「有賀くん。あなたに言っておかねばならないと思っていたんですがね。ええ、その格好です。先生の弟子のくせして、オス丸出しで。まったく耽美でない。美耽二郎門下を名乗るなら、もっと性の境目を目指しなさい。そもそもキミ、見るたびに逞しくなってオスみが増して……くどくどくどくどくど……」
古墳の壁に張り付いての作業だ。結構な重労働なうえに、先ほどからずぅーっと背後に立つこの人にくどくど説教を食らっている。
この人────飛騨さん。
見た目はメガネをかけた美少女だが、実はぜんぜん美少女じゃない。おじさんだ。
つまり先生の関係者だ。というか弟子の一人だ。
「あと来るのが遅い。十三分と四十二秒の遅刻です」
ひいひい言いながら湖底古墳へ駆け込んだが、やはり遅刻だったか。作業着姿の飛騨さんは懐中時計を吊る下げて、いまになってそれを責めてくる。
「す、すみません。ちょっと、その……」
「まずは脱毛からはじめなさい。毛根はいかにして死滅するのかが……くどくどくど……」
飛騨さんは元々、ロシアのエルミタージュ美術館に勤めていたほどの凄腕のキュレーターだったらしい。それがどういうわけか先生に弟子入りしているわけで。先生の信頼を得た彼は、石室内の温湿度管理から作業工程までを一手に取り仕切っている。
「あ、またヘラが……」
古墳内部には足場が組まれ、何台もの作業灯が石室を照らしていた。
光を浴びた石壁には、乾いた鱗のような白い析出物がこびりついている。湖水に含まれていたミネラルや土、微生物の死骸が長い年月をかけて層をつくったものだ。
僕に任されたのは、それらを少しずつ取り除く作業だった。
力を入れれば、石の表面ごと削れてしまう。だから竹べらの先を寝かせ、付着物と石壁の境目へそっと差し込み、浮いた部分だけを刷毛で払っていく。
少しずつ剥がれていくたびに、その下へ隠していたものを露わにしていく様は、まるで僕の隠し事まで暴かれてゆくようで、心の奥が無駄にざわついてしまう。
「すみません、飛騨さん。新しいのください」
「また壊しましたか。オスみがありすぎるのです。あの子、片倉さんを少しは見習いなさい」
アイト。その名を聞くと、やはり思考が持ってかれる。
ギンスケくんに蹴られた脇腹の痛みも忘れてしまうほどに。
「よっこいしょーいち」
飛騨さんが作業台に乗り、背伸びをした。
彼は綿棒の先へ薬液を染み込ませ、僕が浮かせた付着物の境目を丁寧になぞった。
白い層が湿り、石壁本来の暗い色がじわりと戻ってくる。
見上げれば、遥か頭上に観音がいた。
中央には、永遠を体現する一尊。
そして左右には、色を失いかけた二尊────どちらが湖の底へ残るのかを競うための、ふたつの器だ。
僕らの観音と、アルカ社の観音。同じ輪郭の中に、異なる正解が塗り込められるための。
「やれやれ。これも時代だな」
頭上から声が降ってきた。慈悲深い菩薩のそれではなく、公園を仕切るデブ猫な揺らぎ。最近はちょっと可愛い気もしてきた。
────耽二郎先生だ。
彼は足場の階段をゆっくりと下りてくる。今日はさすがにセーラー服ではなく、白い作業着を着ていた。けれど耳元には、いつも通り大量のピアスがぶら下がっている。
「先生。遅いですよ」
「いしゃあだけだぞ、飛騨よ。時間守ってるの」
飛騨さんは立ち上がると、小走りで先生に駆け寄って作業着についた埃を払い始めた。文句を言いながらも、その手つきは世話焼きの母親みたいだった。
「ちょうどいい。タツキ、いしゃあに見せたいもんがある」
「何ですか?」
「あっちの正解だ」
先生が顎で示した先に、長机が置かれていた。
その上には、筒状に巻かれた大判の紙と、十個の白磁の器が並べられている。
器に盛られた顔料は、どれも乾いた状態だった。赤、青、緑、黒。名前のつかない中間色もある。作業灯の光を受けて、鉱物特有の細かな粒子がかすかに瞬いていた。
「まさか、これ……」
「アルカ社が持ってきた守矢十色のサンプルだ」
先生は大判の紙を掴み、机の上へ広げた。
描かれていたのは、天井にいる左右の観音と同じ線画だった。
その片側だけが、すでに彩色されている。
────息を呑んだ。
観音の衣を満たす、濡れた羽のような黒。水面の底から月を見上げたような青。死者の頬へ添えられた花びらを思わせる、淡く濁った色。
僕は、それらを知っていた。
工房で何度も見た。アイトと二人で作った。彼の手首へ塗り、唇で触れて、正解だと確かめた色だ。
「これ……僕らのものと、ほとんど同じです」
「ほとんど、じゃねえはずだぞ」
先生は白磁の器をひとつ持ち上げ、指先で顔料をすくった。
紙の余白へ塗り、乾いた布で軽く擦る。
「少なくとも、俺の目じゃ塗り分けても差は出ねえ。粒子の立ち方も、膠との馴染みも、乾いたあとの艶もな」
「でも、原料は……」
「そこが、いちばん笑えるところだ」
先生は机上に置かれていた資料を僕へ放った。
顔料ごとに、使用された素材と加工工程が記されている。
建材用の酸化鉄。工業用の炭素粉末。廃ガラスを粉砕した粒子。大量生産された市販の染料。
守矢の土も、水も、石も使われていない。片倉家の蚕も。
どれも守矢の外で手に入り、特別な職人でなくとも、設備さえあれば同じ品質で作れるものばかりだった。
「こんな……」
喉の奥が乾いて、声が掠れた。
僕らは、ひとつの色を作るために何日もかけた。
刺青の図像を読み、雪の中を歩き、古い採石場や女子校へ忍び込んだ。アイトは身体を壊し、それでも唇で正解を探し続けた。
そうしてようやく見つけた色と、アルカ社が安価な素材で作り上げた色が、同じ紙の上に並んでいる。
どちらが本物なのか────僕には、わからなかった。
いや、それ以上に。わからないという事実が、何より恐ろしい。
「そんな顔すんな」
先生は僕の額を指先で弾いた。
「まだ同じと決まったわけじゃねえ。似た色を作るだけなら、ヨカタにだってできる。こいつが湖の底へ残るかどうかは、別の話だ」
「でも……」
「いしゃあらの色には物語がある。向こうの色には技術がある。どっちを微生物が食うかなんざ、俺にもわからねえが。やることだけやっとけ。な、あれほら……飛騨よ、なんだっけ?」
「人事を尽くして天命を待つ。ですね、先生」
慰められているはずなのに、少しも楽にはならなかった。
アイトは言っていた。
自分の作る守矢十色が正解だと証明したい。それによって、自分自身を証明したいのだと。
けれど、もしもアルカ社の色が残ったなら。
守矢の土も、片倉家の血も、アイトの傷も必要ではなかったと、世界そのものに告げられてしまう。
僕は、そんな彼に何を渡せる。
嘘で手に入れた賞賛か。他人の力を自分のものにした、偽物の手柄か。
アイトは僕を信じている────僕だけは、自分の側にいるのだと。
その信頼を受け取っておきながら、僕は彼にとって一番残酷なことを隠している。
「言わないと」
僕は資料を握りしめた。
いま、僕は決めた。アイトに全て話そう。今夜、工房に行ってアイトが会ってくれるまでそこを離れずに。そして真実を告げよう。
そう、決めた────その刹那だった。
「おや。予定より早いですね」
石室の入口から、複数の足音が聞こえてきたのだ。
「飛騨さん、誰か来るんですか?」
「アルカ社ですよ。顔料の改良版を届けると連絡がありました」
胸の奥が、ひやりと冷えた。
やがて作業灯の光の中へ、長身の男が姿を現す……やはりあの男か。
上質なロングコート。
雪のひとひらさえ計算して避けているような、静かで整った足取り。
「作業中に失礼するよ」
カシマさんだった。だが────
僕は無意識に、その後ろを見た。彼は一人ではなかったからだ。
細い肩。
長い髪。
工房にいるはずの、僕を避け続けていた人。それは。
「……アイト?」



