「おはよう」
悠司のボディガードを手伝うことになってから、いつもより早く登校している薫だったが、今日はさらに早く登校していた。
昨日の夜、今日はマキシが別の仕事で、サポートに入れないという連絡が礼真からきていたのだ。
礼真によるとマキシは、ネット回線を通じて、結界を張ったり、怪異たちの警戒をしてくれているのだそうだ。
礼真の口ぶりから、かなり薫が知らないところで、いろいろとしてくれているらしい。
そんなマキシが今日は不在で、礼真と二人で悠司のガードをする。
礼真もマキシも、自分のことをしっかり戦力として数えてくれていることに、じっとしていられなくて、早く登校してしまっていたのだ。
さすがに今日は自分が一番だろうと思っていたが、
「おはよう。薫くん、どうしたの?めちゃくちゃ早いじゃん」
礼真がいた。
いつものように、自分の席についている。
「礼真くんの方こそ何時に来てるの?」
呆れ半分で言いながら、礼真の隣、自分の席につく。
「昨日、連絡したけど、マキシが別現場で、そっちに入る前に送ってくれたから。電車で行くって言ったんだけどねー」
ふぅと礼真はため息をついた。
そのため息から、マキシと礼真の間にどんな攻防があったかだいたい想像はつく。
マキシは礼真に過保護だ。
「けどさ、こんな風に急に仕事入ったりってけっこう忙しいんだね」
「うん、依頼がけっこうあるからね。俺も昼は悠司先生のガードして、夜は他の現場行ってるし」
興味をひかれて言うと、さらっと礼真が言った。
「え?夜も仕事してるの?」
なんとなく、ボディガードの仕事だけやっているものだと思っていたので、薫は驚く。
「してるよ、怪異が動き出すのは夜だし。昼の仕事が珍しいよ」
あっさりと礼真が答える。
大げさに言うわけでもないその言い方は、それが礼真の日常なんだと思わせて、改めて自分と違う世界にいる人なんだと実感する。
どんな風に夜の仕事をしているのかもっと聞いてみようかと、薫が思っていると、礼真が大きな溜息をついた。
「はぁー」
表情もどこか沈んでいる。元気がない。
「え?どうした?やっぱりマキシさんがいないの寂しい?」
理由はそれしか思い付かなくて、薫が礼真の顔を覗き込むように聞くと、
「いや、そういうんじゃないけど」
歯切れの悪い答えがかえってくる。
「俺じゃあ頼りないかもだし、なんもできないかもだけど、なんとかサポートするよ」
慰めにもならないだろうとは思ったが、落ち込んでいたり、不安そうな人を前にすると、なにか言わずにはいられない。
「あっいや、そこは全然心配してなくて、薫くんには本当に助けてもらってるから。うちの所長がバイト代出すって言ってたし」
自分の態度で薫を心配させてしまったことに気付いたのか、礼真がちょっと焦ったように、手を振りながら言った。
「え?バイト代?いらないよ!俺が勝手に悠兄ちゃんを守るの手伝わせて欲しいって言っただけだから!」
礼真の言葉に、薫の方が焦る。
「いや、ガチでサポートしてもらってるから、そのへんはちゃんとしろって所長が」
マキシが電話をかけるのをかなり嫌がっていたあの所長か…と思い出す。礼真の口ぶりからしても、所長の言葉は絶対なのだろう。
怖くて、ちょっと面倒くさい人らしいが、薫のことをしっかり評価して、バイト代を出すと言うのだから、そのへんはちゃんとした人で、マキシと礼真にとっても、悪い上司ではないのだろう。
「そうなんだ、バイト代は本当にいらないんだけど、役に立ててるって所長さんにも思ってもらえるなら嬉しい」
バイト代を払ってもいいと言われるくらい役に立っていると思われているのは、かなり嬉しい。顔がにやけてしまう。
「うん、俺が初めて仕事手伝ったときより、薫くんの方がめちゃくちゃ使えてるって言われた…」
一方の礼真は、がくんっと俯いた。
怪異を前にしても落ち着いていて、判断も早く、的確に動く礼真に、使えない時代があったということが想像できない。
「えーっそんなことないだろっ!」
「いや、ある」
薫が言うと、ぼそっと低く返される。
昨日の夜、所長から『薫の方が使える』と言われたことをかなり気にしているらしい。自分が言ったわけではないが、比較されている時点で申し訳ない気持ちになってくる。
「そんな、落ち込みながら言わないでよ。けど、元気なさそうなのはそれ?」
「え?元気ないように見える?」
薫が聞くと、俯いていた礼真は顔を上げて、ん?というように首を傾げた。さっきのように沈んではないが、それでもいつもより表情が硬い。
あっかわいい…表情はちょっとアレでも、首を傾げる仕草は本当にかわいい。薫は心のメモにまたそれを書き込んで、今度実践してみようと思いながら、
「うん、なんか不安そう。やっぱりマキシさん、いないから?」
やっぱりそこに話が戻ってしまう。
薫に聞かれた礼真は、自分の唇をいじって、あーとか、うーとか言ってから、少し上目で、
「…今日さ数学あるじゃん、当てられたらヤバいから」
秘密を告白するように言った。
「…?礼真くん、いつも当てられても、すらすら解いてるよね?」
薫は無意識に、ん?と首を傾げていた。
今まで数学の授業で、当てられて、前に出て問題を解かされたときも、その場で答えを聞かれたときも、しっかり正解を出していた。
不安になる要素はないだろう。
礼真は言い難そうに薫から視線を反らして、
「あれは、マキシが教えてくれたから」
と、トントンとイヤーカフ型のインカムを指さした。
「えー!マキシさんが口頭で?すご、全然気づかなかった」
礼真とマキシの間では常に回線がオープンになっていて、リアルタイムで情報共有をしているということは聞かされていたが、まさか数学の問題まで共有していると思わなかった。
前に出て問題を解くときは、答えだけではなく、当然、途中の式もいる。問題を礼真が読んで、その場でマキシが解いて、それを伝えていたということなのだろう。
あの、礼真の写真を送ってーと騒いで、礼真から「うるさい」と言われていた人と、ちょっと結びつかない。
「物理も」
ぼそっと礼真がさらに追加投入してくる。
「物理もーーー?俺、礼真くん理数系もイケる人だと思ってたよー」
「イケない、イケない。理系はマキシ。はぁ…どうしよう…今日は物理ないけど…数学…」
薫が声を上げると、礼真はぶんぶんと首を振って、溜息をついて机に突っ伏した。
どこか遠い目をしている。よっぽど数学が嫌なのだろう。
ちょっと可哀そうになってくる。
「あのさ、俺もあんまり数学、自信ないけど、礼真くん当てられたら助けるよ」
トンと自分のイヤーカフを指さして、薫が言うと、ばっと礼真が体を起こした。
「薫くん!」
さっきまでのどんよりが嘘のように表情が生き返っている。
礼真くんの敵は、怪異より数学か…と、実はマキシの不在をちょっと不安に思っていた薫は礼真の姿に笑ってしまう。
「その代わり、英語は助けてね」
実は、ちょっと不安で昨夜は英語の予習が手につかなかったのだ。ここは交換条件を出していいところだろう。
「あっ…英語…」
薫が言うと、礼真はぺしょっと肩を落とした。
「えっまさか、英語も?」
「いや、英語は自分でやってるから、自信ない」
「それが普通になんだよ」
薫は笑いながら、こつんと礼真の頭に、軽くグーにした拳を当てた。
礼真も笑って首を竦めている。
気付くと、もうホームルームの時間で、クラスメートたちは全員席についていた。
薫の視線は、花凜へ向けられる。
いる…今日も、大きなリボンを後頭部につけて、かわいい顔で、じっと教壇を見つめている。悠司が来るのを待っているのだ。
ちらっと横の席の礼真を見ると、すっとその表情を締めている。礼真の中のスイッチが切り替わっている。
薫はぎゅっと机の下で手を握った。
(俺も、俺にできること、がんばる)
今日が始まるチャイムが鳴った。
「礼真、薫ちゃん、お疲れさまぁ」
ファミレスに入ると、先に来ていたマキシが手を振ってむかえてくれる。
放課後、ここでマキシと待ち合わせをして、今日の報告をすることになっていたのだ。
「お疲れさまです」
お疲れさまと、言われて、同じように返すとちょっと大人な気分になる。
ニコニコしているマキシに薫も笑顔で答えたが、
「おつ」
礼真はボソッと言うと、マキシの横にどかっと座った。
「レイマはご機嫌斜めなのかな?なんかあった?」
マキシが礼真をツンツンとつつきながら、薫に聞いてくる。
「数学で前に出て問題解けってあてられて死にそうになってました。けどちゃんとできてましたよ。」
マキシの聞いていることはそんなことではないだろうとは思ったが、これは薫的にはどうしても報告しておきたいところだったので、報告する。
礼真はむぅとした表情のままで、
「ノートに予習あったから、書けた」
ボソッと答えた。
「そっか、役に立てて良かったよ」
礼真の答えに、マキシはおっというように、眉を上げて、ニコニコというより、ちょっとなにか言いたげにニヨニヨしている。
礼真とマキシのやりとりに、薫の中で、なにかが、ひっかかった。
問題を解いて戻ってきた礼真が、明らかにほっとした顔で、
「予習あったから」
と言ったのは、自分で予習していたわけではなく、マキシがやっていた?
薫はじーっと、目の前の二人を見つめた。
(過保護…)
そんな言葉が頭に浮かぶ。
けれど、嫌なイメージではない。
昨日の夜、礼真に黙ってせっせと問題を解いているマキシの姿を想像すると、得体のしれないデカい金髪の男が、かわいいとさえ思えてしまう。
ふふっと笑って二人を見ていると、
「それより、悠ニャンはどうだった?」
マキシが聞いてきた。
「悠…ニャン?」
なにその呼び方?
薫の頭の中で、悠司の頭に猫耳がついて、ニャンと言ってる姿が浮かんでしまって、吹き出しそうになった。
「悠ニャンって…それは…ちょっと」
「あー薫くん気にしないで。マキシの呼び方にいちいち突っこんでたら、話進まない。今回はあのなんとかニャンに影響されたみたいだけど、かなりマシな呼ばれ方だから。」
『悠ニャン』呼びに薫が抵抗感があるのがわかったのか、礼真がフォローするように言ってくれたが、呼ばれ方が変わるということはないらしい。
「…そうなんだ…」
もっとひどい呼ばれ方している人がいるんだ…と気にはなったが、本当に話が進まなくなりそうで、薫は頷くだけにする。
「それより、悠ニャンの方はどうだった?」
本題はそっちだ。
「それ!」
バッと礼真がマキシに掴みかかる勢いで身を乗り出した。
「ま?どれ?」
珍しく感情が高ぶっているような礼真の勢いに、マキシが目を丸くしている。
「どれじゃないんだよ。悠司先生、十三階段が増やした一段に3回ひっかかってた。」
「3回?学校中の階段を一段増やしてるんなら3回は少ないんじゃない?」
礼真の勢いとは対照的に、マキシは軽い口調の疑問系で言う。
「あーそれは、俺が昨日、階段一段飛ばしが流行ってるって言ったの、信じたみたいで、悠兄ちゃんけっこう一段飛ばしで階段使ってて」
「お-すげー薫ちゃん、ナイス、でまかせ!」
マキシがパチパチと拍手する。
「けど、3回、薫くんと両側から、悠司先生を抱えて、一段持ち上げるのを3回だぞ!」
「悠兄ちゃん、すらっとしてるけど、けっこう重いんだよね」
「そのくらいならいいじゃん」
礼真が荒く、薫は少し困ったように言っていると、現場を知らないマキシがのほほんと答える。
「そのくらいじゃねーんだよ!音楽室の前でも!」
中休み、悠司は山方に言われて、地理の授業で使う大きな地図を取りに社会科準備室へ来ていた。
礼真と薫はなにげない風に装いながら、悠司をあとからつけていた。
ここに来るまで、悠司は本日二回目の十三階段に引っかかっていた。
社会準備室から地図を抱えて出てきた悠司はそのまま、スタスタと歩く。そして、音楽室の前で足を止めた。
「あっ」
礼真が顔を曇らせた。
「なに?」
「まずい、ピアノだ」
礼真が呟いて、足早に悠司に近づいた。薫にはなにも聞こえないが、礼真のあとに続いた。
「先生」
礼真が声をかける。
「ピアノ、すごい上手い。プロみたいだな、この曲ってミセスじゃない?うわーいいなー」
悠司は礼真の呼びかけに答えず、うっとりと誰もいない音楽室から聞こえるピアノに聞き入っている。
「本当にすごいな」
悠司の手から力が抜けて、地図がバサバサと落ちた。
「悠兄ちゃん…」
悠司は地図を落としたことにも気付かず、呪いのピアノの音に心奪われていた。
「誰もいない音楽室から聞こえるピアノに聞き入っているんだよ!Mrs.greenAppleじゃねぇーんだよ!呪いの調べだっつーの!聞いてたら生気とられんだよ!」
「レイマーお口が悪くなってるよー」
ギロっと礼真がマキシを睨んだ。
マキシはヘラっと笑って、
「それで?」
続きを促す。
「何回も声かけた」
「まあ、そうだよね、とりあえずこっちの音に意識戻さないとだからね」
「けど、全然でさ。」
「あー悠ニャン、受け入れちゃうタイプだからね」
「薫くんが、声かけたら戻ってきてくれた」
薫が「悠兄ちゃん!」と声を掛けた瞬間、悠司は文字通り夢から覚めたように、何度かまばたきをして、
「薫?どうした?」
なにごともなかったように言ったのだ。
「へえー薫ちゃんの声でねー」
「うん…多分、俺の声、聞き慣れてるからだと思う」
なにか含みのありそうなマキシの視線をうけて、なんで言い訳みたいに言ってるんだと思いながら、薫はなんとなく前髪をいじった。
「それから!」
薫の様子に気付いてない礼真は、さらにマキシに訴えるように続ける。
「それでさ!トイレで!」
「え?礼真、悠ニャンのトイレの中までついて行ったの?」
「行ってねーよ!」
面白がっているようなマキシに礼真が猫のようにシャーと威嚇する。
「あ、外で待ってたんだよね」
薫はフォローするが、礼真は机にごつんと額を当てて突っ伏した。
「待ってたけど…」
礼真と薫はそのときの様子をマキシに話はじめた。
「やっと放課後だね」
薫はほっと息をついた。
「うん、まぁ先生が学校出るまで油断できない」
口ではそう言いながらも、少し頬を緩めている。
悠司が廊下を歩いている。授業をして、職員室に戻っているところだ。
「悠兄ちゃんの授業どう思った?」
ここ数日は実習生は実際に授業をする。
薫も2回、悠司の授業を受けていた。
最初の授業のとき、きっと悠司は緊張していると思って、薫の方がドキドキしていたが、
悠司は堂々としていて、楽しそうに法律や制度のことを話した。
薫からしてみたら、近所のお兄ちゃんが教壇の上で、黒板に板書して、先生の顔で、薫を含めた生徒に授業しているのだ。
もう、身内の気持ちで、そわそわして、礼真から、「薫くん大丈夫?」とインカムで声をかけられたほどだった。
次の授業も悠司はいつもどおりで、薫も少し余裕を持って悠司を見ることができた。
授業中、何度か悠司と目があって、その度に薫は少し笑って、わかるよ!という気持ちを込めて頷いた。
悠司がそれをどう受け取ったかはわからないが。
「悠司先生の授業?うん、面白かったよ。俺、仕事のとき法律のこととかなんも考えていなかったけど、所長とかマキシがいろいろやってくれてんだなぁーっ…あっ!」
話していた礼真が言葉を切った。
「先生トイレ入った!職員用」
「さすがに入れないよね」
礼真と薫は悠司の入って行った職員用のトイレの前で顔を見合わせた。
礼真はドアに近づいて、中をうかがう。
端から見ればかなり怪しい。
薫は礼真と背中合わせになるようにして、まわりを見渡す。
幸い廊下には誰もいない。
「薫くん!すぐ悠司先生を連れ出して!」
礼真が急に鋭く言うと、バンとドアを壊す勢いでトイレに飛び込んだ。
薫もトイレに入る。
悠司の後にギラつく刃物を持った人影があった。
「悠兄ちゃん!ちょっと!来て!こっち!」
「え?なに?薫?」
礼真と刃物を持った人影がどうなったか確認する余裕はなく、薫は悠司の腕を引いて、トイレから連れ出した。
「赤い紙?」
話を聞いていたマキシが言った。
「そう、中うかがっていたら、定番の『赤い紙、青い紙どっちが欲しい?』って聞こえてきて、悠司先生がー」
ここで礼真がゴンと額をテーブルにあてた。
「ふつーに、『え?紙のストックありますから、いらないっす』って答えて」
「赤なら刃物で血まみれ、青なら水浸しで溺死ってヤツね。けど、答えたらダメなんだよねー答えた時点で、もう呪いの中に組み込まれているのよ」
軽い口調でマキシが悠司の後に迫っていた怪異のことを解説する。
マキシは隣の住民を紹介するように言ってるが、あの刃物を持つ黒い影を実際に見た薫は今さらのようにぞっとする。
「あーもう!全然余裕なくて!グーで殴ってしまったー!だってさ悠司先生、めちゃくちゃ無防備でさ、無自覚にどんどん怪異にひっかかるから!」
礼真が声を上げる。
「いつもなら、声かけて止めるのにー。グーで行っちゃって…あー今夜、赤い紙青い紙に謝りに行こう」
「それなら、俺が話しに行くよ。仕事中に起きたことだしレイマの責任じゃないから」
マキシが静かな口調で言って、よしよしというように礼真の頭を撫でると、
「…うん」
と、小さく返事が返ってくる。
「あの、悠兄ちゃんがなんかごめんね」
本当に落ち込んでいるらしい礼真に申し訳ない気持ちになってきて、薫が言うと、
「薫くんのせいでも、先生のせいでも…ない…か…ら」
机から顔を上げた礼真が少し笑顔をみせてくれたが、すぐにまばたきが増えて、すぅと目を閉じたかと思うと、そのまま机に突っ伏してしまった。
「?!礼真くん?え?どうしたの?体調悪い?」
突然意識を失ってしまったような礼真に薫が驚いて声を上げると、
「あー電池切れだー」
マキシが軽い口調で言う。
「えー?礼真くんて電池で動いてるの?」
礼真が人間ではないということはなんとなく聞いていたが、電池?
薫が上げかけた声を潜めて言うと、
「ま?」
マキシが目を丸くして吹き出した。
「いやいや、そんな感じってことだよ。たまに疲れすぎると、バタン寝しちゃうの。」
「バタン寝?」
「そうそう、ウサギって急にバタンって寝るの知らない?レイマさーいつも猫ちゃんなんだけど、たまにウサちゃんになるんだよねー」
マキシはゆっくりとテーブルに突っ伏して本当に眠ってしまったらしい礼真の頭を柔らかく撫でている。
礼真の髪に触れるマキシの指から礼真を想う気持ちが見えるようだった。
それを見ていると、
「マキシさんって礼真くんの恋人なんですよね?」
つい、いつも思っていることが口から出ていた。
礼真に関係を聞いたときは「秘密」と誤魔化されて、きっとそうだと思っていても確信はもてなかったから。
マキシは薫の問いに、ちょっと笑って礼真の顔を見つめる。
「恋人かー。俺はレイマに恋しているから、俺にはレイマは恋人だけど、礼真はどうなんだろうなぁ」
普段のインカムから聞こえてくる明るくにぎやかな声ではない、静かな響き。
礼真の顔にかかっている髪を、そっと指で耳にかけてやりながら、
「レイマは俺とずっと一緒にいたいって言ってくれてるけどね。俺もそう思ってる。仕事では相棒だし、家族みたいでもあるし、もちろん大好きだし、愛してる。だから、そうだなぁ『恋人』って言葉は俺には狭すぎるかなぁ」
薫にではなく、礼真に語っているようにマキシは言って、
「で?薫ちゃんはどうなの、悠ニャンのこと」
薫を見た。たまに出るどこを見ているかわからないマキシの目。少し怖い。
「えっ?ええっ俺ぇ?悠兄ちゃんのことって…いや…なんで…」
自分でも気付かない心の奥まで見られているようだった。薫はしどろもどろになっていると、
「なんでって、レイマは気付いてないと思うけど、薫ちゃんかなりわかりやすいよ」
マキシは笑う。いつもいたずらっぽい目に戻っていたが、薫は自分の中にあるものを話し始めていた。というより、誰かに話したかったのかもしれない。
「うっ…そうですか…。えっと、俺ってけっこう周りに気をつかってるっていうか、自覚はないけど…そうらしくて。けど、悠兄ちゃんは無理するな、今日はなにもしなくていいよ、お姫さまになっとけって、言ってくれて。そんなこと言ってくれるの悠兄ちゃんが初めてで…」
口に出してみると、思ったような言葉にならないのが少しもどかしい。
「へぇーお姫さま」
やっぱりそこが気になるよなーと薫が思ったところにマキシが食いついてきた。
「はい、そのなんにもしないで、ゆったり、全部まかせる状態のこと悠兄ちゃんはそう言ってるって感じで。けど、やっぱりお姫さまって言ったらちょっとはかわいい方がいいかなーって。俺こんなだから、礼真くんのかわいいところ見て真似してみたけど、上手くいかなくって…けど、少しでも、かわいくなれたらなぁ…って…」
言っているうちに、顔が下がってくる。眠っている礼真に目が行く。やっぱりかわいいなと思ってしまう。
「そうなんだ」
マキシは不思議そうにそんな薫を見ている。
「はい、あっ俺そろそろ」
俯いた薫の目にテーブルにおいていたスマホの画面が目に入る。もう帰らないといけない時間だ。薫が鞄を手にして立ち上がると、
「うん、そうだね。レイマー薫ちゃん帰るってよー起きてー」
頷いたマキシが、礼真の肩をぐいぐい揺する。
「あっ寝かせてやってください。夜も仕事してるって聞いたから、休ませてあげてください」
うーんとぐずって起きる気配がない礼真をさらに起こそうとするマキシを止めると、
「…ありがとう。明日は俺もまた戻るから、よろしくね」
マキシが少し嬉しそうに笑って、ひらひらと手を振った。
「はい、じゃあまた明日」
マキシに頭を下げて薫はファミレスを出た。
その後ろ姿を眺めて、
「…薫ちゃん、めちゃくちゃかわいいじゃん、悠ニャンの目は節穴か?」
マキシは、ふんっと息をついた。
悠司のボディガードを手伝うことになってから、いつもより早く登校している薫だったが、今日はさらに早く登校していた。
昨日の夜、今日はマキシが別の仕事で、サポートに入れないという連絡が礼真からきていたのだ。
礼真によるとマキシは、ネット回線を通じて、結界を張ったり、怪異たちの警戒をしてくれているのだそうだ。
礼真の口ぶりから、かなり薫が知らないところで、いろいろとしてくれているらしい。
そんなマキシが今日は不在で、礼真と二人で悠司のガードをする。
礼真もマキシも、自分のことをしっかり戦力として数えてくれていることに、じっとしていられなくて、早く登校してしまっていたのだ。
さすがに今日は自分が一番だろうと思っていたが、
「おはよう。薫くん、どうしたの?めちゃくちゃ早いじゃん」
礼真がいた。
いつものように、自分の席についている。
「礼真くんの方こそ何時に来てるの?」
呆れ半分で言いながら、礼真の隣、自分の席につく。
「昨日、連絡したけど、マキシが別現場で、そっちに入る前に送ってくれたから。電車で行くって言ったんだけどねー」
ふぅと礼真はため息をついた。
そのため息から、マキシと礼真の間にどんな攻防があったかだいたい想像はつく。
マキシは礼真に過保護だ。
「けどさ、こんな風に急に仕事入ったりってけっこう忙しいんだね」
「うん、依頼がけっこうあるからね。俺も昼は悠司先生のガードして、夜は他の現場行ってるし」
興味をひかれて言うと、さらっと礼真が言った。
「え?夜も仕事してるの?」
なんとなく、ボディガードの仕事だけやっているものだと思っていたので、薫は驚く。
「してるよ、怪異が動き出すのは夜だし。昼の仕事が珍しいよ」
あっさりと礼真が答える。
大げさに言うわけでもないその言い方は、それが礼真の日常なんだと思わせて、改めて自分と違う世界にいる人なんだと実感する。
どんな風に夜の仕事をしているのかもっと聞いてみようかと、薫が思っていると、礼真が大きな溜息をついた。
「はぁー」
表情もどこか沈んでいる。元気がない。
「え?どうした?やっぱりマキシさんがいないの寂しい?」
理由はそれしか思い付かなくて、薫が礼真の顔を覗き込むように聞くと、
「いや、そういうんじゃないけど」
歯切れの悪い答えがかえってくる。
「俺じゃあ頼りないかもだし、なんもできないかもだけど、なんとかサポートするよ」
慰めにもならないだろうとは思ったが、落ち込んでいたり、不安そうな人を前にすると、なにか言わずにはいられない。
「あっいや、そこは全然心配してなくて、薫くんには本当に助けてもらってるから。うちの所長がバイト代出すって言ってたし」
自分の態度で薫を心配させてしまったことに気付いたのか、礼真がちょっと焦ったように、手を振りながら言った。
「え?バイト代?いらないよ!俺が勝手に悠兄ちゃんを守るの手伝わせて欲しいって言っただけだから!」
礼真の言葉に、薫の方が焦る。
「いや、ガチでサポートしてもらってるから、そのへんはちゃんとしろって所長が」
マキシが電話をかけるのをかなり嫌がっていたあの所長か…と思い出す。礼真の口ぶりからしても、所長の言葉は絶対なのだろう。
怖くて、ちょっと面倒くさい人らしいが、薫のことをしっかり評価して、バイト代を出すと言うのだから、そのへんはちゃんとした人で、マキシと礼真にとっても、悪い上司ではないのだろう。
「そうなんだ、バイト代は本当にいらないんだけど、役に立ててるって所長さんにも思ってもらえるなら嬉しい」
バイト代を払ってもいいと言われるくらい役に立っていると思われているのは、かなり嬉しい。顔がにやけてしまう。
「うん、俺が初めて仕事手伝ったときより、薫くんの方がめちゃくちゃ使えてるって言われた…」
一方の礼真は、がくんっと俯いた。
怪異を前にしても落ち着いていて、判断も早く、的確に動く礼真に、使えない時代があったということが想像できない。
「えーっそんなことないだろっ!」
「いや、ある」
薫が言うと、ぼそっと低く返される。
昨日の夜、所長から『薫の方が使える』と言われたことをかなり気にしているらしい。自分が言ったわけではないが、比較されている時点で申し訳ない気持ちになってくる。
「そんな、落ち込みながら言わないでよ。けど、元気なさそうなのはそれ?」
「え?元気ないように見える?」
薫が聞くと、俯いていた礼真は顔を上げて、ん?というように首を傾げた。さっきのように沈んではないが、それでもいつもより表情が硬い。
あっかわいい…表情はちょっとアレでも、首を傾げる仕草は本当にかわいい。薫は心のメモにまたそれを書き込んで、今度実践してみようと思いながら、
「うん、なんか不安そう。やっぱりマキシさん、いないから?」
やっぱりそこに話が戻ってしまう。
薫に聞かれた礼真は、自分の唇をいじって、あーとか、うーとか言ってから、少し上目で、
「…今日さ数学あるじゃん、当てられたらヤバいから」
秘密を告白するように言った。
「…?礼真くん、いつも当てられても、すらすら解いてるよね?」
薫は無意識に、ん?と首を傾げていた。
今まで数学の授業で、当てられて、前に出て問題を解かされたときも、その場で答えを聞かれたときも、しっかり正解を出していた。
不安になる要素はないだろう。
礼真は言い難そうに薫から視線を反らして、
「あれは、マキシが教えてくれたから」
と、トントンとイヤーカフ型のインカムを指さした。
「えー!マキシさんが口頭で?すご、全然気づかなかった」
礼真とマキシの間では常に回線がオープンになっていて、リアルタイムで情報共有をしているということは聞かされていたが、まさか数学の問題まで共有していると思わなかった。
前に出て問題を解くときは、答えだけではなく、当然、途中の式もいる。問題を礼真が読んで、その場でマキシが解いて、それを伝えていたということなのだろう。
あの、礼真の写真を送ってーと騒いで、礼真から「うるさい」と言われていた人と、ちょっと結びつかない。
「物理も」
ぼそっと礼真がさらに追加投入してくる。
「物理もーーー?俺、礼真くん理数系もイケる人だと思ってたよー」
「イケない、イケない。理系はマキシ。はぁ…どうしよう…今日は物理ないけど…数学…」
薫が声を上げると、礼真はぶんぶんと首を振って、溜息をついて机に突っ伏した。
どこか遠い目をしている。よっぽど数学が嫌なのだろう。
ちょっと可哀そうになってくる。
「あのさ、俺もあんまり数学、自信ないけど、礼真くん当てられたら助けるよ」
トンと自分のイヤーカフを指さして、薫が言うと、ばっと礼真が体を起こした。
「薫くん!」
さっきまでのどんよりが嘘のように表情が生き返っている。
礼真くんの敵は、怪異より数学か…と、実はマキシの不在をちょっと不安に思っていた薫は礼真の姿に笑ってしまう。
「その代わり、英語は助けてね」
実は、ちょっと不安で昨夜は英語の予習が手につかなかったのだ。ここは交換条件を出していいところだろう。
「あっ…英語…」
薫が言うと、礼真はぺしょっと肩を落とした。
「えっまさか、英語も?」
「いや、英語は自分でやってるから、自信ない」
「それが普通になんだよ」
薫は笑いながら、こつんと礼真の頭に、軽くグーにした拳を当てた。
礼真も笑って首を竦めている。
気付くと、もうホームルームの時間で、クラスメートたちは全員席についていた。
薫の視線は、花凜へ向けられる。
いる…今日も、大きなリボンを後頭部につけて、かわいい顔で、じっと教壇を見つめている。悠司が来るのを待っているのだ。
ちらっと横の席の礼真を見ると、すっとその表情を締めている。礼真の中のスイッチが切り替わっている。
薫はぎゅっと机の下で手を握った。
(俺も、俺にできること、がんばる)
今日が始まるチャイムが鳴った。
「礼真、薫ちゃん、お疲れさまぁ」
ファミレスに入ると、先に来ていたマキシが手を振ってむかえてくれる。
放課後、ここでマキシと待ち合わせをして、今日の報告をすることになっていたのだ。
「お疲れさまです」
お疲れさまと、言われて、同じように返すとちょっと大人な気分になる。
ニコニコしているマキシに薫も笑顔で答えたが、
「おつ」
礼真はボソッと言うと、マキシの横にどかっと座った。
「レイマはご機嫌斜めなのかな?なんかあった?」
マキシが礼真をツンツンとつつきながら、薫に聞いてくる。
「数学で前に出て問題解けってあてられて死にそうになってました。けどちゃんとできてましたよ。」
マキシの聞いていることはそんなことではないだろうとは思ったが、これは薫的にはどうしても報告しておきたいところだったので、報告する。
礼真はむぅとした表情のままで、
「ノートに予習あったから、書けた」
ボソッと答えた。
「そっか、役に立てて良かったよ」
礼真の答えに、マキシはおっというように、眉を上げて、ニコニコというより、ちょっとなにか言いたげにニヨニヨしている。
礼真とマキシのやりとりに、薫の中で、なにかが、ひっかかった。
問題を解いて戻ってきた礼真が、明らかにほっとした顔で、
「予習あったから」
と言ったのは、自分で予習していたわけではなく、マキシがやっていた?
薫はじーっと、目の前の二人を見つめた。
(過保護…)
そんな言葉が頭に浮かぶ。
けれど、嫌なイメージではない。
昨日の夜、礼真に黙ってせっせと問題を解いているマキシの姿を想像すると、得体のしれないデカい金髪の男が、かわいいとさえ思えてしまう。
ふふっと笑って二人を見ていると、
「それより、悠ニャンはどうだった?」
マキシが聞いてきた。
「悠…ニャン?」
なにその呼び方?
薫の頭の中で、悠司の頭に猫耳がついて、ニャンと言ってる姿が浮かんでしまって、吹き出しそうになった。
「悠ニャンって…それは…ちょっと」
「あー薫くん気にしないで。マキシの呼び方にいちいち突っこんでたら、話進まない。今回はあのなんとかニャンに影響されたみたいだけど、かなりマシな呼ばれ方だから。」
『悠ニャン』呼びに薫が抵抗感があるのがわかったのか、礼真がフォローするように言ってくれたが、呼ばれ方が変わるということはないらしい。
「…そうなんだ…」
もっとひどい呼ばれ方している人がいるんだ…と気にはなったが、本当に話が進まなくなりそうで、薫は頷くだけにする。
「それより、悠ニャンの方はどうだった?」
本題はそっちだ。
「それ!」
バッと礼真がマキシに掴みかかる勢いで身を乗り出した。
「ま?どれ?」
珍しく感情が高ぶっているような礼真の勢いに、マキシが目を丸くしている。
「どれじゃないんだよ。悠司先生、十三階段が増やした一段に3回ひっかかってた。」
「3回?学校中の階段を一段増やしてるんなら3回は少ないんじゃない?」
礼真の勢いとは対照的に、マキシは軽い口調の疑問系で言う。
「あーそれは、俺が昨日、階段一段飛ばしが流行ってるって言ったの、信じたみたいで、悠兄ちゃんけっこう一段飛ばしで階段使ってて」
「お-すげー薫ちゃん、ナイス、でまかせ!」
マキシがパチパチと拍手する。
「けど、3回、薫くんと両側から、悠司先生を抱えて、一段持ち上げるのを3回だぞ!」
「悠兄ちゃん、すらっとしてるけど、けっこう重いんだよね」
「そのくらいならいいじゃん」
礼真が荒く、薫は少し困ったように言っていると、現場を知らないマキシがのほほんと答える。
「そのくらいじゃねーんだよ!音楽室の前でも!」
中休み、悠司は山方に言われて、地理の授業で使う大きな地図を取りに社会科準備室へ来ていた。
礼真と薫はなにげない風に装いながら、悠司をあとからつけていた。
ここに来るまで、悠司は本日二回目の十三階段に引っかかっていた。
社会準備室から地図を抱えて出てきた悠司はそのまま、スタスタと歩く。そして、音楽室の前で足を止めた。
「あっ」
礼真が顔を曇らせた。
「なに?」
「まずい、ピアノだ」
礼真が呟いて、足早に悠司に近づいた。薫にはなにも聞こえないが、礼真のあとに続いた。
「先生」
礼真が声をかける。
「ピアノ、すごい上手い。プロみたいだな、この曲ってミセスじゃない?うわーいいなー」
悠司は礼真の呼びかけに答えず、うっとりと誰もいない音楽室から聞こえるピアノに聞き入っている。
「本当にすごいな」
悠司の手から力が抜けて、地図がバサバサと落ちた。
「悠兄ちゃん…」
悠司は地図を落としたことにも気付かず、呪いのピアノの音に心奪われていた。
「誰もいない音楽室から聞こえるピアノに聞き入っているんだよ!Mrs.greenAppleじゃねぇーんだよ!呪いの調べだっつーの!聞いてたら生気とられんだよ!」
「レイマーお口が悪くなってるよー」
ギロっと礼真がマキシを睨んだ。
マキシはヘラっと笑って、
「それで?」
続きを促す。
「何回も声かけた」
「まあ、そうだよね、とりあえずこっちの音に意識戻さないとだからね」
「けど、全然でさ。」
「あー悠ニャン、受け入れちゃうタイプだからね」
「薫くんが、声かけたら戻ってきてくれた」
薫が「悠兄ちゃん!」と声を掛けた瞬間、悠司は文字通り夢から覚めたように、何度かまばたきをして、
「薫?どうした?」
なにごともなかったように言ったのだ。
「へえー薫ちゃんの声でねー」
「うん…多分、俺の声、聞き慣れてるからだと思う」
なにか含みのありそうなマキシの視線をうけて、なんで言い訳みたいに言ってるんだと思いながら、薫はなんとなく前髪をいじった。
「それから!」
薫の様子に気付いてない礼真は、さらにマキシに訴えるように続ける。
「それでさ!トイレで!」
「え?礼真、悠ニャンのトイレの中までついて行ったの?」
「行ってねーよ!」
面白がっているようなマキシに礼真が猫のようにシャーと威嚇する。
「あ、外で待ってたんだよね」
薫はフォローするが、礼真は机にごつんと額を当てて突っ伏した。
「待ってたけど…」
礼真と薫はそのときの様子をマキシに話はじめた。
「やっと放課後だね」
薫はほっと息をついた。
「うん、まぁ先生が学校出るまで油断できない」
口ではそう言いながらも、少し頬を緩めている。
悠司が廊下を歩いている。授業をして、職員室に戻っているところだ。
「悠兄ちゃんの授業どう思った?」
ここ数日は実習生は実際に授業をする。
薫も2回、悠司の授業を受けていた。
最初の授業のとき、きっと悠司は緊張していると思って、薫の方がドキドキしていたが、
悠司は堂々としていて、楽しそうに法律や制度のことを話した。
薫からしてみたら、近所のお兄ちゃんが教壇の上で、黒板に板書して、先生の顔で、薫を含めた生徒に授業しているのだ。
もう、身内の気持ちで、そわそわして、礼真から、「薫くん大丈夫?」とインカムで声をかけられたほどだった。
次の授業も悠司はいつもどおりで、薫も少し余裕を持って悠司を見ることができた。
授業中、何度か悠司と目があって、その度に薫は少し笑って、わかるよ!という気持ちを込めて頷いた。
悠司がそれをどう受け取ったかはわからないが。
「悠司先生の授業?うん、面白かったよ。俺、仕事のとき法律のこととかなんも考えていなかったけど、所長とかマキシがいろいろやってくれてんだなぁーっ…あっ!」
話していた礼真が言葉を切った。
「先生トイレ入った!職員用」
「さすがに入れないよね」
礼真と薫は悠司の入って行った職員用のトイレの前で顔を見合わせた。
礼真はドアに近づいて、中をうかがう。
端から見ればかなり怪しい。
薫は礼真と背中合わせになるようにして、まわりを見渡す。
幸い廊下には誰もいない。
「薫くん!すぐ悠司先生を連れ出して!」
礼真が急に鋭く言うと、バンとドアを壊す勢いでトイレに飛び込んだ。
薫もトイレに入る。
悠司の後にギラつく刃物を持った人影があった。
「悠兄ちゃん!ちょっと!来て!こっち!」
「え?なに?薫?」
礼真と刃物を持った人影がどうなったか確認する余裕はなく、薫は悠司の腕を引いて、トイレから連れ出した。
「赤い紙?」
話を聞いていたマキシが言った。
「そう、中うかがっていたら、定番の『赤い紙、青い紙どっちが欲しい?』って聞こえてきて、悠司先生がー」
ここで礼真がゴンと額をテーブルにあてた。
「ふつーに、『え?紙のストックありますから、いらないっす』って答えて」
「赤なら刃物で血まみれ、青なら水浸しで溺死ってヤツね。けど、答えたらダメなんだよねー答えた時点で、もう呪いの中に組み込まれているのよ」
軽い口調でマキシが悠司の後に迫っていた怪異のことを解説する。
マキシは隣の住民を紹介するように言ってるが、あの刃物を持つ黒い影を実際に見た薫は今さらのようにぞっとする。
「あーもう!全然余裕なくて!グーで殴ってしまったー!だってさ悠司先生、めちゃくちゃ無防備でさ、無自覚にどんどん怪異にひっかかるから!」
礼真が声を上げる。
「いつもなら、声かけて止めるのにー。グーで行っちゃって…あー今夜、赤い紙青い紙に謝りに行こう」
「それなら、俺が話しに行くよ。仕事中に起きたことだしレイマの責任じゃないから」
マキシが静かな口調で言って、よしよしというように礼真の頭を撫でると、
「…うん」
と、小さく返事が返ってくる。
「あの、悠兄ちゃんがなんかごめんね」
本当に落ち込んでいるらしい礼真に申し訳ない気持ちになってきて、薫が言うと、
「薫くんのせいでも、先生のせいでも…ない…か…ら」
机から顔を上げた礼真が少し笑顔をみせてくれたが、すぐにまばたきが増えて、すぅと目を閉じたかと思うと、そのまま机に突っ伏してしまった。
「?!礼真くん?え?どうしたの?体調悪い?」
突然意識を失ってしまったような礼真に薫が驚いて声を上げると、
「あー電池切れだー」
マキシが軽い口調で言う。
「えー?礼真くんて電池で動いてるの?」
礼真が人間ではないということはなんとなく聞いていたが、電池?
薫が上げかけた声を潜めて言うと、
「ま?」
マキシが目を丸くして吹き出した。
「いやいや、そんな感じってことだよ。たまに疲れすぎると、バタン寝しちゃうの。」
「バタン寝?」
「そうそう、ウサギって急にバタンって寝るの知らない?レイマさーいつも猫ちゃんなんだけど、たまにウサちゃんになるんだよねー」
マキシはゆっくりとテーブルに突っ伏して本当に眠ってしまったらしい礼真の頭を柔らかく撫でている。
礼真の髪に触れるマキシの指から礼真を想う気持ちが見えるようだった。
それを見ていると、
「マキシさんって礼真くんの恋人なんですよね?」
つい、いつも思っていることが口から出ていた。
礼真に関係を聞いたときは「秘密」と誤魔化されて、きっとそうだと思っていても確信はもてなかったから。
マキシは薫の問いに、ちょっと笑って礼真の顔を見つめる。
「恋人かー。俺はレイマに恋しているから、俺にはレイマは恋人だけど、礼真はどうなんだろうなぁ」
普段のインカムから聞こえてくる明るくにぎやかな声ではない、静かな響き。
礼真の顔にかかっている髪を、そっと指で耳にかけてやりながら、
「レイマは俺とずっと一緒にいたいって言ってくれてるけどね。俺もそう思ってる。仕事では相棒だし、家族みたいでもあるし、もちろん大好きだし、愛してる。だから、そうだなぁ『恋人』って言葉は俺には狭すぎるかなぁ」
薫にではなく、礼真に語っているようにマキシは言って、
「で?薫ちゃんはどうなの、悠ニャンのこと」
薫を見た。たまに出るどこを見ているかわからないマキシの目。少し怖い。
「えっ?ええっ俺ぇ?悠兄ちゃんのことって…いや…なんで…」
自分でも気付かない心の奥まで見られているようだった。薫はしどろもどろになっていると、
「なんでって、レイマは気付いてないと思うけど、薫ちゃんかなりわかりやすいよ」
マキシは笑う。いつもいたずらっぽい目に戻っていたが、薫は自分の中にあるものを話し始めていた。というより、誰かに話したかったのかもしれない。
「うっ…そうですか…。えっと、俺ってけっこう周りに気をつかってるっていうか、自覚はないけど…そうらしくて。けど、悠兄ちゃんは無理するな、今日はなにもしなくていいよ、お姫さまになっとけって、言ってくれて。そんなこと言ってくれるの悠兄ちゃんが初めてで…」
口に出してみると、思ったような言葉にならないのが少しもどかしい。
「へぇーお姫さま」
やっぱりそこが気になるよなーと薫が思ったところにマキシが食いついてきた。
「はい、そのなんにもしないで、ゆったり、全部まかせる状態のこと悠兄ちゃんはそう言ってるって感じで。けど、やっぱりお姫さまって言ったらちょっとはかわいい方がいいかなーって。俺こんなだから、礼真くんのかわいいところ見て真似してみたけど、上手くいかなくって…けど、少しでも、かわいくなれたらなぁ…って…」
言っているうちに、顔が下がってくる。眠っている礼真に目が行く。やっぱりかわいいなと思ってしまう。
「そうなんだ」
マキシは不思議そうにそんな薫を見ている。
「はい、あっ俺そろそろ」
俯いた薫の目にテーブルにおいていたスマホの画面が目に入る。もう帰らないといけない時間だ。薫が鞄を手にして立ち上がると、
「うん、そうだね。レイマー薫ちゃん帰るってよー起きてー」
頷いたマキシが、礼真の肩をぐいぐい揺する。
「あっ寝かせてやってください。夜も仕事してるって聞いたから、休ませてあげてください」
うーんとぐずって起きる気配がない礼真をさらに起こそうとするマキシを止めると、
「…ありがとう。明日は俺もまた戻るから、よろしくね」
マキシが少し嬉しそうに笑って、ひらひらと手を振った。
「はい、じゃあまた明日」
マキシに頭を下げて薫はファミレスを出た。
その後ろ姿を眺めて、
「…薫ちゃん、めちゃくちゃかわいいじゃん、悠ニャンの目は節穴か?」
マキシは、ふんっと息をついた。



