17歳のスノードーム


「有賀くん。あなたに言っておかねばならないと思っていたんですがね。ええ、その格好です。先生の弟子のくせして、オス丸出しで。まったく耽美でない。美(うろし)耽二郎門下を名乗るなら、もっと性の境目を目指しなさい。そもそもキミ、見るたびに逞しくなってオスみが増して……くどくどくどくどくど……」

 古墳の壁に張り付いての作業だ。結構な重労働なうえに、先ほどからずぅーっと背後に立つこの人にくどくど説教を食らっている。
 この人────飛騨(ひだ)さん。
 見た目はメガネをかけた美少女だが、実はぜんぜん美少女じゃない。おじさんだ。
 つまり先生の関係者だ。というか弟子の一人だ。

「あと来るのが遅い。十三分と四十二秒の遅刻です」

 ひいひい言いながら湖底古墳へ駆け込んだが、やはり遅刻だったか。作業着姿の飛騨さんは懐中時計を吊る下げて、いまになってそれを責めてくる。

「す、すみません。ちょっと、その……」
「まずは脱毛からはじめなさい。毛根はいかにして死滅するのかが……くどくどくど……」

 飛騨さんは元々、ロシアのエルミタージュ美術館に勤めていたほどの凄腕のキュレーターだったらしい。それがどういうわけか先生に弟子入りしているわけで。先生の信頼を得た彼は、石室内の温湿度管理から作業工程までを一手に取り仕切っている。

「あ、またヘラが……」

 古墳内部には足場が組まれ、何台もの作業灯が石室を照らしていた。
 光を浴びた石壁には、乾いた鱗のような白い析出物がこびりついている。湖水に含まれていたミネラルや土、微生物の死骸が長い年月をかけて層をつくったものだ。

 僕に任されたのは、それらを少しずつ取り除く作業だった。
 力を入れれば、石の表面ごと削れてしまう。だから竹べらの先を寝かせ、付着物と石壁の境目へそっと差し込み、浮いた部分だけを刷毛で払っていく。
 少しずつ剥がれていくたびに、その下へ隠していたものを露わにしていく様は、まるで僕の隠し事まで暴かれてゆくようで、心の奥が無駄にざわついてしまう。

「すみません、飛騨さん。新しいのください」
「また壊しましたか。オスみがありすぎるのです。あの子、片倉さんを少しは見習いなさい」

 アイト。その名を聞くと、やはり思考が持ってかれる。
 ギンスケくんに蹴られた脇腹の痛みも忘れてしまうほどに。

「よっこいしょーいち」

 飛騨さんが作業台に乗り、背伸びをした。
 彼は綿棒の先へ薬液を染み込ませ、僕が浮かせた付着物の境目を丁寧になぞった。
 白い層が湿り、石壁本来の暗い色がじわりと戻ってくる。

 見上げれば、遥か頭上に観音がいた。
 中央には、永遠を体現する一尊。
 そして左右には、色を失いかけた二尊────どちらが湖の底へ残るのかを競うための、ふたつの器だ。
 僕らの観音と、アルカ社の観音。同じ輪郭の中に、異なる正解が塗り込められるための。

「やれやれ。これも時代だな」

 頭上から声が降ってきた。慈悲深い菩薩のそれではなく、公園を仕切るデブ猫な揺らぎ。最近はちょっと可愛い気もしてきた。
 ────耽二郎先生だ。
 彼は足場の階段をゆっくりと下りてくる。今日はさすがにセーラー服ではなく、白い作業着を着ていた。けれど耳元には、いつも通り大量のピアスがぶら下がっている。

「先生。遅いですよ」
「いしゃあだけだぞ、飛騨よ。時間守ってるの」

 飛騨さんは立ち上がると、小走りで先生に駆け寄って作業着についた埃を払い始めた。文句を言いながらも、その手つきは世話焼きの母親みたいだった。

「ちょうどいい。タツキ、いしゃあに見せたいもんがある」
「何ですか?」
「あっちの正解だ」

 先生が顎で示した先に、長机が置かれていた。
 その上には、筒状に巻かれた大判の紙と、十個の白磁の器が並べられている。
 器に盛られた顔料は、どれも乾いた状態だった。赤、青、緑、黒。名前のつかない中間色もある。作業灯の光を受けて、鉱物特有の細かな粒子がかすかに瞬いていた。

「まさか、これ……」
「アルカ社が持ってきた守矢十色のサンプルだ」

 先生は大判の紙を掴み、机の上へ広げた。
 描かれていたのは、天井にいる左右の観音と同じ線画だった。
 その片側だけが、すでに彩色されている。
 
 ────息を呑んだ。
 観音の衣を満たす、濡れた羽のような黒。水面の底から月を見上げたような青。死者の頬へ添えられた花びらを思わせる、淡く濁った色。
 僕は、それらを知っていた。
 工房で何度も見た。アイトと二人で作った。彼の手首へ塗り、唇で触れて、正解だと確かめた色だ。

「これ……僕らのものと、ほとんど同じです」
「ほとんど、じゃねえはずだぞ」

 先生は白磁の器をひとつ持ち上げ、指先で顔料をすくった。
 紙の余白へ塗り、乾いた布で軽く擦る。

「少なくとも、俺の目じゃ塗り分けても差は出ねえ。粒子の立ち方も、膠との馴染みも、乾いたあとの艶もな」
「でも、原料は……」
「そこが、いちばん笑えるところだ」

 先生は机上に置かれていた資料を僕へ放った。
 顔料ごとに、使用された素材と加工工程が記されている。

 建材用の酸化鉄。工業用の炭素粉末。廃ガラスを粉砕した粒子。大量生産された市販の染料。
 守矢の土も、水も、石も使われていない。片倉家の蚕も。
 どれも守矢の外で手に入り、特別な職人でなくとも、設備さえあれば同じ品質で作れるものばかりだった。

「こんな……」

 喉の奥が乾いて、声が掠れた。
 僕らは、ひとつの色を作るために何日もかけた。
 刺青の図像を読み、雪の中を歩き、古い採石場や女子校へ忍び込んだ。アイトは身体を壊し、それでも唇で正解を探し続けた。

 そうしてようやく見つけた色と、アルカ社が安価な素材で作り上げた色が、同じ紙の上に並んでいる。

 どちらが本物なのか────僕には、わからなかった。
 いや、それ以上に。わからないという事実が、何より恐ろしい。

「そんな顔すんな」

 先生は僕の額を指先で弾いた。

「まだ同じと決まったわけじゃねえ。似た色を作るだけなら、ヨカタにだってできる。こいつが湖の底へ残るかどうかは、別の話だ」
「でも……」
「いしゃあらの色には物語がある。向こうの色には技術がある。どっちを微生物が食うかなんざ、俺にもわからねえが。やることだけやっとけ。な、あれほら……飛騨よ、なんだっけ?」
「人事を尽くして天命を待つ。ですね、先生」

 慰められているはずなのに、少しも楽にはならなかった。
 アイトは言っていた。
 自分の作る守矢十色が正解だと証明したい。それによって、自分自身を証明したいのだと。

 けれど、もしもアルカ社の色が残ったなら。
 守矢の土も、片倉家の血も、アイトの傷も必要ではなかったと、世界(湖)そのものに告げられてしまう。
 僕は、そんな彼に何を渡せる。

 嘘で手に入れた賞賛か。他人の力を自分のものにした、偽物の手柄か。
 アイトは僕を信じている────僕だけは、自分の側にいるのだと。
 その信頼を受け取っておきながら、僕は彼にとって一番残酷なことを隠している。

「言わないと」

 僕は資料を握りしめた。
 いま、僕は決めた。アイトに全て話そう。今夜、工房に行ってアイトが会ってくれるまでそこを離れずに。そして真実を告げよう。
 
 そう、決めた────その刹那だった。

「おや。予定より早いですね」

 石室の入口から、複数の足音が聞こえてきたのだ。

「飛騨さん、誰か来るんですか?」
「アルカ社ですよ。顔料の改良版を届けると連絡がありました」

 胸の奥が、ひやりと冷えた。
 やがて作業灯の光の中へ、長身の男が姿を現す……やはりあの男か。

 上質なロングコート。
 雪のひとひらさえ計算して避けているような、静かで整った足取り。

「作業中に失礼するよ」

 カシマさんだった。だが────

 僕は無意識に、その後ろを見た。彼は一人ではなかったからだ。

 細い肩。
 長い髪。
 工房にいるはずの、僕を避け続けていた人。それは。

「……アイト?」