星のない夜空の、星座を探す。

 ♢プロローグ

 『十七歳の私へ。
 あなたを殺します。 ┃』

 そこまで打って、指が止まった。
 白い画面の上で、黒いカーソルが規則正しく明滅している。
 早く続きを書けば? なんて急かされているみたいで、腹が立つ。
 「分かってるし」
 吐き捨てるように呟いてから、私はベッドに倒れ込んだ。置いていたスマホが背中に当たる。少し身体をずらすと、今度は充電ケーブルが脇腹に刺さった。
 「痛っ……もう」
 こういう日は、たぶん何をやっても駄目なんだと思う。
 私は仰向けになって、天井を見つめた。
 時計の針は、午前一時十七分。明日は普通に学校がある。もう寝た方がいい。絶対に寝た方がいい。だけど、眠れない。原因は明確だ。私は、もう一度身体を起こした。
 ローテーブルからノートパソコンを拾い上げて、膝の上に載せる。画面には、さっき書いた二行が残っていた。
 「……怖いって」
 自分で書いておいて、自分で笑う。

 私は遺書を書いている。
 正確に言えば、十七歳の私への遺書。

 十八歳になれば、大人になる。
 十年有効のパスポートが取得できるとか、クレジットカードが作れるとか、選挙に行けるとか。でもさ、昨日までと同じ顔で目を覚まして、制服を着て教室へ行く。誕生日が来た瞬間から「はい、あなたは今日から大人です」なんて言われても、正直、意味が分からない。
 私にはあと一週間しか残されていない。十七歳は最後の子供時間なんだ。子供だから許されていたこと。子供だったから間違えたこと。子供だからって言い訳したこと。そういうものを全部ここに書いて、十八歳になる前に置いていく。

 そう思ってたのに、問題がひとつだけ。

 十七歳に置いていきたいものを考えると、どうしても一人の顔が浮かんでしまうことだ。


 ♢第一章


 「(すい)、何書いてるの?」

 「うわっ!」
 頭の上から声が落ちてきて、私は反射的にノートパソコンを閉じた。パタンと、静かな図書室に音が響く。カウンターに座っていた図書委員が、じろりとこちらを見る。私は苦笑いをして、小さく頭を下げた。
 「……びっくりした」
 「それ、こっちの台詞なんだけど」
 声の主は、胸元に二冊の本を抱えて、私と閉じられたノートパソコンを交互に見ている。
 「何もそんな全力で閉じなくても」
 「(れい)が勝手に覗くから」
 「覗いてないよ、チラッと見えただけ」
 怜はそう言って、私の向かい側の椅子を引いた。私たちのいつもの席。私が窓側で、怜がその向かい。別に約束してるわけじゃないし、最初は偶然だった。それが二回になって、三回になって。気づけば、どちらかが先に来ていると、もう片方が当たり前みたいにここへ座るようになった。私も怜も帰宅部だ。共通点はふたりとも読書が好き。怜が本を机に置く。一冊は小説で、もう一冊は進路について書かれた本だった。
 「なにそれ」
 「どっち?」
 「そっち」
 私は小難しそうな方を指差す。
 怜は本の表紙を見て、ああ、と声を漏らした。
 『まだ、何者でもない僕たちの地図の描き方』帯には「やりたいこと」なんて、今すぐ決めなきゃダメですか? だって。気がついたら私も深く頷いていた。センスのある帯だ。
 「進路調査、出せって言われたからさ」
 「昨日が提出期限だったじゃん……出さなかったの?」
 「出したよ」
 怜は少しだけ眉を下げた。
 「第三希望まで全部『未定』って書いたら、出したことにならないらしい」
 私は思わず吹き出した。
 「笑わないでよ。先生、本気で怒ってたんだから。『お前は自分の将来をなんだと思っているんだ』って、額に青筋立てて」
 そう言って、怜は自分の眉間にもぐっと力を入れた。真似をしたんだろうけど、全然似てない。
 「んーー、十点」
 私の含み笑いに、怜は不満そうに眉を八の字にした。
 「ねぇ、どうしたらいいと思う?」
 ほら、まただ。こうやって甘えてくる。
 怜は背が高い。廊下を歩いていれば、それなりに目立つし、黙っていれば近寄りがたいと言う子だっている。『クールな貴公子』なんてあだ名がつくくらい、ビジュもいい。でも、私からすればどこが貴公子なんだ? って話だ。ほら、その潤んだ瞳の上目遣いでお願いしてくる感じ。本人に自覚があるのかは知らないけど、あざとい。お姉ちゃんに宿題を手伝ってほしい妹みたいで、こんなの放っておけるわけがない。
 「おーーい、翠?」
 「ん?」
 「今、絶対なんか失礼なこと考えてたでしょ」
 怜は頬を膨らませてみせる。
 「……考えてないよ」
 「間があったし、口が半開き」
 「気のせい、気のせい」
 私は笑って誤魔化す。穴の空いた風船みたいに、怜の頬はゆっくり萎んだ。でも、なにか言いたげに魚みたいに口をパクパクさせている。こういう怜を、私はたぶん、ほかの誰より知ってる。私だけでいい。そう思っていること自体が、少し傲慢なのかもしれないけど。
 「ん、助けて!」
 怜は進路調査票をこちらへ押しやった。
 助けて、と言われても困る。私は進路指導の先生でもなければ、人生何周目かの高校生でもない。
 「普通に書けばいいじゃん。気になる大学とか」
 「はぁ……。それが分かんないから未定って書いたんだけどーー」
 「じゃあ、怜のやりたいことは?」
 「今はない!」
 即答だった。清々しいほどに潔すぎる。
 私は怜の持ってきた進路本を手に取った。ぱらぱらと適当にページをめくってみる。好きなことから考える。得意なことを書き出す。十年後の自分を想像する。そんな見出しが並んでいた。
 十年後か。私も怜も二十七歳。
 結婚するには丁度いい……とか、何考えてんの私。来週の自分すら想像できないのに。でもさ、妄想するくらいは許されるよね。
 「じゃあさ、怜はどんな大人になりたい?」
 私はページをめくっていた指を止めて聞いてみる。怜は「大人?」と繰り返した。
 「そう。職業とか大学とかじゃなくて。こういう人になりたい、みたいな」
 「……急に難易度上げてない?」
 「上げてないよ。むしろ下げたつもり」
 怜は納得していない顔で人差し指を顎に添えた。視線が私から窓の外へ逃げる。それから、怜はしばらく黙っていた。
 「……普通でいいかな」
 思っていたより小さな声だった。
 「普通?」
 「うん」
 「普通って?」
 聞き返すと、怜は困ったように笑った。
 「翠はなんでも知りたがるね。そういうの聞く?」
 「聞くでしょ。普通なんて人によって違うじゃん」
 「あのさ……」
 言葉が止まる。怜の指が、ピアノの鍵盤を弾くように、机を叩く。一度。二度……。何かを探すみたいだ。
 「ちゃんと、自分らしくいられる人」
 ようやく出てきた答えは、ひどく曖昧だった。
 「なにそれ」
 「だから、進路とか。そういうの全部」
 「できたら悩んでないか」
 「だからなりたいんでしょ! 知ってるくせに」
 むっとした顔で返されて、私の心臓はヒュッと縮こまる。「ごめん」
 怜のなりたい自分なんだから、今の自分と真逆なのは当たり前か。
 「……翠はさ」
 「私?」
 「どんな大人になりたいの?」
 今度は私が黙る番だった。考えたことがなかった……と言うより、今まさに考えようとしていることだ。昨夜から、ずっと。私は閉じたノートパソコンへ視線を落とす。怜も私の視線を追いかけて、同じところを見た。視線が交わる。
 「あ!」
 嫌な予感がする。怜の口元が、にやりと持ち上がって、それは的中した。
 「まだ聞いてなかったね」
 「何を?」
 「それだよ、さっきの」
 人差し指が、私のノートパソコンを指す。進路の話で忘れてくれたと思ってたのに。
 「これは……国家機密だから」
 「翠って国家の最年少スパイとか? そんなキャラ設定だったっけ?」
 「今、この瞬間にね。就任しました」
 「じゃあ余計気になる。都市伝説とか好きだし」
 怜がずいっと身を乗り出してくる。私はノートパソコンを抱き寄せた。あっとゆう間に、怜の顔が至近距離にやって来る。こういうとき、身長差が腹立つ。
 「ちょ、近いって!」
 「ねぇ見せてよ」
 「やだ!」
 小声で攻防しているつもりが、またカウンターからの視線を感じた。図書委員が無言で唇の前に人差し指を立てている。
 すみません。私は口の形だけで謝った。怜も肩をすくめて椅子に座り直す。
 「……じゃあ、見せなくていいから教えてよ」
 私はノートパソコンを抱えたまま、じっと怜を見る。
 別に隠すつもりはなかった。むしろ、怜には話そうと思っていた。一人でやるより、誰かとやった方が面白そうだとも思っていたし。
 「遺書だよ」
 怜がぱちぱちと瞬きをした。
 「……え?」
 「だ、か、ら、遺書を書いてるの」
 怜の顔から、さっきまでの笑いが消えた。引きつった顔で言葉を探している。しまった。言い方を間違えた。
 「待って。違うから、誤解」
 私は慌てて両手を振った。
 「何が違うの」
 「死なない。私、めちゃくちゃ生きる予定だから」
 怜は数秒、私の顔を見つめた。冗談を言っているのか確かめているみたいだった。
 「ほんとに?」
 頷いた私を見て、それから大きく息を吐く。
 「翠が変な事言うから。びっくりしたよ……心臓に悪いって」
 「ごめん」
 「普通に心配したし、なんて言っていいかわからないしさ」
 その一言に、胸の奥が少しくすぐったくなる。悟られないように、私は誤魔化すように笑った。
 「これさ、十七歳の私に宛てて書いてるの」
 「十七歳の翠に?」
 「うん」
 怜はますます分からないという顔をした。そりゃそうだ。私だって同じことを言われたら、たぶんその顔するし。もちろん、書こうと思ったきっかけはある。
 「この前、鹿児島に行ったって話したじゃん」
 「ひいおばあちゃんに会うって」
 「そう」
 ノートパソコンから手を離す。
 「知覧に行ったの」
 怜の表情が少し変わった。
 「……知覧て確か、特攻隊の?」
 「うん、そうだよ。うちのひいおじいちゃん、特攻隊員だったんだって」
 怜は驚いたように目を見開いた。
 「そうだったんだ」
 「私も詳しくは知らないんだけどね。会ったこともないし。生きて帰ってきたから、私がいるんだけど」
 怜は小さく顔を縦に揺らす。
 「それでね、初めて見せてもらったものがあって」
 私は少しだけ間を置いた。怜は喉をごくりと鳴らす。
 「ひいおじいちゃんの遺書」
 「それ、翠も読んだの?」
 「うん。読んだ。でもね、不思議な遺書だった」
 イメージする戦時中の遺書とは違う。家族への感謝とか、国のためにとかじゃなくて。残された人たちを安心させるような、綺麗な言葉でもなくて。
 「表向きは遺書なんだけど。遺書ってよりは、ひいおばあちゃんに宛てて書いた手紙。でも、受け取ったのは亡くなったあと。遺品整理をしてた時、偶然に」
 「どうして?」
 「出すつもりがなかったからじゃないかな。クッキー缶の底に、隠すように入れられてたみたいだし」
 怜が眉間に皺を寄せ、首を傾げる。
 墨で消されるのを恐れるような、か細い文字で。死にたくない。怖い。君ともっと一緒にいたい。生きて帰って、また君に会いたい。そんな十七歳の本音が、何枚もの紙に残っていた。
 「なんていうかさ……」
 私はうまく言葉にできなくて、一度息を吐いた。
 「遺書っていうより、恋文だった」
 「恋文……?」
 「うん。びっくりするくらい、まっすぐなラブレター」
 怜は黙って私の話を聞いている。
 「読んでたらさ、昔の人っていう感じがしなくて」
 青春の真ん中で、好きな人がいる。もっと一緒にいたい。将来が不安だ。言いたいことがあるのに、言えない。そんなのばっかり……。
 「私と、あんまり変わらないんだなって」
 言った瞬間、目の前の怜と目が合った。今度は、私が慌てて視線を逸らす。違う。いや、違わないけど。そういう意味で言ったんじゃない。
 「それで、思ったんだ」
 私は閉じたノートパソコンに触れる。
 「たぶん遺書だったから書けたんだよ」
 「……言えない本音みたいなことも?」
 「うん。誰にも見せないし、大切な人にも届かない。だから、格好つけなくてよかったんじゃないかな」
 隠しておきたい心の叫び。誰にも聞こえない十七歳の本音。
 「だったら私も、遺書なら書けるかなって」
 「……翠の心の中にある本音って?」
 怜が自然な流れで聞いてくる。私は答えられなかった。だって、その答えは今、目の前に座っている。
 「私、来週で十八歳になるでしょ? だから、十七歳のうちに言えなかったこととか、間違えたこととか、嫌いだった自分とか。そういうのを全部書いてみようと思ったの」
 「翠の心の中か。ねぇ、例えば?」
 「しつこい! 国家機密だってば」
 「人のは聞いといて? ずるいなぁ」

 だから、私は殺したいんだよ。
 何も言えない、自分の気持ちごと。


 ♢第二章


 その夜、私はスマホの画像フォルダをスクロールした。少し黄ばんだ便箋を、スマホの画面いっぱいに広げる。もう、何度目か分からない。私は、一行目から指で追った。二枚目の言葉が胸に響く。

 『この手紙を、君に渡すことはないと思う。

 だから、ここにだけ書いておく。

 本当は、死ぬのが怖い。

 皆の前では、そんなことは言えない。 怖くないような顔をしているけれど、 僕はそんなに立派な人間ではない。

 まだ死にたくない。

 もう一度、君に会いたい。 君の声を聞きたい。 君と歩いた道を、もう一度歩きたい。

 帰ることが許されるのなら、 何でもいい。 ただ君のそばで生きていたい。

 こんなことを願うのは、 男らしくないな。
 正しい選択ではないかもしれない。

 それでも僕は、

 生きて帰りたい。

 君に会いたい。

 どうか、もう一度だけ■■■■、■■■。』

 最後は涙なのか、インクが滲んで読むことができない。
 スマホを胸の上に伏せた。これが正しいことなのかは分からない。この一文が、妙に胸の奥に残る。
 正しいって、なんだろう?
 幼稚園くらいの頃は、もっと簡単だった気がする。人に優しくしましょう。嘘をついてはいけません。困っている人がいたら助けましょう。悪いことをしたら、ごめんなさいを言いましょう。なんの疑問もなく、はーい! ってまっくずに手を伸ばしたじゃないか。
 テストにしたって、問題があって、答えがあって、丸かバツかを決められて。そういう正解を一つずつ覚えて、集めて、間違えないようになっていくのが、大人になることだと思っていた。
 なのに、足跡を振り返れば、正解のない問題ばかりが増えた。
 誰かを守るためにつく嘘は、悪いこと?
 大切な人だからこそ、本当のことを言わないのは正義?
 言えば傷つけるかもしれない。言わなければ、何も知らないまま笑っていてくれるかもしれない。だったら、黙っている方が優しんじゃないの? でもさ、それは本当に相手のため? それとも、傷つけて嫌われるのが怖い自分のため?
 分からない。
 考えれば考えるほど、分からなくなる。
 ひいおじいちゃんだって、そうだったんだろうか?
 あんなに簡単な言葉なのに、誰にも渡さない手紙の中にしか書けなかった。

 私はもう一度スマホを持ち上げる。
 画面に残っているのは、私とおなじ十七歳の本音。
 好きな人に、会いたい。
 一緒に、生きたい。
 それが正しいかどうかなんて、本当は関係ないはずなのに。
 「私は、どうしてこんなに怖いんだろう」
 相手が怜だからだ。
 怜を傷つけたくない。それだけは、間違えたくない。私は一度、同じように正解を探して、何も言えなくなったことがある。怜が、心の中を見せてくれた日のことだ。

 *     

 去年のこと。
 二学期末テストが終わった日の放課後だった。図書室のドアを開けると、轟々と唸る暖房の低い音。それに混じって、ときどき誰かがページをめくる音だけが耳に響いた。
 怜は、いつもの席にいる。
 あれ? 変だな。って違和感を抱えながら席に向かう。怜は本を開いているけど、ずっと遠くを見ていた。
 「おつかれ!」
 耳元で囁くと、少し驚いて、怜は小さく右手を上げた。向かいの席に座り、私が自分の本を十三ページ読み終えても、怜のページの厚さは変わらなかった。右手の親指だけが、本の角を何度も擦っている。小説の結末よりも、そっちが気になって、私は本を閉じた。
 「怜! ねぇ、怜」
 「へっ……なに?」
 「なんかあった?」
 慌てて本に視線を落とした怜を、私は目で追いかける。
 いつもなら、「なんで?」とか「別に?」とか、すぐ返ってくるのに。その沈黙が、何かあるんだと言ってるようだ。
 五分くらいして、怜がようやく口を開く。
 「……翠にさ」
 そこで止まる。それから怜は一度だけ唇を舐めて、ゆっくり顔を上げた。
 「翠にさ、言っておきたいことがあるの」
 いつもの怜なら、ここで私が「なに、告白?」なんて言えば、くだらないって笑ったと思う。それさえ言えないくらい、怜の顔が、あまりにも真剣だった。
 「うん」
 私も、きちんと背筋を正して、次の言葉を待つ。急かさない方がいい気がした。怜は机の上で両手を組んだ。右手が上になって、次は左手が上になって、また右手に戻る。落ち着かないのか、何度も繰り返している。それを見ているうちに、私まで息苦しくなってきた。
 何を言われるんだろう? 学校を辞めるとか……引っ越すとか。病気とか? 嫌な想像ばかりが勝手に浮かぶ。
 「やめてよ! 怖いって……」なんて言葉が、喉から飛び出しそうだったけど、そんなことは言えなかった。ふーっと大きく怜が息を吐いた。
 「私ね」
 一度、思考が止まる。……わたし?
 「女の子なんだ、たぶん」
 ちゃんと聞こえた。凛と響いて、こだましている。だから、聞き間違いだとも思わなかった。意味だって、分かった。
 じんわりと視界が滲み、頭の中が真っ白になった。
 目の前には怜がいる。
 短い髪で、男子の制服を着て。私よりずっと高い身長で。少し低い、いつもの声で「翠?」と私を呼んでる。クラスの女子たちが「顔がいい」って騒ぎ立て、いつの間にか『クールな貴公子』なんて呼ばれ始めた怜。私はずっと、怜を可愛いものが好きな男の子だと思っていた。

 ──私ね、女の子なんだ。

 頭に響き続けている。私は何も言えないまま、怜の顔を見た。怜は、怜だった。当たり前だ。数秒前と何も変わっていない、怜がいる。その目元も、涙ボクロも、すっきりと通った鼻筋も。丸みのある唇も。緊張すると右手の親指で何かを擦る癖も。全部、私の知っている怜だ。なのに私は今まで、怜のことを何も知らなかったんじゃないかと思った。ほかの誰より知ってる。そんな優越感に浸りながら、どこかで勝手に思っていたのに。じゃあ、今まで私が見ていた怜って何だったんだろう。男の子の怜……それは、本当の怜じゃなかった?
 違う。そんなふうに考えること自体、怜に失礼な気がする。だって、昨日まで一緒に笑っていた怜が嘘だったわけじゃない。
 でもさ、どこまで聞いていいの? いつから? どうして?
 家族は知ってるの? 制服は嫌い? 怜って名前は……?
 聞きたいことが、一気に浮かんだ。口を手で覆って、私は下を向いてしまった。
 どれも聞いてはいけない気がした。興味本位だと思われたらどうしよう。無神経だよ。嫌なことを思い出させるかもしれないじゃん。その前に、怜に何か言わなきゃ。きっと、怜は私の返事を待っている。分かっているのに、今度は口が動かない。カタカタと小さく震えている。なんて言えばいい? なんて言えば、怜を傷つけない?

 ──私、気にしないよ。

 違う。
 それじゃ、気にするって言ってるみたいじゃん。

 ──分かるよ。

 それも違う。当事者でもない私に、何が分かるの? 私は怜じゃない。怜が、いつから自分のことをそう思っていたのかも、それを誰にも言えずに、悩んだ時間も計り知れない。分かるなんて言ったら、それこそ嘘だ。

 ──大丈夫だよ。

 何が? 何が大丈夫なの? 怜は別に、悪いことをしたわけじゃない。怜は自分の素直な気持ちを話してくれた。

 ──そうなんだ。

 それだけ? 勇気をだして、震えながら話してくれた怜に、それだけ? どれも違う。全部、間違っている気がした。じゃぁ、正解はどれ? 私は必死で探した。たった一つでいい。それを言えば、怜が安心できて、傷つかなくて、私に話してよかったと思ってくれる言葉だ。そんな都合のいい正解をずっと探した。見つからない、見つかるわけがない。学校では、こんな問題を教えてくれなかった。教科書にも載っていない。四つの選択肢もない。時間だけが過ぎて、怜の瞳が、少しずつ不安そうに揺れていく。私が黙っていること自体が、もう怜を傷つけているかもしれない。そう思った瞬間、焦って言葉がこぼれた。
 「……ごめんね」
 怜の眉が、わずかに動いた。
 違う、最悪。なんで最初にそれを選ぶの、私。
 「今のごめんは違くて」
 慌てて首も、両手も振る。
 「怜が女の子なのが嫌とか、そういうんじゃなくて。全然そうじゃなくて……。なんて言えばいいのか、分かんなくて」
 喉が詰まった。
 「……ちゃんと返したいのに」
 自分でも驚くくらい、小さな声になった。怜に返事をする隙を与える間もなく、私ばかり話していた。
 「怜がちゃんと話してくれたから、私もちゃんとしたこと言いたいのに……」
 制服のスカートを、ぎゅっと膝の上で握る。
 「何が正解なのか、分かんないよ」
 情けなかった。怜はきっと、私なんかよりずっと長い時間悩んだ。今日、私に言おうって決めて、何度も頭の中で練習したかもしれない。嫌われたらどうしよう、とか。もう友達でいられなくなったら、とか。自分自身を否定されたら、とか。そんなことまで考えたのかもしれない。それでも私に話してくれた。なのに私は、自分が間違えることばかり怖がっている。最低だよね。ちゃんとした友達なら、もっと気の利いたことを言えるんじゃないの? 優しくて、もっと自然で、怜を安心させられる言葉を。私は、怜のことを大切だと思っている。大切だから、傷つけたくない。大切だからこそ、何も言えない。そんなの、おかしい。沈黙が怖くなって、私は顔を上げた。怜と目が合うと、やっぱり困ったような顔をしていた。でも、ほんの少しだけ口元が緩んでいる。
 「あのね……翠」
 「うん」
 声が上擦った。怜はそんな私を見て、今度ははっきりと笑った。
 「正解なんて、ないんじゃない?」
 「え?」
 「翠が今、探してるやつ」
 図星だった。
 怜は一度視線を落として、恥ずかしそうにそっと顔を背けた。
 「私だって分かんないから。翠になんて言って欲しいかなんてさ。それに、私もさ模範解答は持ってないし」
 その声は、さっきより少しだけ軽かった。
  「私がこれからどうしたいとか。カミングアウトするの? とか。学校でどう振る舞うとか」
 途中で怜は肩をすくめる。
 「全部決めてから言えたら格好よかったんだけどね」
 「なんにも……決めてないの?」
 「まーーったく」
 自分でもわかるくらい丸くなった目を見て、怜が苦笑した。
 「そんな驚く?」
 「だって……だってさ」
 怜はもっと、全部考えていると思っていた。自分の中ではとっくに答えが出ていて、それを私に教えてくれたんだと思っていた。でも違った。怜も、分からないんだ。それでも私に話してくれた。
 「じゃあ、なんで私に言ったの?」
 口にしてから、少しだけ後悔した。責めたいわけじゃない。ただ、本当に分からなかったから。
 「翠だから、だよ」
 胸の奥で、何かが跳ねた。
 「……えっ?」
 「うん。翠なら、私のカミングアウト聞いてもさ、翠のままでいてくれそうだったから」
 怜は照れくさそうに笑った。
 その言葉を聞いた瞬間。私は、嬉しい、と思った。こんなときに自分が喜ぶなんて、不謹慎な気さえしたけど。でも、嬉しかったんだ。怜がずっと一人で抱えていたものを、私には見せてもいいと思ってくれたこと。ほかの誰でもなく、私を選んでくれたこと。私なら大丈夫だって、信じてくれたこと。胸の奥がじんわり熱くなる。私は、特別なんだ。何にも変え難い高揚感に、足に羽が生えたみたいで。私は、ふわふわと浮ついていた。だって、私は、怜が好きだから。


 *

 
 いつから好きだったのかと聞かれたら、困る。一目惚れじゃないと思う。何月何日の何時何分に恋に落ちました。なんて、言えるような瞬間もないから。気づいたら、好きだった。
 図書室に行って怜がいないと、少しつまらない。怜が先に座っていると、それだけで嬉しかった。面白い本を見つけたら、怜に教えようと思うし、嬉しいことがあれば、明日話そうと妄想する。ほかの女子が怜を格好いいと言えば、気分はよくなかった。
 そのくせ私は、みんなが知らない怜を知っていることに優越感を覚える。怜は『クールな貴公子』なんかじゃない。意外と甘いものが好き。怖い話は好きなくせに、急に大きな音がすると本気で驚く。困ったときはすぐ私に頼る。拗ねると分かりやすい。私の前では、格好いいというより、かわいい。そんな怜を知っているのは、私だけでいい。独占欲の塊だ。いつからか、そう思うようになっていた。
 だから、怜が女の子だと知ったあの日。私が怖かったのは、怜を好きじゃなくなることじゃなかった。そんな心配は、する必要さえない。次の日も、怜を見つけたら嬉しかった。目が合えば、心臓が少しだけ速くなるし、話しかけられれば、もっと話していたいと思う。何も変わらない乙女な私がいる。怜のカミングアウトで、私の中にあった「好き」まで別のものに変わるわけじゃなかった。

 私は怜が好き。
 心底、夢中になっている。
 でも、この気持ちを怜に伝えることを考えた瞬間、話は急に難しくなる。
 だって、私は女の子だ。怜も、女の子だ。
 私から「怜が好きだよ」なんて言われたら、怜はどう思うんだろう。嬉しいかな? 困るかな。それとも、傷つくかな?
 私は、怜を好きになったとき、怜を男の子だと思っていた。もし私が「ずっと前から好きだった」って言ったら……怜は、どう受け取るんだろう。やっぱり私は男として見られていたんだって、思わないかな? それは、怜が勇気を出して教えてくれた「私は、女の子なんだ」という言葉を、否定することにならない? だから違うってば。私は怜が怜だったから好きになった。今の私には、それしか言えない。だけど、私の気持ちが、怜にも同じように伝わるとは限らない。

 スマホを握ったまま、目を閉じる。
 『翠なら、カミングアウト聞いても翠のままでいてくれそうだったから』
 私のまま、か。その言葉が、今になって痛い。
 今迄通りを望んでいたとして、もし、私が怜に告白したら。次の日も、怜はいつもの席に座ってくれるだろうか。
 「おはよ」って言ったら、「おはよ」って返してくれるかな?
 進路調査を押しつけて、助けてって困った顔をしてくれる?
 私が顔を近づけたとき、今日みたいに笑ってくれる?
 それとも……ほんの少し、椅子を引くんだろうか。もう図書室には来ないのかな。
 「…………やだな」
 想像しただけなのに、胸がきゅっと痛んだ。
 「…………やだよ」
 振られるのは、たぶん耐えられる。泣くと思うけど。しばらくは立ち直れないかもしれないけど。それでも、いつかは笑い話になる……たぶん。それでいいの?
 ううん、図書室に行っても、向かいの席が空いたままになるのは嫌だ。私が隣に座っただけで、怜が少しだけ身体を固くするのは、もっと嫌だ。今までの日常がバランスを失って、目が合うことも、二人で帰ることも、くだらないメッセージを送りあうことも。怜を「かわいい」って思うことさえ、全部『私のことを好きだからなんだ』って、怜に知られてしまう。私は枕に顔を押しつけた。
 「……無理だよ」
 くぐもった声が、自分に返ってくる。怖い。怖いのは、好きって言って、嫌われることじゃない。好きって言ったあと、怜との間にできるかもしれない数センチが、怖い。たった数センチでさえ、きっと私は、その距離に耐えられない。

 だったら──。


 ♢第三章


 翌日の放課後、怜はもう図書室にいた。

 いつもの席で頬杖をついて、進路調査票を眺めている。昨日まで三つ並んでいた『未定』の文字は消えていた。第一希望の欄に、見覚えのない大学名が書かれている。私に気づくと、怜は待ってましたと言わんばかりに紙を持ち上げた。
 「見て!!」
 「そんな得意げに見せること?」
 「私、偉い! 進歩したでしょ」
 怜が進路調査票をひらひらさせる。少なくとも昨日よりは誇らしげだ。鞄を椅子に置いて、私はその紙を覗き込んだ。
 「ここ行きたいの?」
 「分かんない」
 「じゃあ、なんで書いたの!?」
 第一希望の欄を指で叩くと、怜は「だって」と唇を尖らせた。
 「書けって言うから」
 「小学生か……」
 「未定は駄目って言うし、適当に書いても駄目って言うし。先生ってわがままだよね」
 呆れて顔を上げると、怜はいたって真面目な顔をしている。いつもと同じ怜だ。そう思っただけで、胸の奥に詰まっていたものが少しほどけた。だったら、私も同じでいればいい。
 「怜が面倒くさいだけでしょ」
 「それは否定しない」
 「してよ、そこは」
 思わず笑うと、怜もつられて笑った。ほら。大丈夫。私が言わなければ、何も変わらない。昨日の続きみたいな今日がちゃんとある。
 「翠」
 「ん?」
 「あと二つ、考えて」
 怜が調査票を私の方へ滑らせる。
 第二希望と第三希望の枠は、綺麗なままだ。
 「嫌だよ」
 「いつも助けてくれるじゃん」
 「大学まで私に決めさせる気?」
 怜はしばらく考えてから、悪びれもせず頷いた。
 「翠が決めたところなら行くかも」
 「重っ」
 「翠と同じ大学でもいいけど?」
 呆れて笑いながら紙を押し返す。怜は頑なに受け取らない。机の真ん中に残された進路調査票を見ているうちに、ふと考えてしまった。もし、同じ大学だったら。朝、待ち合わせて。講義が終わったら、どこかで向かい合って本を読んで。今みたいに、怜が無理難題を私に押しつけてきて。そんな四月が来たら――。
 「そういえば、翠は?」
 「へっ?」
 「大学。どこ行くの?」
 私は不意に現実へ引き戻された。もちろん、いくつか候補はある。でも、さっき頭に浮かんだ未来まで口から出てしまいそうで、私は一度唇を結んだ。
 「まだ、ちゃんとは決めてない」
 「変な間があったけど?……嘘ついてない?」
 「ついてない」
 「小さな嘘は、信頼の泥棒の始まり」
 怜が身を乗り出す。私は、反射的に身体を引きかけて、椅子の縁を握った。
 「……なに?」
 どうにか笑ってみせるけど、私の顔を観察するみたいに、怜は目を細めた。
 「翠ってさ、嘘つく時、ちょっとだけ口の左側上がるよね」
 「……うそっ」
 反射的に左の口元を押さえた。
 「さっき嘘ついたよね?」
 私は首を横に振る。
 「口元隠しても無駄だよ」
 「はあ!?」
 「本当は嘘つく時に……やっぱ言わない! 私だけの秘密にしとく」
 「ずるい!!」
 怜は満足そうに笑って、進路調査票を自分の方へ引き戻した。私だけの秘密……か。なんだか負けた気がして悔しいのに、嫌じゃなかった。
 むしろ――。
 「もう信じないからね」
 「こっちのセリフですけど? 最初に嘘ついたの翠じゃん」
 睨んでも、怜は楽しそうに笑っている。つられて、私も笑った。ほらね、何も変わらない。そう思うと、昨夜出した答えが少しだけ正しかったような気がした。


 *


 その日の夜、私は遺書の続きを書いた。

 『十七歳の私へ。あなたを殺します。
 怜を好きな気持ちは、十七歳に置いていきます。』

 打ってから、しばらく眺めてみる。好きな気持ちって、荷物みたいに簡単に置いていけるものなんだろうか。
 カーソルを一行下げる。

 『十八歳の私は、怜の友達でいます。』

 今度は、すぐに打てた。
 これなら大丈夫。怜は傷つかない。私も、怜を失わない。
 そう思ったのに、保存ボタンを押す指が止まる。
 机の端で、スマホが震えた。
 『第二希望、決めた!』
 続けて、進路調査票の写真が送られてくる。第二希望には、また知らない大学の名前。第三希望は、まだ『未定』。
 『三つ目は?』
 私が送ると、すぐ既読がついた。
 『未来(あした)の私に任せます』
 『逃げたな』
 『失礼な! 戦略的撤退です』
 画面を閉じようとして、写真フォルダが目に入った。人差し指で触れると、この前、鹿児島で撮った写真が並ぶ。知覧の景色に、家族で撮った写真。それから遺書。この写真を撮ったとき、ひいおじいちゃんのことしか考えていなかった。十七歳で死ぬかもしれなくて、怖くて、それを誰にも言えなくて。だから、宛先のない手紙にだけ本当のことを書いた。私と似ている。そう思ったから、遺書を書こうと思った。
 写真フォルダをスクロールすると、くしゃっと笑うひいおばあちゃんの顔。そこで、指が止まる。

 ――あれ?

 写真を一枚戻す。遺書が入っていた古びたクッキー缶。この遺書を見つけたのは、ひいおばあちゃんだと聞いている。遺品を片づけているときに初めて読んだと、そこまでは知っている。
 「……どう思ったんだろ」
 好きだった人が、自分には何も言わないまま、こんな手紙を書いていた。死にたくなかった。怖かった。会いたかった。一緒に生きたかった。
 生と死の天秤の上で、魂の叫びにも似た本音。それを、何十年も経ってから知る。ひいおばあちゃんは、泣いたのかな? 嬉しかったのかな。それとも、怒ったのかな。私はスマホを持ったまま、部屋を出た。リビングでは、母がソファでテレビを見ている。
 「ねえ、お母さん」
 「んー?」
 「ひいおばあちゃんに、明日会いに行きたい」
 お母さんがテレビから私へ顔を向けた。
 「ひいおばあちゃんに?」
 「うん」
 「……どうしたの、急に」
 母は膝に置いていたリモコンでテレビの音量を下げた。画面に向いていた身体ごと、私の方へ傾く。
 「聞いてみたいことがある」
 「何を?」
 私は、少し迷ってから答えた。
 「遺書をもらえなかった人の話」

 翌朝、宮崎から車を飛ばして二時間。
 母はそれ以上は何も聞かず、鼻歌まじにりハンドルを握っていた。面会の手続きを済まして部屋に向かうと、ひいおばあちゃんは、窓際の椅子に座っていた。
 「こんにちは」
 声をかけると、ひいおばあちゃんはゆっくり顔を上げた。私をじっと見る。
 「あぁ、翠ちゃんかい」
 皺の奥の目が、ようやく笑った。
 九十八歳だ。母から、最近は曜日や日にちを間違えることが増えたと聞いていた。人の名前も、ときどき昔のものと混ざるらしい。それでも今日は、私を翠と呼んだ。母が少し話をしたあと、「飲み物買ってくるね」と席を外した。窓の向こうでは、庭に咲いた小さな花が揺れている。それを愛おしそうに眺めている。
 「ひいおばあちゃん、あのね」
 「はいはい」
 「ひいおじいちゃんのこと、聞いてもいい?」
 すぐに返事がなかった。聞こえなかったのかと思って、もう一度「あのね」と、私が呼びかけた時だった。
 「……あの人、まだ煙草吸ってるかい?」
 一瞬、意味が分からなかった。
 「え?」
 「やめなさいって、何回言っても聞かないんだから。また吸いに行ってるんだろ?」
 ひいおばあちゃんは困ったように笑っている。胸の奥が、きゅっと縮んだ。
 「ひいおじいちゃんは、もう……」
 そこまで言って、やめた。それから「煙草、好きだったんだ?」と、質問を変えた。
 「好きだよ。こんなふうに格好つけてねぇ」
 ひいおばあちゃんは、煙草を口に運ぶ真似をして笑った。たぶん今、ひいおばあちゃんの中では、時間が少しだけ昔に戻っている。
 「そうだ、あの手紙のこと覚えてる?」
 「手紙?」
 「クッキー缶の中に入ってたやつ」
 「あぁ、あれかい」
 それだけで、ひいおばあちゃんの表情が変わった。さっきまで曖昧だった声が、少しだけはっきりする。目に光が入ったように、左手の指輪を見つめていた。
 「読んだとき、どう思ったの?」
 「腹が立ったさ」
 今度は返事が早かった。私は目を瞬いた。
 「覚えてるの?」
 「何をだい?」
 「……ううん。なんでもない」
 ひいおばあちゃんは不思議そうに私を見る。
 「だって私、聞いてないもの。私には言って欲しかったよ」
 「何を?」
 「死ぬのが怖かったこと」
 ゆっくりと親指を内側に折り曲げる。
 「私に会いたかったこと」
 ひとつ。
 「生きて帰りたかったこと」
 もうひとつ。次の指を折ろうとして、途中でやめた。
 「……あと、なんだったかねえ」
 「ひいおばあちゃんの声が聞きたかったって」
 私が言うと、ひいおばあちゃんはしばらく黙った。
 「そうだったかねえ……?」
 「うん」
 「そうかい……」
 それきり、少しの間、会話が途切れた。私の方が、今のひいおばあちゃんより正確に遺書の言葉を残しているのかもしれない。
 「翠ちゃん、私ね」
 ひいおばあちゃんが、不意に言った。
 「あの人の声で聞きたかったよ」
 「……死ぬのが怖いって?」
 「うん」
 私は、
 「聞いたら、ひいおばあちゃんまで怖くなったかもしれないよ。失うのが怖いって」
 幾重にも刻まれた深い皺の手を、ぎゅっと握る。私の手よりずっと小さい。薄い皮膚の下に青い血管が浮いていて、指の関節は少し曲がっている。激動の時代を九十八年生きた手だ。
 「なったかもね、辛くなったかもしれない」
 「なのに、聞きたかった?」
 ひいおばあちゃんは、私の手を強く握り返した。
 「愛してたからねぇ」
 今度は、長い沈黙があった。じんわりと、体温が混ざり合う。やがて、ひいおばあちゃんが私を見た。
 「翠ちゃん……何の話だったかい?」
 胸が、少し痛んだ。さっきまでの力強い目と、あきらかに違うことに気がついてしまったから。ふわふわと夢見心地の遠い目だった。
 「ひいおじいちゃんの話だよ」
 ひいおばあちゃんは、少女みたいに笑う。それから、左手の薬指に触れた。細くなった指には少し大きいのか、指輪がくるりと半周する。
 「あの人ねぇ、不器用なのよ。いつも勝手なの」
 思わず、ひいおばあちゃんの顔を見る。さっきまで「愛してたから」と笑っていたのに、今度はずいぶんな言われようだ。
 「私が泣くと思ったんだろうね。心配すると思ったんだろうねぇ」
 「……優しかったんじゃない?」
 ひいおばあちゃんは返事をせず、緩くなった指輪を元の位置まで押し戻した。
 「泣くかどうかは、私が決めるのにねぇ」
 「……え?」
 「ねえ翠ちゃん、この指輪、大きすぎるねぇ」
 突然話が飛んだ。ひいおばあちゃんは薬指を私の前に差し出している。
 「昔はぴったりだったんだけどねぇ」
 私はその手を見つめた。
 「……ほんとだ。ちょっとゆるいね」
 「痩せたのかねぇ」
 ひいおばあちゃんは指輪をもう一度くるりと回した。
 さっきの言葉について聞き返す隙は、もうなかった。


 ♢第四章


 帰りの車に乗ってから、私はほとんど喋らなかった。別に、落ち込んでいるわけじゃない。助手席の窓に頭を預けて、ただ流れていく景色を眺めていた。信号で止まるたび、窓に薄く自分の顔が映った。今にも泣き出しそうな虚ろな目をしている。
 「聞けたの?」
 不意に、母が言った。
 「おばあちゃん、随分物忘れも酷いから。翠、聞きたいことあったんでしょ?」
 「ああ……うん」
 それ以上、母は聞いてこなかった。
 車がまた走り出す。道路沿いのコンビニに、ガソリンスタンド。知らない会社の看板。どれも私を気にもとめず、後ろへ流れていく。私は膝の上のスマホを手に取った。怜からメッセージが来ている。
 『ひいおばあちゃん元気だった?』
 会いに行くことだけは伝えていた。
 『元気だったよ。私のこと途中で忘れてたけど』
 すぐに既読がついた。
 『翠の可愛い顔忘れちゃうなんて』
 『可愛いは余計です』
 『褒めてるんだけど?』
 『じゃあ受け取っとく』
 可愛い、か。たった三文字を、私は馬鹿みたいにもう一度読み返す。自然と口元が緩んだ。
 「なにニヤけてるのよ」
 運転席から母がちらりとこっちを見る。
 「なんでもないよ」
 スマホを伏せる。ほんの数秒前まで、頭の中にひいおばあちゃんがいたのに、怜からメッセージが来ただけで、頭の中がたちまち花畑だ。本当に、嫌になる。こんなの、あと数日でどうにかできる気がしない。もう明後日だ。私は十八歳になる。


 *


 放課後。
 図書室のドアを開ける前に、私は一度だけ立ち止まった。
 曇りガラスの向こうに、人影が見える。たぶん怜だ。別に緊張する理由なんてないのに、深く深呼吸をする。昨日だってチャットしたし、その前の日だって普通に話した。 今日も同じ。私と怜は友達。友達、友達……と、自己暗示しながら、ドアを開けた。
 「おそかったね」
 案の定、怜はいつもの席にいた。机に頬をくっつけて、ぐったりしている。
 「なに、今にも溶けそうな感じ」
 「全てを絞り出した成れの果ての姿だよ……」
 「進路?」
 「そう、進路」
 怜がのろのろと一枚の紙を持ち上げる。第三希望まで埋まっていた。私は鞄を置くより先に、その紙を取った。
 「嘘っ! 全部書いてるじゃん!」
 「ふふん」
 「怜、やればできるじゃん」
 「もっと褒めていいよ」
 得意げに胸を張る怜の顔が、なんだか腹立たしくて、私は進路調査票を机に戻した。三つ目には、県外の大学名が書かれている。私も知らない大学だった。
 「ここは?」
 「第三希望のとこ?」
 「うん」
 「昨日調べて、なんとなく。興味持ったていうか」
 なんとなく、か。そんな理由で県外の大学を書くんだ。私と離れるかもしれないのに。
 「ここに行くかもしれないの?」
 「上から順番に落ちて……受かったら?」
 怜は進路調査票を覗き込みながら、シャープペンの先で大学名を軽く叩いた。その瞬間、春先の図書室が頭に浮かんだ。
 この席に、私しかいない。向かい側の椅子には誰も座っていなくて。本を読んでいても、顔を上げる理由がない。嫌だな。
 「おーーい、翠?」
 「……遠いじゃん」
 「え?」
 「ここ」
 私は大学名を指差す。怜は「ああ」と頷いた。
 「まあ、遠いね」
 「一人暮らし?」
 「たぶんね」
 簡単に言うんだな。私の知らない街で、私の知らない部屋に住んで。私の知らない友達ができて。怜の毎日の中に、私が知らないものが増えていく。そんなの当たり前なのに。苦しくて息が詰まりそうになる。
 「でも、第三希望だよ?」
 怜が笑った。私の顔を覗き込んで「行くって決まったわけじゃないし」と、困った顔をしている。
 「……そっか」
 「うん」
 私は、ようやく自分の椅子を引いた。いつもの距離だ。たった机一枚分。近すぎず、遠すぎず。それなのに今日は、妙に怜が遠く感じた。馬鹿みたい。告白しなくたって、何も変わらない保証なんて、最初からどこにもないじゃん。
 「そうだ!!」
 怜が鞄を漁り始めた。
 「なに?」
 「ちょっと待って」
 教科書に、筆箱に、空っぽのカプセルトイ。制汗スプレーに、グミ……机の上に次々と物が置かれていく。
 「汚っ」
 「うるさいな。ちゃんと入れたんだから」
 「何を?」
 「だから、待ってって!!」
 焦れったくなった怜は、とうとう鞄を膝の上にひっくり返した。小さな包みが、ハンドタオルと一緒に机へ落ちる。
 「あった」
 「……なにそれ」
 「これ、翠に」
 差し出されたのは、小さな紙袋だった。薄いクリーム色の袋に、紺色のリボンが結ばれている。
 「え、私?」
 「翠以外、ほかにいないでしょ」
 「いや、そうだけど」
 受け取れずにいると、怜が私の前へ紙袋を置いた。
 「誕生日、明日でしょ?」
 「……覚えてたの?」
 言ったあとで、しまったと思った。怜が露骨に眉を寄せる。
 「覚えてるけど」
 「いや、だって怜だし」
 「どういう意味?」
 「進路の締切も忘れる人だから」
 怜は頬を膨らませる。
 「それとこれは別!」
 図書委員が咳払いをひとつ。私たちは二人同時に口を閉じる。怜は肩を竦めて、今度は声も落とした。
 「明日渡そうと思ったんだけどさ」
 「うん」
 「私、零時ちょうどに祝いたい派だから」
 油断していた。まさか、こんなサプライズがあるなんて。
 「だから、ちょっと早いけど」
 怜が紙袋を指先で私の方へ押す。
 「おめでとう。生まれ変わった明日の翠」
 「……なに、その言い方」
 「え、駄目? 十七歳の翠は死ぬんだろ?」
 怜の言う通りだ。私は十七歳の私を殺す。
 「ちがくないけど……さ」
 「生まれ変わらないのなら返して」
 怜が意地悪な顔で手を伸ばしてくる。私は慌てて紙袋を胸元へ引き寄せた。
 「やだよ」
 怜は呆れたように笑って、自分の荷物を鞄へ戻し始めた。私はリボンにそっと触れる。解いていいのかな。でも、固く綺麗に結ばれている。なんとなく解くのが怖くて、指先だけでなぞった。
 「開けないの?」
 「家で開ける」
 「なんで?」
 「私、楽しみは取っとく派なの」
 本当は違う。今ここで開けたら、たぶん顔に全部出る。嬉しいとか、好きとか。明日なんて来なければいいのに、とか。殺さなきゃいけない私が顔を出す。
 「……翠さ」
 怜の声が少しだけ変わった。「ん?」と、小さく返事をして私は顔を上げる。
 「今日、なんか変じゃない?」
 見透かされたみたいで、心臓が跳ねた。
 「なにが?」
 「分かんないけどさ」
 怜は机に肘をついたまま、私を見る。逃げたくなるくらい真っ直ぐな目だった。
 「ずーーっと、なんか考えてるでしょ?」
 「考えてないよ」
 答えるのが、少し早すぎた。怜の視線が私の口元へ落ちる。
 まずいと思って、反射的に唇を結ぶ。それを見た怜が、ほんの少し眉を上げた。
 「……ふーん」
 「なに」
 「別に」
 「怜のその顔むかつく」
 「何も言ってませんけど?」
 怜は不服そうに小説を開いた。私も鞄から本を取り出す。ページを開いても、何も頭に入っていないことに気づいた。向かいから、紙をめくる音がする。怜はどんな顔をしてるだろうか?顔を上げたい。でも、上げられない。

 ──泣くかどうかは、私が決めるのにねぇ。

 突然、昨日の声が蘇った。私は、右手を力いっぱい握りしめた。違う。ひいおばあちゃんと怜は違う。ひいおじいちゃんが言えなかったのは、生きるか死ぬかの話だ。私のは、ただの恋。それに、ひいおばあちゃんは聞きたかったと言ったけど、怜が同じとは限らない。

 だから。私が言わなければさ──。

 「ねえ」
 顔を上げると、怜が本の上から私を見ていた。
 「さっきから同じページだけど」
 私は慌ててページをめくった。
 「読んでるし」
 「嘘ーー。翠、ちゃんとページ捲ってたし」
 視線を落とすと、覚えのない展開が繰り広げられていた。
 「やっぱ変じゃん」
 「うるさい!」
 「なんかあるなら言ってよ」
 その言葉に、指が止まった。怜は真剣な顔で、じっと私を見つめている。
 「私、聞くよ?」
 喉の奥まで、何かが上がってくる。「好き」の、たった二文字なのに。
 「……なんにもないよ」
 私は笑った。たぶん、いつも通りには笑えていなかったと思う。怜は「そっか」と、悲しげな顔で何も言わなかった。その顔を見た瞬間、胸の奥が痛くなる。傷つけたくないから、言わない。って決めたはずなのに。


 *


 家に帰って、一番最初に怜からもらった紙袋を開けた。中に入っていたのは、栞だった。透明な板の中に、小さな青い花が枯れないように閉じ込められている。ずっとこのまま、形も、色も、たぶん変わらない。
 「……いいな」
 思わず呟いて、自分で嫌になる。
 変わらないものが欲しい。怜との今を、この栞みたいに閉じ込めてしまえたらいい。
 「……かわいいけどさ」と、思わず声が漏れた。スマホを手に取り花の栞を机に置いて写真を撮る。
 『開けたよ! ありがとう!! めっちゃ好き』
 そこまで打って、指が止まった。ゆっくりと文字を消していく。今書くべきことは他にある。

 遺書は、書きかけのまま残っている。

 『十七歳の私へ。あなたを殺します。

 怜を好きな気持ちは、十七歳に置いていきます。

 十八歳の私は、怜の友達でいます。』

 ​「……違うよ」
 急にその遺書が幼く、青く思えた。​マウスを操作して、選択範囲を『十七歳』から『友達でいます』まで一気に広げる。迷いは、一瞬だけ。すぐに「削除」を押した。一瞬で文字が吹き飛び、空白だけが残る。黒い画面に映る自分の顔は、さっきよりも少しだけ大人に見えた。


 『十七歳の私へ。
 あなたを殺します。

 私は、優しい人になりたかった。
 誰かを傷つけない人。
 空気を悪くしない人。
 言わなくていいことを、ちゃんと飲み込める人。

 たぶん、結構うまくやったよ?
 喧嘩はほとんどしなかったし。
 嫌なことがあっても笑えてたでしょ。

 言い返したいときも我慢した。
 誰かが困っていたら、自分のことは後回しにした。
 いい子だったと思う。

 でもさ。

 本当は、優しかったんじゃなくて、怖かったんだよね。
 嫌われるのが怖くて、誰かの顔が曇るのが怖かった。
 昨日までと同じじゃなくなるのが怖かったから、言わないことを選んだ。何もしなければ、失敗しないし、言わなければ、間違えることもない。

 そう思ってたよ。
 でも、違ったの。

 言わなかったことも、ちゃんと残った。
 選ばなかったことも、なくならなかった。
 ずーーっと心の中で、曇り空みたいに。

 結局さ、何もしなかったから後悔したんだ。
 それが一番、悔しい。

 ねぇ、十八歳の私。

 失敗したっていい……ううん、失敗したいわけじゃないよね。嫌われたくない、傷つきたくない。これって、明日になったって変わらないと思うよ。

 でもね。
 怖いからやめるのは、もう嫌でしょ?


 行け!私。


 十七歳の私へ。
 今からあなたを殺します。
 何もしなければ何も変わらないって、ずっと信じていた私を。

 さようなら。』

 パソコンから文章をプリンターへ送る。
 機械音が響いて、 白い紙が吐き出されてくる。
 まだ温かい紙を丁寧に折る手が震えていた。

 これを渡したら、本当に終わるかもしれない。 今まで通りじゃなくなるかもしれない。怜が困るかもしれない。 傷つくかもしれない。ノイズみたいに頭に響く。それでも。私は遺書を白い封筒にしまう。机の上の青い花の栞が目に入る。 少し迷ってから、それも一緒に握った。

 「行け! 私」
 ノイズをかき消すように、一度だけ頭の中で叫んだ。

 部屋を飛び出して、階段をバタバタと駆け下りる。
 すぐに「うるさいわよ」と、リビングから母の声が飛んできた。
 「ごめんなさい! ちょっと出てくる!」
 「こんな時間に? どこ行くの?」
 玄関でスニーカーを履きながら、一瞬だけ考える。けど、答えは一つしかなかった。
 「大事な人のとこ!」
 言ってから、自分で恥ずかしくなった。
 母が何か言っていたけど、聞こえないふりをしてドアを開ける。夜の空気が、冷たかった。 肺の奥まで一気に入り込んでくる。私は走った。怜の家までは、歩けば二十分くらい。 走ったら何分だろう。今はそんなこと、どうだっていいか。
 途中で信号に捕まった。
 「もう……!」
 誰もいない横断歩道。 渡ろうかと思ったけど、やめた。こんなところで事故に遭ったら、何のために走ってるのか分からない。足踏みしながらスマホを見る。
 二十三時三十分。あと三十分しかない。信号が青に変わると、また走りだす。



 髪が顔に張りつく。 制服じゃなくてよかった。

 部屋着の上に適当に羽織ったパーカー。 キャラクター物の靴下。たぶん、かなり酷い格好だ。どうでもいい。今はどうでもいい。早く怜に会いたい。それだけで走っている。息が苦しい。 脇腹が痛い。それでも足を止めなかった。

 怜の家の近くまで来たところで、ようやくスマホを取り出した。画面が揺れて見える。はぁはぁと息をしながら、メッセージアプリを開く。
 『怜』
 力が入らない指で名前だけ送った。すぐに既読がつく。
 『なに?』
 『外』
 既読。
 『は?』
 玄関の前で、膝に手をついて息を整える。
 『そと』
 既読。
 今度は返事が来なかった。
 代わりに、玄関の向こうから慌ただしい音がした。ガチャリと鍵が開く。 ドアが勢いよく開いた。
 「ちょっ!! 翠!?」
 怜はピンク色の大きめのパーカーに、スウェット姿だった。 風呂上がりに適当に乾かしたのか、髪も少し乱れている。私を見るなり、目を丸くした。
 「なに、どうしたの?」
 「……これ」
 まだ息が整わなくて、まともに話せそうにない。私は折り畳んだ紙を差し出した。
 「なに?」
 私は紙を怜の胸元へ押しつけた。
 「遺書」
 その言葉に、怜の顔が固まった。
 一秒。 二秒。はぁ、はぁ……。
 「……翠」
 「だから……死なないってば」
 息を切らしながら言うと、怜は眉間を押さえた。
 「書けたってことは、殺したの?」
 「読んで」
 ようやく怜が封筒を受け取った。
 「今?」
 「今」
 怜は小さく頷いた。
 その瞬間、逃げたくなる。
 でも。

 ──怖いからやめるのは、もう嫌でしょ?

 「……分かったよ」
 怜は玄関横の小さな段差に腰を下ろした。

 私は少し離れた場所に立ったまま、遺書を読む怜を見ていた。

 嫌だな。
 やっぱり嫌だ。
 一文字追うたびに、怜の目が私の心を覗いている気がする。
 たまらず目を逸らして、 夜空を見上げてみる。星なんてほとんど見えない。指で適当な星座をなぞる。長いな……紙一枚って、こんなに読むのに時間かかったっけ。
 「……翠さ」
 不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
 「なに」
 怜は遺書を持ち上げながら「これ、私に渡してよかったの?」と、私に尋ねた。私は、すぐには答えられずにいる。よかったかどうかなんて、まだ知らない。でも「……渡したかったから」と、口から出た。思っていたよりずっと小さな声だった。
 怜は遺書を見つめたまま、しばらく黙っていた。
 「それで? 言いたいことがあるんでしょ?」
 「……あるよ」と言って、私は唇を噛んだ。
 「でも、怜が傷つくかもしれない」
 怜の顔から、笑みが消えた。
 「なにそれ」
 怜は遺書を乱暴に二つ折りにした。それから、真っ直ぐ私を見る。
 「傷つくかどうかまで、翠が決めないでよ」
 怜は、それ以上何も言わなかった。答えをくれるわけでもない。 私の代わりに決めてくれるわけでもない。結局、最後に選ぶのは私だから。そのとき、スマホが震えた。二十三時五十九分。
 「あと一分だね」
 怜も画面を見る。
 「ほんとだ」
 私の十七歳が終わる。
 堪らず空を仰いだ。正解なんて、最初からない。誰も傷つけない選択も、間違えない未来も、あらかじめ用意された解答用紙なんてどこにも存在しない。
  今、見上げた空には、星なんてほとんど見えなかった。街灯の明かりに塗りつぶされて、真っ暗で、不確かで、見渡す限りの曇り空。
 でも、だからこそだ。
 決まった形を持つ星空がないのなら、自分で選んだ言葉と、行動した足跡の点と点を手繰り寄せて、私が繋いでいくしかない。
 間違えても、傷ついても、後悔したとしても。その歪な線を繋ぎ合わせて、私だけの形を作っていく。
 星のない夜空に、星座を探すように。

 それが私の正解だ。

 スマホの数字が変わる。
 0:00。
 サヨウナラ。十七歳の私。

 顔を上げると、怜がいる。
 私の正解をまだ知らない怜がいる。
 私は一歩だけ、その距離を詰めた。

 「怜」

 「ん?」

 行け! 十八歳の私。

 「私ね、怜が好き。大好き」