒がしい効果音と安っぽいBGMを、一瞬で脇役にしてしまうほどの、澄んだ声が響く。

――数多くのヒット曲を生み出しておりますが、なにか意識していることは?
『あ〜、実は……特に意識してることとかないんですよね。なんか、思ったことを歌にしてみたらヒットした、みたいな』

画面の向こう側で、わっとどよめきが起きる。
「マジモンの天才じゃん」「羨ましい」と、羨望のコメントが滝のように流れていく。
馬鹿らしい。そう思って、今度こそ電源を落とそうとした。
なのに、次の質問でまた指が止まってしまった。

――活動を開始したてのころの心情は?
『やっぱ、音楽って一握りの人しか輝けないじゃないですか。こんな大事な時期に私は何やってるんだろう、ほんとにこれが正解なのかなって。あれこれ考えて不安になることが多かったですね』

やめろ。見るな。
頭の中で警告が鳴り響くのに、体がどうしても動かない。

――今はこの選択をどう思ってますか?
『正解、っていったらあれですけど……諦めなくてよかったって思ってます。逃げ出さなかった自分を、褒めてあげたいくらい』

うるさい。
もうやめて。

―――シンガーソングライターを目指している若者に伝えたいことは?
『そうですね…。やる前から諦めるな! 何事も挑戦! 意外となんとでもなる!』

頭を鈍器で殴られたような気がした。
ふつふつと、体の底から真っ黒な何かが湧き上がる。
爪が食い込むほど、拳を強く握りしめた。
才能があるからそんなことが言えるだけだ。そう、画面の向こうの本人に大声で叫んでやりたかった。

視界が、じわりと滲む。
ここが学校だということを思い出して、慌てて涙を拭った。
周りを見渡すも、誰も私に興味がないみたいで、本を読んでいたり、各々がやりたいことをしていた。
一人で、静かに胸をなでおろした。
こんなみっともない姿なんか、誰にも見られたくなかったから。
スマホの画面を睨みつけるようにして、電源を落とす。

集中しよう、そう自分に言い聞かせてもう一度教科書を開くも、さっきの言葉が脳裏にこびりついて離れない。

――やる前から諦めるな。

そんなの、結果論でしかない。
あの子は、ただ運がよくて成功しただけ。
……天才だったから、そんな綺麗なことが言えるんだ。
なのに。
心のどこかで、まだ奇跡を期待している自分がいる。
真っ黒な嫉妬で満ちた自分と、真っ白な希望を捨てきれない自分が同時に存在していて、酷く歪で変な感じだ。

「気持ち悪いな」

誰にも聞こえない、掠れた声でつぶやく。
不安。恐怖。そして、消せない期待。
胸の痛みに耐えかねて、震えた手でもう一度スマホの電源を入れる。

脈が、ドクドクと早くなる。
いや、早いというより、内側から締め付けられるみたいに痛い。
自分を落ち着かせるように、何度も深呼吸を繰り返す。
そして、初期設定のままの、英数字しか並んでいない空っぽのアカウントのマイページを開いた。

脳内のなにかが、パチンと弾けた気がした。
窓から入り込む冷たい冬の風が、火照った頬を撫でる。
その冷たさに、少しだけ冷静になれた気がした。
震える指で、ゆっくりと画面に指を滑らせる。

再読み込み。

再読み込み。

再読み込み。

――どれだけ繰り返しても、目の前の結果が変わることはなかった。

「やっぱ、結果論じゃん……」
再生数も、高評価も、コメントも、全部「0」のまま。
悲しくなんてない。
全部、最初からわかっていたことだ。
ただ、私の内側の深いところで、明確に“なにか”が崩れ落ちていく音がした。

「かーのん!!」

今の私にはふさわしくない、ふわふわとした明るい声に名前を呼ばれた。
画面に弾かれたように、慌てて声の方を振り向く。

「また朝から予習? えらー!!」
「予習しないと、授業についていけないから……」
絵里に気づかれないよう、そっとスマホを隠すようにポケットにしまう。

「だとしても、わざわざ朝早くから勉強できんのすごいね。あたしだったら絶対寝てるわ!」
「てか、今日もギリギリまで寝てたし」と、絵里はあくびを交えながら笑った。
可愛らしい寝癖が頭の上でぴょこぴょこと跳ねている。

「もー、絵里ってばほんとにねぼすけなんだから」
うまく笑えているかが心配だった。

「かのんが早起きなだけー!」
いつも通りの返事だった。心のなかで小さく安堵する。
絵里の目には、いつも通りの「優等生の高橋かのん」として映っているようだった。
絵里は流れるような動作で、私の前の席の椅子を後ろ向きに借りて腰掛けた。

「てかさー、かのん。昨日の進路相談どうだった?」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
絵里に動揺を悟られないように、ゆっくりと、深く息を吸い込む。

「先生に、いい感じの大学を教えてもらって。私の成績なら、安心だって」
「いいな〜かのんは。あたしは、今後もっと勉強頑張れって言われたわ〜」
何が、いいんだろうか。

「絵里は確か、看護学科がある大学に行きたいんだっけ」
「そう!! 小さい頃からの夢なんだ!」

目を輝かせながら、絵里は幼い頃の話を始めた。
入院していたときに寄り添ってくれた、優しくて頼もしい看護師さんの話。
不安なときにじっくり話を聞いてくれて、色んな人を助けながらも、キビキビと仕事をしていたのだという。
その姿に幼いながらに心を打たれ、ずっとその背中を追い続けているのだとか。

「あたし、人を助けるのも“好き”だから、まさに看護師は天職っていうか! 親にも賛成されてて、絶賛勉強頑張り中〜」
「そうなんだ。絵里ならきっと大丈夫だよ」

絵里の言う「好き」と、私の胸にある「好き」は、一体何が違うんだろう。
看護師になりたい絵里。
シンガーソングライターになりたい私。
どちらも同じ「好き」から始まった夢のはずなのに。
絵里は親にも先生にも行く道を賛成されていて、私は「現実を見ろ」と静かに諭されている。

――もう、諦めるしかないのだろうか。

「あ、やば! もうすぐ予鈴鳴るじゃん! 席戻るね!」
絵里の声に、ハッと現実へ引き戻される。
「あ……うん」
途切れ途切れの、妙に変な返事しかできなかった。
「ありがと! かのんにそう言ってもらえると百人力だわー!」
絵里は嬉しそうに笑って、器用に椅子を元の位置に戻すと、自分の席へと駆けていった。

嵐が去ったような静けさが、再び私の周りに戻ってくる。
けれど、さっきまでの静けさとは違っていた。絵里の言葉が、教室の空気の中に鋭い棘のように残っている。

「好き、か……」

小さく呟いた言葉は、自分の耳に届く前に消えた。
絵里の「好き」には、明確な理由と、真っ直ぐな思い出と、周りからの応援がある。
何より、それを口にするときの絵里の目は、一点の曇りもなく輝いていた。

それに比べて、私の「好き」はどうだろう。
誰にも言えないアカウント。誰にも聴かせられない歌。
見つかることすら怖くて、でも見つけてほしくて、結果は残酷なまでの「0」。

私の「好き」は、暗い部屋の隅で泥を捏ね上げているような、そんな惨めで、後ろ暗いものに思えて仕方がなかった。
大学の推薦をもらえるくらいの成績。先生からの「安心だ」という太鼓判。
周りから見れば、私は順風満帆な「優等生の高橋かのん」だ。

レールは綺麗に敷かれていて、踏み外さなければ、それなりの未来が待っている。
なのに、どうしてこんなに息が苦しいんだろう。
どうして、あのアカウントの「0」が、私のすべてを否定されたように痛むんだろう。

鳴り響いた予鈴の後、始まった今日の授業は、何一つとして頭に入らなかった。
黒板の上を滑るチョークの音も、先生の抑揚のない声も、すべてが遠い世界の雑音のように鼓膜を素通りしていく。
ただ、ポケットの中にあるスマホの重みだけが、歪なほどに存在感を主張していた。