誰の特別にもなれなかった俺と、愛が重すぎる一軍王子

~榊side~

 「コンビニ寄る?」

 前を歩く晴が、少しだけ振り返る。
 でも、俺の喉は縮こまっていて、「うん」と返すことすらできないんだから情けない。
 小さく首を縦に振るのが精一杯だ。

 「うぃ、行きましょ」

 晴は俺の反応に深入りせず、すぐに前を向いて歩き出す。
 廊下での修羅場も、さっきまでの死ぬほど重い沈黙も、全部何事もなかったことにするつもりだろう。晴はいつもそうだ。

 薄暗くなってきた住宅街の空は、どんよりと濁っている。今にも雨が降り出しそうな嫌な空気。
 あの日も、同じような曇り空だった。

 一年の、いつだったか。
 季節の変わり目のその日は、空一面に分厚い雲が垂れ込めた曇天の日だった。

 朝家を出た時はちょっと体がダルいくらいだったのに、二限目が始まったあたりで一気に体調が悪化した。
 こめかみをハンマーで叩かれているような頭痛と、喉の奥からせり上がってくる吐き気。
 正直、すぐにでも保健室へ行って休みたい。
 けれど、人前ではいつもの癖で普段通りの笑顔を作ってしまう。
 昔から人に弱みを見せるのが死ぬほど苦手で「大丈夫?」なんて聞かれれば、全く大丈夫じゃないのに反射で「大丈夫」と笑ってしまうくらいだ。
 自分のSOSの出し方すら、俺は知らなかった。

 それに、普段通りに振る舞っている俺が突然「保健室に行く」なんて言えば、大騒ぎになるのは目に見えていた。小向井たちが「サボりか?」なんて冷やかし半分で保健室まで押しかけてくる未来すら容易に想像できる。
 だったら多少しんどくても我慢してやり過ごせばいい。我慢することなんて、昔から慣れている。

 だから、教室では周りの会話に合わせて完璧な笑顔を張り付け続けた。
 誰も俺の異変に気づかない。みんないつも通り、俺の表面だけを見て満足して通り過ぎていく。
 それでいい。心配されたりあれこれ探られたりするよりマシだ。

 昼休み。いよいよ限界がきて、適当に周りの輪を抜け出した。
 誰にも見つからない、静かなところへ逃げ込もう。そう思って、人通りの少ない校舎の隅。廊下の端っこにある水道の冷たい水で顔を洗おうと身を屈めた時だった。

 「大丈夫?」

 すぐ近くから、低くて穏やかな声が聞こえた。
 ハッとして顔を上げると、制服を少し着崩した華奢な男が立っていた。

 「……平気」

 返答がワンテンポ遅れたのは、目の前に立っていた奴の顔立ちがあまりにも整っていたからだ。ああ、こいつはモテるんだろうな、なんて弱っている頭で漠然と思ってしまう。

 「いや、無理じゃん」

 ……は?
 いつも通り笑顔の仮面を被って声だって掠れないように細心の注意を払って、完璧に作ったはずなのに。どうして初対面のこいつに分かるんだ。
 そいつは、固まったままの俺の顔を覗き込んでくる。

 「歩ける?」

 ……だめだ。いつもなら「平気だから」と嘘の笑顔で突っぱねるはずの口が、全く動かない。
 本当に限界だったのもある。けれど何より、こいつの醸し出すあたたかい雰囲気があまりにも心地よくて――気づけば俺は、大人しくそいつに付き添われて保健室に向かっていた。

 隣に並んで歩く間も、そいつは余計なことを一切聞いてこない。
 「どこが具合悪いの?」「何があったの?」なんて鬱陶しい質問攻めもなければ、哀れむような視線もない。ただ俺の歩調に合わせて、隣を歩いてくれる。

 会話することもなく辿り着いた保健室は、先生が席を外しているようで静まり返っていた。
 そいつは視線だけでベッドを指すと、無言でカーテンをすっと引いてくれた。
 「入れ」と強要するわけでもなく、ただそこに居場所を作ってくれるだけの仕草だった。
 ベッドの端に腰を下ろすと、ガチガチに強張っていた身体からスーッと力が抜けていくのが分かった。

 ここまで送り届けたらすぐ帰るだろう。そう思ったのに、そいつは入り口近くの椅子に座った。
 ……え、帰らないの?
 昼休みなのにメシ食ったり友達と遊んだりしなくていいのか?
 「無理すんな」とかそんな野暮な言葉は一言もない。ただそこに座って、スマホを見ている。
 時折、そいつは視線を上げて俺を見る。視線がぶつかるとふわっと微笑んで、またすぐに視線をスマホに戻す。
 常にじっと見られているわけじゃないから、俺も変に気を使わなくて済む。
 ……いや、そうしてくれてるのか?
 過剰な心配という名の好奇心で踏み荒らされることも、放置されて見捨てられることもない、絶妙な距離感。
 ああ、俺はこういう風に扱われたかったんだ。ただ静かに、当たり前みたいに隣にいてほしかったんだ。こいつの前でなら、弱みを見せてもいいのかもしれない。
 平気なフリなんてしなくても、こいつは俺を冷やかしたり、踏み荒らしてこない。
 そう思えた瞬間、胸の奥にじんわりと熱いものが広がっていった。

 俺の体調が落ち着いてきた頃、そいつはスマホをポケットにしまうと静かに立ち上がった。

 「じゃ、お大事に」

 ふわりと、さっき向けられたどの笑顔よりもあたたかくて柔らかい微笑みを残して、そいつは出て行ってしまった。
 もしかして、俺の体調が落ち着くまでいてくれたのか? そんなに真っ直ぐで、純粋な優しさがあるのか。
 楽になった。張り詰めていた身体の芯が、嘘みたいに軽くなっている。

 でも、『ありがとう』の一言すら言えなかった。名前だって聞きそびれた。
 分かっているのは、上履きの色が俺と同じオレンジ色で、同じ一年生だということだけ。
 ちゃんとお礼が言いたい。
 ……いや、それだけじゃない。あの春の陽だまりみたいな笑顔に、もっと触れていたい。あんな顔で笑われたら、ひとたまりもない。男の俺でもドキッとしてしまった。