誰の特別にもなれなかった俺と、愛が重すぎる一軍王子

 『でも、お兄ちゃんの方じゃなくて良かった』

 病院の入口で電話をしていたどこか事務的な見知らぬ女性の声が、なぜか耳にこびりついて離れない。

 担任から聞き出した病院までの道のりをどうやって移動したのか、はっきりとは覚えていない。
 ただ、信号待ちの数十秒が永遠のように長く感じたことだけを覚えている。

 消毒液の匂いが鼻をつく。
 案内された部屋のドアノブに手をかけた瞬間、雨の日に濡れたまま「平気」と笑っていた晴の顔が頭に浮かんだ。

 自分の体温すら顧みない、あの危うい瞳。
 晴は丈夫なんじゃない。自分が傷つくことに、ただ興味がないだけだ。
 もし、本当に平気じゃない事態になっていたら――。
 考えただけで、指先が凍りつく。俺は祈るような心地でドアを開けた。

 白い室内。その中央で、晴はパイプ椅子に座って平然とスマホを眺めていた。
 頭には真っ白な包帯が巻かれ、腕には痛々しい大ぶりの絆創膏が貼られている。けれど、俺の視線に気づいて顔を上げたその表情は、拍子抜けするほどいつも通りの鳴海晴だった。

 「うわ、壱星じゃん」

 晴が俺に気づいて顔を上げた瞬間――全身の力が一気に抜け、膝が崩れそうになる。
 生きてる。息をしてる。よかった、本当によかった……。

 「学校は? いいの?」

 ……は? なんで人のこと心配してんだよ。

 「知らねえよ、そんなの。晴、怪我してんじゃん。横になってろ」
 「怒んなよ。ちょっとかすっただけで、先生も検査したら帰っていいって言ってたし」

 そう言って、いつもみたいに軽い調子で笑った、次の瞬間――晴の顔からすっと感情が消えた。

 「これくらい、死なないし」

 息が止まりそうだった。
 強がりでもユーモアでもない。ただの、完全な『無』。

 なんでそんなこと言うんだよ。なんで……なんでそんな目をするんだ。

 こんな晴を見るのは初めてで。簡単に「そんなこと言うなよ」なんて笑い飛ばしてはいけないことは分かるのに、なんて言葉をかければいいのか、何も言わない方がいいのか、今の俺には全く分からなかった。
 立ち尽くしていると、病室のドアが開き、さっき入口で見かけた女性が入ってきた。

 「あ、母さん」

 その瞬間、晴から『無』は綺麗に消えて、代わりにいつも俺が学校で見る晴の笑顔とは違う、気色の悪いほど完成された笑顔に切り替えられた。

 「大丈夫?本当に心配したのよ」

 そう言いながらも、母親の手は晴の身体を心配して触れるわけではなく、鞄から保険証や書類を取り出すことに忙しない。

 「学校には連絡したの? あ、それよりお兄ちゃん、今日大事な試合だったのに……」
 「ごめんごめん。もう大丈夫だから、早く兄貴の応援行きなよ」
 「そう? じゃあ、自分で学校行きなさいね」
 「うぃ。気をつけてね」

 目の前で繰り広げられた、あまりに軽快で、淀みない完成されたやり取り。
 母親の視線は、最後まで晴の傷を見なかった。

 さっき聞いた『お兄ちゃんの方じゃなくて良かった』という言葉の意味が、痛いほど理解できてしまう。
 晴は、自分の優先順位が低いことに、完全に慣れきっているんだ。
 握りしめた拳に、爪が痛いほど食い込む。
 晴がどうして自分のことをこんなにも雑に扱うのか。その絶望的な理由の正体が、ここに転がっていた。