「榊ー、ちょっといいか」
放課後のチャイムが鳴り、挨拶とともに一斉に椅子を引く音が響く中、担任がこっちに向かって手を挙げた。
榊は一瞬だけ俺の方に視線を走らせたが、もう一度「早く来い」と促され、荷物を机に置いたまま廊下へと消えていった。
よし、今日は久しぶりに一人で帰ろう。あいつに「待ってて」なんて頼まれたわけでもないんだから。
「あれ? 鳴海、帰んないの?」
「あー、うん。今帰ると電車混むし」
「分かる。満員電車ダルいよな。んじゃ、俺帰るわ」
おー、と適当に返事をしてクラスメイトを見送る。
なにが、電車が混む、だ。自分自身に呆れてツッコみたくなる。すぐに帰ろうとしたくせに、俺は結局席を立てず、スマホの画面を意味もなく点けては消して、時間を潰している。
……だってさ、ここ最近、ずっと一緒に帰っていたんだ。
急に何も言わずに先へ帰ってしまうのは、いくらなんでも感じが悪いだろ。
……言い訳じゃない。ただの社交辞令。マナー、だから。
数分後。教室に入ってきた榊が俺の姿を見て、一瞬だけ目を丸くした。
「終わった?」
「……ん、お待たせ」
榊の顔が一瞬でパッと弾けて、いつもより嬉しそうな声が返ってくる。
あいつは俺の隣にある自分の席ではなく、わざわざ俺の前の席の椅子を引き、背もたれを抱え込むようにして正面から向き合って座ってきた。昼休みの小向井と同じような座り方なのに、どうしてこいつだと、息が詰まるほど絵になってしまうんだろう。
俺を視界の真ん中から逃がさないような完璧な位置取りがいかにも榊しくて、思わず少し身構えてしまう。
俺はカバンを榊との間に滑り込ませて机の上に置いた。ちょっとした壁の完成だ。
これなら大丈夫だ。何が大丈夫かは分からないが、大丈夫のはずだ。
「てかさ」
カバン越しにできるだけ軽いトーンを装って、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を投げかけてみることにする。
「なんでわざわざ俺? お前ならいくらでもいいやついるだろ」
どうせいつものように「晴が好きだから」なんて冗談めかして即答されるはず。
だが――その瞬間、榊の顔から笑顔が消えた。
長い沈黙が流れる。おかしい。いつもの感じじゃない。いつもならどんな言葉も完璧に返すあいつが、珍しく視線を彷徨わせ、慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「……いいとこ、たくさんあるから」
さんざん考えた末に出た答えがそれかよ。抽象的すぎるだろ。榊らしくない。それともこいつは本当にそんな曖昧な理由で、今まで俺のことを好きなんて言ってきたのか?
「たとえば?」
これ以上聞いてどうするんだ。知らないほうがいいような気がするのに、言葉が勝手に重なっていく。
榊は困ったように眉を下げ、それから静かに微笑んだ。
「優しいとことか」
――優しい。
その言葉があまりにありきたりで、思わず、顔面に張り付けた笑みが消えそうになる。
「それ、別に俺じゃなくてもよくね?」
「よくない」
今度はかみつくような即答。
いつの間にか、カバンはぺしゃん力なく崩れ、俺と榊を隔てるものは何もなくなっていた。
マジな雰囲気に耐えきれなくなって、俺は頬杖をついてそのまま外の景色に目を向けた。
「優しいやつなんていくらでもいるだろ。だったら意味ないじゃん」
「意味、あるよ」
低く、地を這うような声だった。榊から発せられたものか疑うほどに。
ちらっと視線を戻すと、榊は眉を寄せて、いつもの柔らかい雰囲気は完全に消えていて。
……なんでそんな苦しそうな顔してんだよ。
「俺は、晴だからいい。俺にとって晴は特別だから」
俺のカバンの横で、榊の手が、爪の先が白くなるほど強く握りしめられていた。真っ直ぐ見つめてくる目が怖いくらい真剣で、直視できない。
そんな俺の逃げ場なんてないくらい強く言い切られても困る。
俺にとって『特別』とか『一番』なんて、自分とは縁のない言葉だから。
兄貴――快は昔から誰よりも輝く特別な存在だった。
何かを成し遂げる前からただそこにいるだけで、周囲の視線を、期待を、熱を、一身に集めていた。両親にも、親戚にも、友達にも、きっと恋人にも選ばれるのが当たり前の存在。
二人合わせて『快晴』なんて笑ってしまう。両親は何を思って付けたんだか。そこに深い意味なんてないのかもしれないけど、俺なんて兄貴の陰で生きてきた、鳴海家の付属品でしかない。
かといって、両親を恨んだこともないし、兄貴と同じように扱ってほしいと望んだこともない。兄貴だって期待を背負って大変そうだし、羨ましいとも思わない。
最初から一番になることを諦めていたからこそ、傷つかずに済む平穏を手に入れていたんだ。
期待して、勘違いして、後から「やっぱりお前じゃなかった」なんてことになったら、立ち直れない。
胸の奥がチクッとする程度の痛みで済むうちに、自分から諦めればいい。最初から何も望まなければ、後で惨めに傷つくこともないんだから。
それなのに。
目の前にいる兄貴と同じ選ぶ側の男は違う。
あんなにかわいい女の子の真っ直ぐな告白すら秒で切り捨てて、俺みたいな空っぽの奴に、逃げ場がないくらいの重さでぶつかってくる。
それが、どうしても理解できない。
榊が言っている「晴」という人間は、自分とは全く別の、どこか遠くにいる見知らぬ誰かなんじゃないか。そいつはきっと、榊にふさわしい、価値のある、ちゃんとした人間のはずだ。
「晴だから、好きなんだよ」
沈黙を破って真っ直ぐぶつけられた言葉。その視線の先にいるのは、やっぱり俺で。
頼むから、そんな熱量をこれ以上俺にぶつけないでくれ。返せるものどころか、受け止める器すら俺には存在しないんだ。
真っ直ぐな好意を向けられれば向けられるほど、虚しさが募っていくんだ。
放課後のチャイムが鳴り、挨拶とともに一斉に椅子を引く音が響く中、担任がこっちに向かって手を挙げた。
榊は一瞬だけ俺の方に視線を走らせたが、もう一度「早く来い」と促され、荷物を机に置いたまま廊下へと消えていった。
よし、今日は久しぶりに一人で帰ろう。あいつに「待ってて」なんて頼まれたわけでもないんだから。
「あれ? 鳴海、帰んないの?」
「あー、うん。今帰ると電車混むし」
「分かる。満員電車ダルいよな。んじゃ、俺帰るわ」
おー、と適当に返事をしてクラスメイトを見送る。
なにが、電車が混む、だ。自分自身に呆れてツッコみたくなる。すぐに帰ろうとしたくせに、俺は結局席を立てず、スマホの画面を意味もなく点けては消して、時間を潰している。
……だってさ、ここ最近、ずっと一緒に帰っていたんだ。
急に何も言わずに先へ帰ってしまうのは、いくらなんでも感じが悪いだろ。
……言い訳じゃない。ただの社交辞令。マナー、だから。
数分後。教室に入ってきた榊が俺の姿を見て、一瞬だけ目を丸くした。
「終わった?」
「……ん、お待たせ」
榊の顔が一瞬でパッと弾けて、いつもより嬉しそうな声が返ってくる。
あいつは俺の隣にある自分の席ではなく、わざわざ俺の前の席の椅子を引き、背もたれを抱え込むようにして正面から向き合って座ってきた。昼休みの小向井と同じような座り方なのに、どうしてこいつだと、息が詰まるほど絵になってしまうんだろう。
俺を視界の真ん中から逃がさないような完璧な位置取りがいかにも榊しくて、思わず少し身構えてしまう。
俺はカバンを榊との間に滑り込ませて机の上に置いた。ちょっとした壁の完成だ。
これなら大丈夫だ。何が大丈夫かは分からないが、大丈夫のはずだ。
「てかさ」
カバン越しにできるだけ軽いトーンを装って、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問を投げかけてみることにする。
「なんでわざわざ俺? お前ならいくらでもいいやついるだろ」
どうせいつものように「晴が好きだから」なんて冗談めかして即答されるはず。
だが――その瞬間、榊の顔から笑顔が消えた。
長い沈黙が流れる。おかしい。いつもの感じじゃない。いつもならどんな言葉も完璧に返すあいつが、珍しく視線を彷徨わせ、慎重に言葉を選んでいるのが分かった。
「……いいとこ、たくさんあるから」
さんざん考えた末に出た答えがそれかよ。抽象的すぎるだろ。榊らしくない。それともこいつは本当にそんな曖昧な理由で、今まで俺のことを好きなんて言ってきたのか?
「たとえば?」
これ以上聞いてどうするんだ。知らないほうがいいような気がするのに、言葉が勝手に重なっていく。
榊は困ったように眉を下げ、それから静かに微笑んだ。
「優しいとことか」
――優しい。
その言葉があまりにありきたりで、思わず、顔面に張り付けた笑みが消えそうになる。
「それ、別に俺じゃなくてもよくね?」
「よくない」
今度はかみつくような即答。
いつの間にか、カバンはぺしゃん力なく崩れ、俺と榊を隔てるものは何もなくなっていた。
マジな雰囲気に耐えきれなくなって、俺は頬杖をついてそのまま外の景色に目を向けた。
「優しいやつなんていくらでもいるだろ。だったら意味ないじゃん」
「意味、あるよ」
低く、地を這うような声だった。榊から発せられたものか疑うほどに。
ちらっと視線を戻すと、榊は眉を寄せて、いつもの柔らかい雰囲気は完全に消えていて。
……なんでそんな苦しそうな顔してんだよ。
「俺は、晴だからいい。俺にとって晴は特別だから」
俺のカバンの横で、榊の手が、爪の先が白くなるほど強く握りしめられていた。真っ直ぐ見つめてくる目が怖いくらい真剣で、直視できない。
そんな俺の逃げ場なんてないくらい強く言い切られても困る。
俺にとって『特別』とか『一番』なんて、自分とは縁のない言葉だから。
兄貴――快は昔から誰よりも輝く特別な存在だった。
何かを成し遂げる前からただそこにいるだけで、周囲の視線を、期待を、熱を、一身に集めていた。両親にも、親戚にも、友達にも、きっと恋人にも選ばれるのが当たり前の存在。
二人合わせて『快晴』なんて笑ってしまう。両親は何を思って付けたんだか。そこに深い意味なんてないのかもしれないけど、俺なんて兄貴の陰で生きてきた、鳴海家の付属品でしかない。
かといって、両親を恨んだこともないし、兄貴と同じように扱ってほしいと望んだこともない。兄貴だって期待を背負って大変そうだし、羨ましいとも思わない。
最初から一番になることを諦めていたからこそ、傷つかずに済む平穏を手に入れていたんだ。
期待して、勘違いして、後から「やっぱりお前じゃなかった」なんてことになったら、立ち直れない。
胸の奥がチクッとする程度の痛みで済むうちに、自分から諦めればいい。最初から何も望まなければ、後で惨めに傷つくこともないんだから。
それなのに。
目の前にいる兄貴と同じ選ぶ側の男は違う。
あんなにかわいい女の子の真っ直ぐな告白すら秒で切り捨てて、俺みたいな空っぽの奴に、逃げ場がないくらいの重さでぶつかってくる。
それが、どうしても理解できない。
榊が言っている「晴」という人間は、自分とは全く別の、どこか遠くにいる見知らぬ誰かなんじゃないか。そいつはきっと、榊にふさわしい、価値のある、ちゃんとした人間のはずだ。
「晴だから、好きなんだよ」
沈黙を破って真っ直ぐぶつけられた言葉。その視線の先にいるのは、やっぱり俺で。
頼むから、そんな熱量をこれ以上俺にぶつけないでくれ。返せるものどころか、受け止める器すら俺には存在しないんだ。
真っ直ぐな好意を向けられれば向けられるほど、虚しさが募っていくんだ。



