誰の特別にもなれなかった俺と、愛が重すぎる一軍王子

 「え、鳴海、どしたんそれ。川にでも落ちた?」

 教室の扉を開けた瞬間、笑い交じりの声とクラスメイトたちの視線が一斉に俺に集まった。
 無理もない。俺の髪からは雫が滴り、制服はほぼ全域が雨を吸って重くなり、肌にベタリと張り付いているから。けど――まあ、そのうち乾くだろ。真冬じゃなくて助かった。

 「傘パクられた」
 「かわいそ。どうしたら学校来るだけで傘パクられるんだよ。治安終わってるな」
 「俺の傘、女性ウケバツグンの柄なんだよ」
 「傘までモテるんか!」
 「ていうか、鳴海の傘ってフツ―のビニール傘だろ!」

 男子たちが爆笑する。……なんで俺の傘がビニ傘だって知ってんだよ。たまたまか?
 適当な会話でその場を終えて、男子たちも満足したのか、すぐに元の雑談へと散っていった。
 俺も自分の席へ戻り、濡れたカバンを机に置いた。

 「晴」

 低い声で名前を呼ばれ、振り返る。
 そこには、なぜか大きめのバスタオルを手にした榊が立っていた。
 そんなもの学校に常備してんのか、と感心したのも束の間。
 俺の前ではいつも分かりやすすぎるくらいなのに、今の榊の表情からは何を考えているかが一切読み取れない。
 ……いや、ちょっと待て。かなり怒ってる……のか? だとしたら、なんで?

 疑問を口にする隙もなく、榊は無言のままさらに一歩、距離を詰めてきた。
 広げられたバスタオルが、俺の視界を覆うように迫ってくる。拭いてくれる気満々――というか、完全に逃がさない構えだ。

 「いいって」
 「じっとして」

 制止するのも聞かず、榊は俺の頭にタオルを被せると、そのまま髪を拭き始めた。

 各々の雑談に花を咲かせていた教室の喧騒が、スーッと息を潜めた。

 「え、そこまでやる……?」
 「めっちゃ過保護じゃん。榊、面倒見良すぎな」

 戸惑いと苦笑いが混ざったような囁きが、あちこちから聞こえる。俺だって同じ気持ちだよ、と頭を抱えたくなる。
 いつもは適当に俺を茶化すたけぴーたちすら黙り込んでいるし、一軍メンバーなんて「榊マジかよ」とニヤニヤしながらこっちを見ているのがタオルの隙間から見えた。最悪すぎる。注目されたくないんだって。

 「マジで乾くから」

 タオルの隙間から睨んでみても、その手は止まらない。

 「風邪ひく」
 「平気」
 「平気じゃない」

 榊の声は、珍しく少しだけ低く、強かった。
 けれど頭を撫でるように髪を拭く手つきは、驚くほど優しい。タオル越しにある手は、直接触れられているのかと思うほど熱くて、榊の体温が容赦なく沁み込んでくる。
 至近距離で熱い吐息が掠めた。
 顔面国宝のドアップはいくら俺が男でも心臓に悪いからやめてほしい。

 ようやく手が離れた、と思ったのも束の間。
 榊はタオルを適当にくるめてカバンに突っ込んでから、今度は自分のジャージを取り出し、俺の机に置いた。

 「これ、着て」
 「いや、いいって。自分のあるし」
 「いいから」

 また誰かの「ジャージ貸すの……?」という呟きが聞こえてきた。教室中の視線を一身に浴びて、いたたまれない。
 拒否権はあるのか、という問いも込めて、机の上のジャージを見つめ、それから榊の顔を見た。榊は一切引く気のないまっすぐな瞳で俺を見つめてくるだけ。どうやら俺に拒否権はないらしい。
 ここで王子様の親切を断ったらクラス中から大バッシングを受けるに決まっている。被害を最小限に抑えるには、おとなしく従っておくしかない。

 「……じゃあ、ありがとう。……借り、ます」

 腹をくくって濡れた制服を脱ぎ、被害の少なかったTシャツ一枚になると、なぜか榊の顔がさらに険しくなった気がした。なんなんだよいったい。
 もう無視だ。いちいち気にしたらキリがない。
 ジャージに袖を通すと、それは俺のものより一回り大きくて、肩回りがだぼついてすっぽりと俺を包み込んだ。俺だって背は高い方で、榊と身長はそんなに変わらないはずなのに、おかしい。

 「ちゃんと上まで閉めて」

 言うなり、目の前にすっと伸びてきた榊の手が、ジジジッ、と音を立ててチャックをいちばん上まで一気に引き上げた。
 サイズがデカいせいで首元が完全に覆われてしまう。

 「……苦しいんですが」
 「これでよし」

 俺の抗議には一切耳を貸さず、さっきまで般若みたいな顔をしていた榊が、パッと満足そうに目を細めた。なんでそんな達成感に満ちた顔してんの。

 榊は満足げな顔のまま、俺が脱いで机に置いていた制服をひょいと持ち上げた。

 「え、なにしてんの」
 「なにって、干すんだけど」
 「自分でできる」
 「うん。俺がやりたいだけだから。晴は座ってて」

 制止する間もなく、榊は俺の制服を持って俺の席の少し後ろの窓辺に丁寧に吊るしてくれた。濡れた制服から水が滴って、さっそく床に小さな水たまりを作り始めている。
 榊のあまりにもスマートな振る舞いに圧倒されてしまって、俺はだぼだぼの袖を握りしめたまま、突っ立って眺めることしかできない。

 首元からは、いつも榊からする爽やかで少し甘い香りがふわっと立ち上る。香水かと思っていたけど違ったらしい。
 身体全体が榊の匂いに包まれている感覚。……なんだこれ。落ち着かない。

 じわじわと熱くなっていく耳を隠すように、俺は逃げるように自分の席へ腰を下ろした。
 ……が、逆効果だった。
 座り直した拍子に口元までジャージが押し上がってきて、より一層……その……いい匂いがする。
 匂いまでメロの権化かよ。だめだ、落ち着かない。
 耐えかねてファスナーを半分くらい開け、萌え袖気味になっていた袖を勢いよく肘のあたりまで捲ると、榊にキッとにらまれた。いやいや、おかしいだろ。

 「それ、元に戻して」
 「動きにくいからやだ」

 ジトっとにらみ返すと、榊の手が俺の首元に伸びてくる。俺は身を引いてそれを回避した。

 「お願い」
 「無理」

 押し問答の末、ホームルーム開始のチャイムが鳴り、『チャックは上まで閉める』『手が見えるくらいは袖を捲ってもいい』という不毛な協定で一旦の手打ちとなった。

 授業中。もはや恒例となってきつつある刺さるような視線を感じて横を向くと、案の定、榊が頬杖をついたままこっちを見つめていた。

 「……なに」

 小声で尋ねると、榊は俺の髪の先や、俺が着ている自分のジャージの襟元に満足そうに視線を落とす。

 「ちゃんと乾いたかなって」
 「過保護かよ」

 それだけ言い捨てて正面を向くと、隣からふっとかすかな笑い声が聞こえた。

 ……ダメだ。なんか、調子が狂う。
 こんな風に誰かに構われて、心配されて、過保護なくらい優しくされるなんて、人生で一度も経験したことがない。
 胸の奥がソワソワして痒くて、耳がじわじわと熱を持とうとする。これは、誰かからこんな風に優しく扱ってもらえたからってバグってるだけだ。……いや、何に対しての言い訳だ。もう何も考えないようにしよう。
 気づけば俺のノートは、無意味な線で埋め尽くされていた。