俺の体は、もう壱星がくれる熱を知らなかった頃には戻れそうになかった。
教室へ戻る足取りは重くて、残された手首の熱だけがやけに主張してくる。
午後の授業はどうやって過ごしたんだか、正直まったく記憶がない。気が付けば、あっという間に放課後を迎えていた。
いつものように二人で並んで歩く帰り道。
「壱星って、ほんと変」
人通りの少ない静かな道に差し掛かったとき、歩きながらぽつりと呟いていた。
「なんで?」
「ずっと好きとか言ってるけどさ……普通、途中で飽きんじゃん」
「飽きないよ」
穏やかだが、迷いが一切ないその声に、思わず少しだけ笑ってしまう。
「なんなん、それ」
「晴だから」
「…………は?」
冗談で言っているわけじゃないって、痛いくらい分かっている。分かっているけど、理由がめちゃくちゃすぎる。
思わず眉を顰めた俺に、壱星がそっと隣に寄り添ってきた。肩と肩の距離が、いつもよりぐっと近くなる。
「晴って名前、ずっと似合うと思ってた」
……なんだよ、それ。
「どこが」
晴なんて名前、俺にはちっともふさわしくない。ただの空っぽな男だって、自分が一番よく知っている。
「だって晴、ちゃんと晴じゃん」
「いや、マジで意味分からん」
「分かる」
壱星が足を止めた。つられて俺も足を止める。
視線を向けると、夕日を背にした壱星が、俺を真っ直ぐに見つめていた。昼休みの泣きそうな目とは違う。静かだけど、射抜くようなその目に、どうしてか視線を外すことができない。
「晴、自分で思ってるよりずっとあったかいし」
壱星が一歩、俺との距離を詰めてくる。
「ちゃんと人のこと見てるし。気づいたら、みんな晴の周りに集まって晴の方見て笑ってる」
一言ずつ、噛み締めるように言われる言葉が、まっすぐ胸に刺さってくる。
そんなふうに俺のことを見てくれているやつなんて、今まで――いや、この先も、壱星以外にいないんじゃないか。
「だから、晴って感じ」
距離が近すぎて、昼休みを思い出して心臓がうるさくなる。
「そういうとこ、ずっと好き」
直球すぎる「好き」に、胸の奥がじんじんと熱い。苦しいのに、逃げたいわけじゃない。
――だからこそ、知りたくてたまらなかった。
「……なんで、そんな俺なの」
「ん?」
「……俺なんて、なんもないのに」
空っぽな俺を、こんなにも好きと言ってくれる壱星がいまだに分からないんだ。
「そんなことない」
俺が言葉を続けようとするより早く、壱星の迷いのない強い声が重なった。
「晴がいいって、何回言わせんの」
食い気味に返された低い声に、喉の奥がキュッと縮こまる。
冗談なんかじゃない。本気の目が俺を逃がしてくれない。
「……でも俺、たぶんそういうの向いてないし……一番とかそういうの、なる側じゃないし」
誰かの一番なんて、最初から俺の席じゃない。そんな資格、最初から持っていない。
「俺、壱星になんにも返せない。このままじゃ……いつか壱星が苦しくなるだけだ」
壱星からの優しさも、膨らみ続ける「好き」も、受け止めることすら俺はできていない。このまま俺が何も返せない形だけの関係が続けば、いつか絶対に壱星をしんどくさせてしまう。
へらへらと笑って誤魔化す俺を、壱星はずっと見つめていた。
壱星は小さく息を吐くと、一歩歩み寄って、俺の手をぎゅっと握りしめた。痛いほど優しい力で。
「苦しくなんてならないし、何も返さなくていいんだよ」
「……え?」
「俺が勝手に、晴ばっか見て、晴を一番に選び続けてるだけ。だから晴は何も気にしなくていいし、無理に変わろうとしなくていい」
壱星の真っ直ぐすぎる目が、俺の言い訳を全部潰してくる。
「最初から俺は、晴がいればそれでいいから」
痛いくらい心臓が強く跳ねた。
選べって言わないんだ。俺にも同じ熱を返せって、求めないんだ。
俺が空っぽでも、返せるものが何もなくても。俺の全部を、まるごと愛してくれる。
信じたら、期待したら、終わったとき痛いのは分かってる。やっぱり、めちゃくちゃ怖い。
だけど――これだけ俺を想ってくれている完璧な男から、逃げてばかりのままでいるなんて、そんなのあまりにもズルすぎる。
壱星の隣にいる未来。壱星が隣にいる未来。
そんなの、不確かでいつか壊れてしまうかもしれない未来だけど。
この気持ちだけは、絶対に逃げずに伝えなきゃダメだ。
「……期待してもいいのか、分かんないけど」
一瞬だけ息を呑んだ壱星が、穏やかに目を細めた。
「いいよ」
短かった。なのに、そのたった三文字に宿る熱量は、壱星が諦めずに俺を待ち続けてくれた証そのもので。
「俺も……壱星が好き。壱星がいなくなるの、嫌だ」
カッコ悪い泣きそうな声だったかもしれない。でも、気づいたら、頬が勝手に緩んでいた。
やっと言えた。もうこれ以上、自分の気持ちからも、壱星の「好き」からも逃げたくない。
一瞬だけ目を見開いた壱星が、
「……うん」
と、今にも泣き出しそうな、今まででいちばん甘くて綺麗な顔で笑った。
あまりにも綺麗で、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、なんだか俺まで泣きそうになる。
次の瞬間、視界が大きく揺れて、ぐいっと強く抱きすくめられた。
俺と同じくらい、いや、それ以上に激しく鳴り響く壱星の鼓動が、胸越しにドクドクと伝わってくる。
溶け合ってしまいそうなほど、今まででいちばん近くに壱星がいる。
「晴、俺――」
壱星は何かを言おうとしたけれど、その言葉は途中で止まった。
腕の中からゆっくりと見上げると──言葉より先に、唇に熱が落ちてきた。
何度も角度を変えて重なる体温の優しさが、どこまでも深く染み渡っていく。
「好きだよ」
掠れた声で落ちたその言葉は、壱星のものだったか、それとも俺のものだったのか。
もう境目すら分からないほど近くて、甘い熱が胸を満たしていく。
初めて心から好きだと思ったのも、離れてほしくないと願ったのも、隣にいてほしいと、こんなに強く望んだのも。全部、壱星が初めてだった。
指の隙間から零れ落ちていく全部を、手離すことには慣れていた。
だけど、ずっと遠くで光っていると思っていた一番星は、零れていく前に何度でもこの手を掴んでくれていた。
最初から、一度も迷わないまま、誰よりも俺を特別にしてくれていたんだ。
俺は相変わらず空っぽで、自信なんてこれっぽっちもない。
それでも、壱星が隣にいてくれるだけで、俺が差し出した小さな「好き」を、溢れるほどの熱で包み込んでくれる。
誰かに愛されることが、こんなにも満たされて、こんなにも安心するものなんだと、壱星が教えてくれた。
教室へ戻る足取りは重くて、残された手首の熱だけがやけに主張してくる。
午後の授業はどうやって過ごしたんだか、正直まったく記憶がない。気が付けば、あっという間に放課後を迎えていた。
いつものように二人で並んで歩く帰り道。
「壱星って、ほんと変」
人通りの少ない静かな道に差し掛かったとき、歩きながらぽつりと呟いていた。
「なんで?」
「ずっと好きとか言ってるけどさ……普通、途中で飽きんじゃん」
「飽きないよ」
穏やかだが、迷いが一切ないその声に、思わず少しだけ笑ってしまう。
「なんなん、それ」
「晴だから」
「…………は?」
冗談で言っているわけじゃないって、痛いくらい分かっている。分かっているけど、理由がめちゃくちゃすぎる。
思わず眉を顰めた俺に、壱星がそっと隣に寄り添ってきた。肩と肩の距離が、いつもよりぐっと近くなる。
「晴って名前、ずっと似合うと思ってた」
……なんだよ、それ。
「どこが」
晴なんて名前、俺にはちっともふさわしくない。ただの空っぽな男だって、自分が一番よく知っている。
「だって晴、ちゃんと晴じゃん」
「いや、マジで意味分からん」
「分かる」
壱星が足を止めた。つられて俺も足を止める。
視線を向けると、夕日を背にした壱星が、俺を真っ直ぐに見つめていた。昼休みの泣きそうな目とは違う。静かだけど、射抜くようなその目に、どうしてか視線を外すことができない。
「晴、自分で思ってるよりずっとあったかいし」
壱星が一歩、俺との距離を詰めてくる。
「ちゃんと人のこと見てるし。気づいたら、みんな晴の周りに集まって晴の方見て笑ってる」
一言ずつ、噛み締めるように言われる言葉が、まっすぐ胸に刺さってくる。
そんなふうに俺のことを見てくれているやつなんて、今まで――いや、この先も、壱星以外にいないんじゃないか。
「だから、晴って感じ」
距離が近すぎて、昼休みを思い出して心臓がうるさくなる。
「そういうとこ、ずっと好き」
直球すぎる「好き」に、胸の奥がじんじんと熱い。苦しいのに、逃げたいわけじゃない。
――だからこそ、知りたくてたまらなかった。
「……なんで、そんな俺なの」
「ん?」
「……俺なんて、なんもないのに」
空っぽな俺を、こんなにも好きと言ってくれる壱星がいまだに分からないんだ。
「そんなことない」
俺が言葉を続けようとするより早く、壱星の迷いのない強い声が重なった。
「晴がいいって、何回言わせんの」
食い気味に返された低い声に、喉の奥がキュッと縮こまる。
冗談なんかじゃない。本気の目が俺を逃がしてくれない。
「……でも俺、たぶんそういうの向いてないし……一番とかそういうの、なる側じゃないし」
誰かの一番なんて、最初から俺の席じゃない。そんな資格、最初から持っていない。
「俺、壱星になんにも返せない。このままじゃ……いつか壱星が苦しくなるだけだ」
壱星からの優しさも、膨らみ続ける「好き」も、受け止めることすら俺はできていない。このまま俺が何も返せない形だけの関係が続けば、いつか絶対に壱星をしんどくさせてしまう。
へらへらと笑って誤魔化す俺を、壱星はずっと見つめていた。
壱星は小さく息を吐くと、一歩歩み寄って、俺の手をぎゅっと握りしめた。痛いほど優しい力で。
「苦しくなんてならないし、何も返さなくていいんだよ」
「……え?」
「俺が勝手に、晴ばっか見て、晴を一番に選び続けてるだけ。だから晴は何も気にしなくていいし、無理に変わろうとしなくていい」
壱星の真っ直ぐすぎる目が、俺の言い訳を全部潰してくる。
「最初から俺は、晴がいればそれでいいから」
痛いくらい心臓が強く跳ねた。
選べって言わないんだ。俺にも同じ熱を返せって、求めないんだ。
俺が空っぽでも、返せるものが何もなくても。俺の全部を、まるごと愛してくれる。
信じたら、期待したら、終わったとき痛いのは分かってる。やっぱり、めちゃくちゃ怖い。
だけど――これだけ俺を想ってくれている完璧な男から、逃げてばかりのままでいるなんて、そんなのあまりにもズルすぎる。
壱星の隣にいる未来。壱星が隣にいる未来。
そんなの、不確かでいつか壊れてしまうかもしれない未来だけど。
この気持ちだけは、絶対に逃げずに伝えなきゃダメだ。
「……期待してもいいのか、分かんないけど」
一瞬だけ息を呑んだ壱星が、穏やかに目を細めた。
「いいよ」
短かった。なのに、そのたった三文字に宿る熱量は、壱星が諦めずに俺を待ち続けてくれた証そのもので。
「俺も……壱星が好き。壱星がいなくなるの、嫌だ」
カッコ悪い泣きそうな声だったかもしれない。でも、気づいたら、頬が勝手に緩んでいた。
やっと言えた。もうこれ以上、自分の気持ちからも、壱星の「好き」からも逃げたくない。
一瞬だけ目を見開いた壱星が、
「……うん」
と、今にも泣き出しそうな、今まででいちばん甘くて綺麗な顔で笑った。
あまりにも綺麗で、胸の奥がぎゅっと締め付けられて、なんだか俺まで泣きそうになる。
次の瞬間、視界が大きく揺れて、ぐいっと強く抱きすくめられた。
俺と同じくらい、いや、それ以上に激しく鳴り響く壱星の鼓動が、胸越しにドクドクと伝わってくる。
溶け合ってしまいそうなほど、今まででいちばん近くに壱星がいる。
「晴、俺――」
壱星は何かを言おうとしたけれど、その言葉は途中で止まった。
腕の中からゆっくりと見上げると──言葉より先に、唇に熱が落ちてきた。
何度も角度を変えて重なる体温の優しさが、どこまでも深く染み渡っていく。
「好きだよ」
掠れた声で落ちたその言葉は、壱星のものだったか、それとも俺のものだったのか。
もう境目すら分からないほど近くて、甘い熱が胸を満たしていく。
初めて心から好きだと思ったのも、離れてほしくないと願ったのも、隣にいてほしいと、こんなに強く望んだのも。全部、壱星が初めてだった。
指の隙間から零れ落ちていく全部を、手離すことには慣れていた。
だけど、ずっと遠くで光っていると思っていた一番星は、零れていく前に何度でもこの手を掴んでくれていた。
最初から、一度も迷わないまま、誰よりも俺を特別にしてくれていたんだ。
俺は相変わらず空っぽで、自信なんてこれっぽっちもない。
それでも、壱星が隣にいてくれるだけで、俺が差し出した小さな「好き」を、溢れるほどの熱で包み込んでくれる。
誰かに愛されることが、こんなにも満たされて、こんなにも安心するものなんだと、壱星が教えてくれた。



