「……アイト?」
呼びかけても、彼はすぐには答えなかった。
数日ぶりに見る顔は、無人駅で別れた夜よりも青白い。長い髪もろくに整えられておらず、目の下には薄い隈が浮かんでいる。
嘘ではなく、本当に体調が悪いのだろう。
けれど、僕には会えないほど具合が悪かったはずのアイトが、なぜかカシマさんの隣に立っている。
僕にはそのことこそが、何よりも解せなかった。
「体調、悪いんじゃなかったのか?」
「……悪かったよ」
「じゃあ、なんでここにいるんだよ」
「べつに。今日は少しマシだったから」
「そうじゃなくて」
自分の声が、石室の中で尖っていく。
いま責めるべきではない。
会えたことを喜ぶべきだ。体調を気遣い、無人駅で彼を傷つけたことを謝って、それから僕のついた嘘を打ち明けなければならない。
そのために、僕は工房へ出向くつもりでいた。
なのに、カシマさんと並ぶアイトを見た途端、用意していた言葉はすべて胸の底へ沈み、嫉妬と虚勢という名の錆びついた斧を手にした女神が黒い沼から浮き出てきた。
「僕が工房へ行っても、ずっと会ってくれなかっただろ。それなのに、どうしてカシマさんとは一緒にいるんだよ」
アイトの眉が、わずかに寄った。
「それは……」
「彼を責めないでくれないか」
カシマさんが穏やかな声で割って入る。
「僕が工房を訪ねたんだ。アルカ社の顔料を実際に確かめたいと言うから、ここまで連れてきた。彼の体調についても、医師から外出の許可は────」
「カシマさん、いいですから」
アイトが遮った。
カシマさんは口を閉じたが、僕の中で一度逆立った感情は収まらなかった。
「僕には何も言わなかったのに」
「おまえだって、何も言わなかっただろ」
「なにをッ」
「……もういい」
アイトは顔を背けた。
言いかけた言葉の続きが何なのか、僕にはわかっていた。
無人駅でのこと。あの夜のことだ。
どうして自分を拒んだのか。
なぜ彼女と寝ている時に自分を思い浮かべたのか。
あれから僕が何を考え、アイトをどう思っているのか。
彼が知りたかったことを、僕は何ひとつ伝えていない。それなのに、僕だけがアイトへ説明を求めている。
「おんやぁ〜?」
張りつめた空気を、場違いなほど陽気な声が切り裂いた。
公園のデブ猫が通行人に甘えて出すような揺らぎだった────先生だ。
彼はいつの間にか忍び寄って、僕の後ろから顔を覗かせている。
「久しぶりじゃねえか、アイ子よ。いしゃあ、ようやく俺様にツラ見せる気になったか」
アイトの表情が露骨に険しくなった。
「んだよ。裏切り者が」
「なーにが裏切りだよ。クソガキが」
先生は呆れたようにふんっと鼻を鳴らし、僕の肩へ肘を置いた。
「いしゃあらが十色を見つけられてんのは、俺様のおかげだぞ? なあ、タツキよ」
僕の心臓が、ひとつ大きく打った。
「いや、俺様はもちろん。こいつの妹や、その彼氏も。みんなで刺青を見ながら、ああでもないこうでもないって推理してだなぁ」
アイトが僕を見る。
「おい……何の話だよ」
先生の肘から、重さが消えた。
「あれ、おい。いしゃあ、まさか」
「先生。私たちは退散しましょう」
最悪だ。こんなはずじゃなかったのに。
「十色を見つけたのが、耽二郎のおかげって……それだじゃないって……どういう意味だよ」
「アイト、それは」
「おまえがひとりで、全部見つけたんだろ?」
確かめるような問いではなかった。そうであってほしいと願う声だった。
ひとりで採石場へ行った。ひとりで刺青を読み解いた。
僕がそう言うたび、アイトは信じてくれた。疑うこともなく、僕を褒め、自分には僕しかいないのだと笑った。
その信頼が、いま僕の目の前で答えを待っている。
「……違う」
ようやく絞り出した声が、石室の床へ落ちた。
「僕ひとりで見つけたんじゃない」
アイトの瞳が揺れる。
「ナズナと、ギンスケくんが素材を探してくれた。先生も一緒に歩き回ってくれて。顔料や加工のことを教えてもらった」
「じゃあ……刺青を読んだのは?」
「ナズナ。僕の妹だよ」
言葉にしてしまえば、驚くほど短かった。
僕が積み重ねてきた嘘は、たった数行で崩れた。
「ナズナが図像の規則を見つけた。先生が骸梅の製法を教えてくれて、それと照らし合わせて……僕は、その解読結果をもらっただけなんだ」
「どうやって」
アイトの声から、感情が消えていた。
「どうやって、お前の妹が俺の刺青を読んだんだよ」
答えなければならない。今日、自分の口で話すと決めただろう。
けれど喉が塞がり、息だけが漏れた。アイトの視線が、僕のポケットへ落ちる────そこには、スマホが入っている。スノードームでは文鎮でしかないはずのスマホが。
「写真……見せたのか?」
「……うん」
「誰に」
「ナズナと、先生に。ギンスケくんも、素材を探す時に見た」
アイトは動かなかった。
怒鳴りもしなければ、掴みかかってもこない。その静けさの方が、よほど恐ろしかった。
「俺の背中を?」
「そうだよ」
「服、着てなかったよな」
「刺青を全部撮るには、そうするしかなかったから……」
「じゃあ、裸の俺を。そいつらに見せたんだ?」
「アイト、聞いてよ。遊びで見せたんじゃない。守矢十色を見つけるために必要だったんだ」
「……必要だった?」
アイトの唇が、かすかに震えた。
自分の手首へ触れ、何かを確かめようとする。けれど、そこに顔料はない。身体の中にあるはずの正解さえ、今は彼を支えてくれないようだった。
「おまえ……わかってんのか……また晒したんだぞ……!」
怒声が、石室を震わせた。
頭上から細かな砂が落ち、作業灯の光をちらちらと横切る。
「アイト」
「また、俺のことを勝手に人に見せたんだぞ!」
「あの時とは違う!」
反射的に声を張り上げてしまった。言った瞬間、アイトの顔が歪む。
「何が違うんだよ」
「あの時は、僕が何もわかってなかった。けど、今回はお前のために────」
「あの時も、そう言っただろ!」
12歳の教室。
彼のインクリボンをみんなに見せた僕。
アイトは何も悪くない。男を好きになるのは、おかしいことではない。みんなにもわかってもらいたかった。
────彼のためなのだと、僕は信じていた。
「俺のためなら、なんで俺に聞かなかったんだよ」
答えは、わかっている。ずっと前から、わかっていた。
「……聞いたら、見せるなって言ったと思う」
「じゃあ、わかってたんじゃねえか」
息が止まった。
「俺が嫌がるって、最初からわかってたんじゃねえかよ」
「でも、そうしなきゃ十色は見つからなかった! お前は色が見えないし、唇で確かめ続けて倒れて……僕だって、どうすればいいかわからなかったんだよ!」
「だからって、俺のカラダを晒していいってのか!」
「アルカ社に負けたら、全部取られるんだぞ! お前が取り戻したいって言ったから、僕は────」
「わかってねえよ、おまえは────!」
アイトの声がひっくり返った。怒りにではない。今にも泣き出しそうな、幼い声だった。
「あれは色のサンプルじゃねえ。暗号でも、地図でもねえ……」
アイトがさっと距離を詰めて僕に近づく。
「俺の背中だ。俺のカラダだ……!」
アイトは胸元を掴んだ。
その下にある古傷。アイトが僕につけた”あの日“の傷に語りかけている。痛みに耐えかねて、彼はぐちゃぐちゃに溶けた心を吐き出すようにして僕に言った。
「おまえだけにしか、見てほしくなかったのに────!」



