誰の特別にもなれなかった俺と、愛が重すぎる一軍王子

~榊side~

 ホームルームが終わった瞬間、いつも通り晴に声をかけようとした。
 そうしたら、奇跡的に今日は晴から声をかけてくれたのに――それを遮って押し寄せてきた小向井たちに、本気で舌打ちしそうになった。
 ギリギリで笑顔を貼り付けられた自分を褒めてほしい。もちろん、晴に。

 これだけ囲まれたら今すぐには抜け出せない。仕方ない、適当に笑顔で受け流して、キリがいいところで抜け出そう。
 そう思っていたのに、小向井が最低な方向へ話を突っ走らせ始めた。

 「あっ、そうだ! 最近榊と仲いいし、鳴海も誘おうぜ!」
 「最高すぎ! 鳴海いたら絶対女子集まるだろ」

 ……は? ふざけんなよ。
 冗談でも許されるわけないだろ、そんなこと。
 晴の名前を、気安く呼ぶな。女子を集める道具みたいに扱うな。
 晴がまた誰にでも優しい顔をして笑いながら、このうるさい奴らの輪の中に入っていくのを想像しただけで、吐き気がする。

 ――ダメだ。これ以上ここにいたら、全員ぶち殺すぞって口に出してしまう。

 もう限界だ。小向井たちの話を遮ってでも、今すぐ晴と帰ろう。

 「晴、帰――」

 ……いない。さっきまでそこにいたはずの晴が、いない。
 机の横のカバンも、ない。

 まただ。自分が引けばいいと思って、すぐそうやって晴はいなくなろうとするんだ。

 気づいた時には廊下を走っていた。
 なんて断ったのか、そもそもまともに言葉を返したのかすら覚えていない。
 階段を二段飛ばしで駆け下り、昇降口で目に飛び込んできたのは、傘も持たずに雨の中へ踏み出そうとしている晴の背中だった。

 あのまま踏み出されたら、最初からこの世界にいなかったみたいに、本当に晴が消えてしまうんじゃないか――。
 急激に押し寄せた恐怖で心臓が縮み上がり、同時に、そんなふうにあっさり消えようとする晴に猛烈な苛立ちが湧いた。

 「晴っ……!」

 無我夢中で伸ばした手が、晴の手首を掴んでいた。

 よかった。ちゃんといる。あたたかい。
 手のひらに飛び込んできた確かな体温に、急に現実感が戻ってきた。

 ……触れている。こんなにも簡単に。
 一度触れてしまったら、ずっと繋ぎ止めていた理性がガタガタに崩壊しそうになる。
 だけど、掴んだ手首は思っていたよりもずっと細くて、少し力を込めただけで折れてしまいそうだ。もっと触れたい。でも、絶対に壊したくない。その二つが同時に弾けて頭が狂いそうになる。

 なのに、晴は俺と目を合わせようともせず、足元の水たまりに視線を落とした。

 「今日、一緒に帰るのやめん?」

 その声に、奥歯が軋んだ。
 やっぱりこういうやつだ。どこまでも自分を後回しにするその癖は、どうやったらなくなってくれるんだろうか。

 晴の手首を引いて、持っていた傘の中に強引に閉じ込めた。この手を離してしまったら、晴がいなくなってしまう気がして怖い。
 と、その時。掴んだ手首に力が入りすぎていたことに気づき、ハッとして手を緩める。
 しまった、強く握りすぎた。痛かったか――そう後悔したけれど、離したくない。一秒だって、この体温を手放したくない。

 緩めた手首から滑らせるようにして、晴の手を自分の手のひらで包み込む。
 ――冷たい。
 掴んでいた腕から伝わる体温とは裏腹に、雨風に晒されていた指先は驚くほど冷え切っていた。
 こんなに冷たくなっているのに、傘もなしに雨の中へ飛び出そうとしていたのか。風邪をひいたらどうするんだ。

 自分を雑に扱う晴への焦りと、愛おしさが胸の奥で一気に膨れ上がる。
 晴が自分の体をそんなふうに雑に扱うことのすべてが、俺には耐え難いんだ。
 俺はその冷えた手を温めるように、指と指の隙間に、自分の指を深く絡めた。
 がっちりと形を噛み合わせる、恋人繋ぎ。
 強引すぎただろうか。嫌がって振り払われるかと思ったけれど。

 ぎゅっと。

 晴が小さく手を握り返した。

 ……は?
 嘘だろ。晴が、いま、俺の手、握り返してくれ、た……?

 やばい。嬉しすぎる。
 晴は真っ赤な顔をして俯いている。照れてる、のか?
 可愛すぎるだろ。いっそこのままお持ち帰りしてしまいたい。……いや、どう考えてもそれはダメだろ。晴に嫌われたら立ち直れない。でも、一生大事にする。居るかも分からない神に、誓いまで立てたくなる。

 二人きりの傘の中は、耳が痛くなるほど静かで。狂ったように暴れる俺の心臓の音を、激しい雨音だけが辛うじて隠してくれている。

 今何か言葉を発してしまったら晴の手が離れてしまう気がして、恋人繋ぎになった手をさりげなく引いて歩き出す。
 晴があの雨の日、見知らぬおばあさんに傘をあげたのだと、相変わらずの無欲さで言ったのはそのすぐ後だ。

 晴はいつだってそうだ。自分を後回しにして誰かに優しくするのに、本人は特別なことなんてしたと一ミリも思っていない。
 ……その無自覚な優しさに、救われた奴がここにいるっていうのに。
 だから俺はこんなにも晴のことが好きで、同時にたまらなく不安になるんだ。

 「自分の分くらい残せよ……」

 晴は視線を落として口をつぐんだまま。いつもなら軽口の一つや二つ飛んで来るのに。

 どうして俺がこんなに必死なのか、晴はちっとも分かっていない。
 分かっていないくせに、拒絶もせずに、繋いだ手をそのまま握らせてくれている。それどころか、さっき自分から握り返してくれたその手の温度が、切ないくらいに俺の心を揺さぶる。

 ――でも、これだって雨が降っているからだ。
 雨という口実があるから、俺はこうして晴を自分の隣に繋ぎ止められていられる。
 駅に着いて雨がやんでしまったら、この手は、またあっさりと解けてしまうんだろうか。
 晴の優しさに甘えてしまっているだけかもしれない。
 ……それでも。
 繋いだ手のひらからゆっくりと体温が溶け合っていく感覚に、今だけはこの手を離したくないと、強く願ってしまった。

 俺は晴の横顔を見つめながら、傘をほんの少し晴の方へと傾けた。
 晴はこれ以上、濡れなくていい。晴が冷たく濡れて傷ついてしまう前に、俺が何度だって傘をさすから。
 繋いだ手に、もう一度ぎゅっと力を込める。
 晴の体も、心も、全部――。

 「ちゃんと、こっちで持つから」