誰の特別にもなれなかった俺と、愛が重すぎる一軍王子

 「何してんの」

 背後から声が聞こえた瞬間、ヤバい、と全身の血が引いた。
 ビクッと肩が跳ね上がりそうになるのを、必死で抑える。信じられないくらい低くて冷ややかなその声が誰のものか、嫌というほど分かってしまう。
 めちゃくちゃ振り返りたくない。

 だけど無視できるはずもなくて、おそるおそる視線を向ける。

 ……そこにいたのは、今まで見たこともない顔をした榊だった。
 俺に向けたことのない顔なのはもちろん、他人に対してもこんな顔すんのかよってくらい、感情を一切削ぎ落とした冷たい目で、俺たちを見下ろしていた。

 「もう行くね……っ!」

 榊の放つヤバすぎる威圧感に耐えかねたのか、女子は消え入りそうな声を絞り出すと、脱兎の勢いで廊下の向こうへ走り去っていった。
 ……いや、逃げるの早すぎだろ。俺を置いてくな。

 パタパタと遠ざかる上履きの音が完全に途絶えて、放課後の廊下に俺と榊の二人だけが残される。
 助け船(女子)もいなくなって、マジで笑えないレベルの気まずい沈黙が落ちてきた。呼吸する音すら響きそうで、生きた心地がしない。

 怒っている。それも、見たこともないくらいに。
 怒らせたのは俺だし、悪いのも絶対に俺だ。そんなの百も承知だ。
 分かってるけど――言葉なんかなくても伝わってくる榊の異次元の熱量。それが逃げ場のないプレッシャーになって、俺の胸の奥を直接ぐらぐら揺さぶってくる。
 息が詰まって、どうしようもなく苦しい。

 だったら、俺の知ってるいつもの恋愛に逃げたっていいだろ。
 冷たいのに、恐ろしいくらい真っ直ぐ俺だけを射抜いてくる視線に、ダサい逃避を見透かされた気がしてくる。
 やばい。イライラしてきた。俺がイラつくなんてお門違いで、逆ギレなんてしたらもっとダサくなる。分かってる。分かってるのに、頭に血が上って感情のブレーキが全然利いてくれない。

 「何って……告られたから、いいよって言っただけ」

 自分でも引くくらい冷たく尖った声が出た。
 いつもみたいにヘラヘラ笑って適当にごまかせばいいのに、どうしてもできない。

 「は?」

 榊が一歩、距離を詰めてくる。耳を疑うくらい低い声で。
 ……なんだよその言い方、ふざけんな。

 「別にいいだろ」
 「よくねえだろ」

 強い口調で、真っ向から叩き落とされる。
 だめだ。もう取り繕えない。

 「……っ、なんでダメなんだよ! お前にそこまで言われる筋合いねえよ!」

 叫んだ瞬間、榊の目がハッと見開かれた。

 「…………な、んで。そんなこと、言えんの」

 声が、かすかに震えていた。
 怒っているんじゃない。本気で目の前の奴が理解できないとでも言いたげな、絶望の滲む声だ。
 ああ、これで終わりだ。もう二度と、元には戻れない。

 「お前もさ」

 気づいた時には、口が勝手に動いていた。
 一度溢れ出した言葉は、自分ではもうどうにも止められなかった。

 「他に好きなやつできたら、そっち行けば」
 「……なに言って――」
 「だって……そっちの方が普通じゃん」

 無理やりいつものヘラヘラした笑みを張り付けて、榊の言葉を強引に遮った。
 どうせすぐに終わるんだ。最初からなくなる前提で付き合った方がよっぽど楽だし、期待するだけ馬鹿みたいだ。
 榊とだってこれで終わり。もういいんだ。

 「……普通とか、知らねえよ」

 感情を抑えきれていないその声は、掠れていて、今にも壊れてしまいそうだった。
 ……あ。俺、傷つけた。
 本当は傷つけるって分かってたのに。こんな空っぽな俺に優しくして、「好きだ」と言ってくれたのに、俺はそういうの全部踏みにじったんだ。
 最低だ。俺には最初から、こいつの隣にいる資格なんてなかったのに。

 「俺は、晴じゃなきゃだめなんだ」

 感情を剥き出しにした榊の言葉が、まっすぐに届く。
 ……なんなんだよ、それ。
 なんでこんな最低な奴相手に、まだ『晴がいい』なんて言えんだよ。意味わかんねえよ。
 意味わかんねえのに、なんで俺は今、ちょっとホッとしちゃってんだよ。