Not only かわいい but also…

「先生、いつ授業するのー?」
「早く授業してほしいな」
「悠ニャン先生、また会えたー」
「まだまだだよ。どんなことやるか考えてるとこ」
「けど、公民苦手ー」
「あー私もー」
「悠ニャン先生、会いたかった?」
「マジか、じゃあ、ちょっと好きになってもらう授業考えないとな」
 今日の休み時間も悠司は廊下で女子生徒に囲まれている。
 その姿を自分の席から薫は眺めていた。
 薫はまだゆっくりと悠司と話ができていなかった。悠司もなにか言いたげに薫の方を見ていることはあるのだが、すぐに女子に囲まれてしまう。
「うわ、すごいかわいい子いる、あんな子いたっけ?」
薫は女子の中に頭に大きなリボンをつけたアイドルのようにかわいらしい顔立ちの女子生徒を見つけた。
 その言葉に、礼真がはっと顔を上げた。
 少し眠そうにしていた礼真の目が鋭くなっていた。
「礼真くん?悠兄ちゃんたち、気になる?」
思わず声をかけると、
「あっ…いや、あのリボン…無駄にでかいなーって…」
言いながらも目だけは悠司たちの動きをしっかり見ている。
 薫も視線を戻して、頷いた。
 アイドルみたいな子もそうだが、女子たちはみんなかわいい。あんなかわいい子たちと話すのはきっと楽しいんだろうと思ってしまう。
「かわいい…は、正義か…」
呟いて、溜息をついた。
 礼真はまだ悠司たちを見ている。
(礼真くんもやっぱりかわいい女子に興味あるのかな…ってか、礼真くんもかわいい…よな。)
礼真はなにか考え込んでいる。細い指で唇に触れていて、繊細そうなその仕草は薫の目からかわいく見えた。
 それに…と昨日の帰りに見た光景を思い出す。
 長身の金髪の男と並んで歩く礼真は、学校で見せる姿とは違って、小さくてかわいらしく見えた。
「あっ…礼真くんさ、昨日、モデルみたいな金髪の人と歩いてたね」
昨日のことを思い出したついでに聞いてみた。
 兄弟には見えなかったし、親戚のお兄さんとか…と薫は帰ってからもずっと気になっていたのだ。
「どんな関係?」
薫の問いに礼真は、驚いたように目をまん丸にしてから、すっとイヤーカフに触れて、
「えと…秘密」
と、人差し指を立てて、唇に触れて、少し笑った。
 そこでチャイムが鳴って、国語の清川がやってきた。
「はい、女子たちー席について」
悠司に群がっていた女子たちに声をかけて、女子と一緒に教室に入ってくる。
「はい、じゃあ、源氏物語の続きから」
清川の声で、一斉に教科書を開く音が響く。
 が、薫はそれどころではなかった。
 さっきの礼真の言葉がぐるぐると頭の中をまわっている。
(秘密…秘密って…秘密の関係ってこと?えっ…ってことは…恋人?!)
そこに考えが至って薫は思わず礼真を見た。
 授業が始まったので、礼真は前を見ている。
(恋人かぁ…じゃないと鞄とか持ってあげないよな。そうか…そうなんだ…。そうだよな、男とか女とか関係なく、かわいいってやっぱ正義なんだよな…)
溜息をつきながら薫は礼真の横顔を観察していると、礼真がよく触れている耳になにか鈍く光るものがついていることに気付く。
 耳たぶより少し上、耳の縁にいぶし加工されたシルバーのイヤーカフがつけられていた。
 飾りっけのないシンプルなデザインの黒っぽいシルバーのそれは礼真によく似合っていた。
 アクセサリーなんかにまったく興味はなかったが、礼真がつけているとそれが急に重要なアイテムに思えてくる。
 俺もあれつけたら、かわいいかな…そんなことを思っていると、
「いいなぁ…」
つい声が出ていた。そこへ、
「奥村くん、次の段落、読んでください」
清川の指名が飛んできた。日にちの数字と出席番号から生徒を指名する教師もいるが、清川はそのタイプではなく、まったくランダムに当ててくる。
 いつもそれを警戒してしっかり集中することにしている薫だったが、今日は礼真のせいで完全にそっちに気が向いていなかった。
 立ち上がったものの、次の段落と言われてもどこなのがわからない。
 戸惑っていると、トントンと軽い音がした。
 見ると礼真がちらっと薫を見上げて、「ここだよ」というように教科書を指でトントンしている。
「はじめより我はと思ひ上がり給へる御方々…めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。同じほど、それより下臈の更衣たちは、まして安からず…」
薫は、その助けにほっとしながら、指定した段落を読むことができた。
「はい、いいですよ。では、ここを口語にしていきましょう」
清川の声に、はぁ…と息をついて椅子に座った薫は、礼真を見た。
 礼真は前を向いて、黒板に書かれている言葉をノートにうつしている。
 特に薫を助けてやったとも思ってないらしい。
 そういう素っ気ないところが礼真らしいな…と思いながら、薫も授業に集中しながら、考えるとき、ちょっとだけ礼真が唇に触れる仕草を真似てみた。



 うわっという声があがっている。
 グラウンドの中には、人の身長ほどの巨大な赤、青、白の大玉があった。
 S嶺高校の体育祭は、全学年縦割りで3つのチームにわかれて競われる。
 そんな、体育祭で必ず行われる大玉運びだ。
 ぎっちり並んだ生徒たちは両手を上げて、頭上にある大玉を送っていく。単純ながらも男女合同、全学年参加で毎年盛り上がる。
 どこに誰を置くかも重要なポイントになっている。
 だいたい背の高いものが端っこに配置されて、玉が横に逸れることを防ぐ役割を担う。
 180センチある薫も一番玉がこぼれやすくなる中盤の列の端っこにいた。
 練習とはいえ競技が始まれば本気スイッチが入る。
 薫は青組だ。
 悠司は自分も行ったその競技を眺めながら、無意識に薫の姿を探していた。
 まだ、ゆっくり話せていない。
 薫が話したそうにしているときは、悠司が女子生徒や他の実習生たちと話していたり、悠司が話しかけようかと思っているときは、薫は礼真と話していてタイミングが合わない。
 薫のクラスの担任の山方が悠司の指導担当なので、朝晩のホームルームは悠司も参加するし、山方の社会の授業のときも悠司は教室に入って、生徒たちの間を歩きながら生徒の作業をサポートすることもある。
 そんなときもつい、薫を目で追ってしまう自分がいた。
 いつも明るく笑っていて、困ってそうな友達がいたらごく自然に手を伸ばして助ける姿は、あの頃と変わらない。
 女子生徒たちが、
「九条くんは王子さまなの。キラキラでさ、頼りがいあってさ、優しいし。女子だけじゃなくって男子にも人気あるしさー」
と、話していたことを思い出しながら、佳境に入ってきた大玉運びに意識を戻した。
 薫のところまで、まだ大玉は来てはいないが、手を上げて、声を上げている。練習でも真剣だ。
 その薫の姿に目を細めながら、
「俺も毎年、あの場所だったな」
薫と同じように高校時代から180センチを超えていた悠司もいつもその場所に配置されていたことを思い出す。
 大玉は薫のいる青組の方が早く運ばれていくが、大きいわりに軽い玉は、速度がつくとコントロールが効かなくなってくる。
 このときも誰かの手が強く触ったせいで、青い大玉が薫側へ行く。
 このままでは、大玉は生徒たちの列から零れる。
 あっ…と思っていると、薫が大きくジャンプして、バレーボールのアタックの要領で、玉を列の方へ戻した。
 わっと歓声があがって競技は続くが、玉を戻すことばかり考えていたのだろう後ろに反るようにして飛んだ薫は、着地したと同時にバランスを崩してそのまま、後ろに受け身も取らないまま倒れた。
 無防備に倒れた薫の頭や背中が地面にぶつかる。
 悠司の顔色が変わった。
「薫!」
自分でも驚くほどの早さで悠司は飛び出していた。
 地面に仰向けに倒れた薫が顔をしかめて起き上ろうとしていたのを、悠司は止めた。
「薫、動くな。頭打っただろ」
「悠兄ちゃん?」
急に現れたように悠司に薫は驚いている。
 薫が転んだことに気付いている生徒たちも心配そうに、薫を見てる。
「痛むところは?」
悠司は言いながら、薫の後頭部を撫で、ひねったように見えた足に触れる。
 足に触られた薫が顔をしかめた。
「足痛めたか、ったく無茶するからだ」
悠司は少し怒ったように言うと、薫の腕を自分の首に回させて、ひょいっと抱き上げた。「わっ」
と薫は声を上げた。
 それを見ていた生徒たち、特に女子から悲鳴のような黄色い声が上がる。
「ゆっ悠兄ちゃん…下ろして…大丈夫だ…から」
「ダメだ、頭打ってるし、足も痛めてんだ。無理するな」
恥ずかしさと、申し訳なさで声を震わせながら、身をよじる薫をきっぱりした口調で黙らせて、悠司は薫を抱えたままで保健室へ向かう。
「けど…」
周りの視線も気になって、うろっと視線を泳がせながら薫が言うと、悠司は薫の名前を呼ぶ。
 薫の視線が自分の方に向いたことを確認してから、悠司はしっかりと視線を合わせて、
「いいから、お姫さまになっとけって」
と、ただ甘やかしているだけではない、少し叱っているような風味も混ざったやわらかな声で言った。
 薫の脳裏に、あの夏の日が浮かんだ。
『みんなのことを守って、優しくできた薫はお姫さまになっとけってこと』
今のように抱っこされて言われた言葉。
 悠司のいう「お姫さま」という言葉には、こんなときくらい、なにもしないで、頼れよという意味も含まれていて、
「…うん…」
薫は、小さく頷くと赤くなってくる顔を隠すように俯いた。
 グラウンドから保健室まではそこそこの距離がある。
 悠司に抱えられたとき、予想外にがっしりとした体と安定感に驚いた薫だったが、さすがほとんど体型が変わらない自分を運ぶ悠司の負担が心配になってきた。
「あの…悠兄ちゃん、俺、重いから…その」
真っすぐに前を見て歩いている悠司に控えめに声をかけた。
「重いよ」
「……だよね、もういいから、悠兄ちゃんが体痛めるよ」
短い返事。確かに重いかもしれないけど、そんなストレートに『重い』と言われたから、ちょっと悲しい。
 もう下りるから…と、悠司の首に回している腕を解こうとしていると、少し揺するようにして抱き直される。
「高校生男子が軽いわけないだろ。けどな、薫、お前、俺のこと舐めんな」
その動きに無理も、危なげなところもなく、悠司は薫を見下ろして、余裕ぶった表情でニヤっと笑う。
「あのときの途中でギブアップした俺だと思うなよ。」
「あのときの…ってあの、子ども会の…」
このシチュエーションで思い出すのは、薫たちが迷子になったあの夏の子ども会のデイキャンプしかない。
 悠司と再会してから薫の頭のメモリーにいつも再生可能状態である思い出だ。
 それは悠司も同じだったらしい。
 あのとき、悠司はキャンプ場まで、足を痛めた薫を運べず、途中でギブアップして、肩を貸して二人並んでみんなが集合している場所まで戻った。
「そうだよ、ちっこい薫さえ運べないのかーってちょっとショックでさ。あれからかなり鍛えた」
薫にとっては、悠司にお姫さま抱っこしてもらったことが、強烈に印象の強い思い出になっていたが、悠司には薫を最後まで運ぶことが出来なかったのが、かなり悔しい思い出になっていたらしい。
「えっ俺のせい?」
悠司の悪い思い出を作ってしまったのかと、思わず薫が言うと、
「?…薫のせいっ?なんで?…まぁ、薫きっかけではあるけどさ、体鍛えるのはいいことだろ。いざってとき最後はやっぱり体力勝負だから」
悠司はちょっと薫を見下ろして、ふっと口元を緩めるように笑う。
 その笑顔をあのときと同じ、斜め下から見上げる角度で見つめる。
「学校の先生になるの…体力いるんだ」
小学生の薫から見たら、あのときの中学生の悠司はずいぶん大人に見えたが、今の悠司は本当に大人の男になっていて、頬のラインもシャープになっていてかっこいい。
 なにより、将来の夢に向かって具体的に教育実習に取り組んでいることも、大人なんだ…と薫には思える。
「ん?」
薫の言葉に、悠司は視線を少し落として首を傾げた。
「ん?悠兄ちゃんは、先生になるんだよね?」
「いや、ならないけど」
「えっ?だって教育実習に来てるじゃん」
薫としては、教育実習に来ているなら当然、教師になるんだと思っていたが、悠司に否定された。
 薫の当然の疑問に、
「それは、教員免許は取っておこうかなって思っただけで、なりたいのは弁護士」
また前に視線を戻した悠司はあっさり答えた。
「…弁護士…あ…悠兄ちゃんのお父さんそうだから?」
薫の脳裏に、しゅっとした眼鏡をかけていて、ちょっと話しかけ難い顔の悠司の父の姿が思い浮かんだ。悠司の父親は弁護士で、今はどこかビルの一室で個人で弁護士事務所を開いているらしい。
 悠司の少し甘めでさわやかな容貌とは違い、頭脳派のヤ〇ザのようにも見える奥村弁護士は、子供の薫に対してもいつも丁寧で、優しく声をかけてくれた。そこはとても悠司に似ている。
 そんな父を悠司が尊敬しているというのは、薫にもわかる。
「まぁそれもあるけど、ありきたりだけど、人の役に立てる仕事がしたいって考えたときに、俺の一番身近にあった仕事が弁護士だったからってところかなー」
「そうなんだ…」
先生もかなり似合っているけどな…と思うが、その夢も悠司らしいと思う。
「薫は?なりたいものあんの?」
ふいに聞かれる。
 ここで自分に質問が来るとは思ってなかった薫はぱっと顔を上げた。悠司が薫を見つめている。
 変わらない。けれど変わった悠司。
 保健室は目の前。
 今回はちゃんと保健室まで運んでくれた。
 薫は悠司に身をゆだねて、運ばれただけ。
 悠司がいなかったら、薫は付き添いも断って足が痛くても平気な顔で、一人で保健室まで来ていただろう。
 けれど、悠司は薫をそんな風にはさせない。
 頼っていい、甘えていい、なにもしなくてもいいと、お姫様にしてくれる。
 悠司は少しだけ、悠司の胸に顔を寄せてみた。
「なりたいもの…は…」
(お姫さまです…ちょっと今、叶ってます)
心の中で言ってから、
「なりたいものは…まだ、決まってないかなぁ」
と、ぱっと顔を上げて明るく答えた。
「そっかーまぁそんなもんだよなー俺も高校のころはまだ漠然としてたもんなぁ」
「薫くん!どうしたの?」
悠司が言っていると、どこから現れたのか礼真が駆け寄ってきた。
 持病があるとかで、激しい運動ができないという礼真は体育はいつも見学していて、体育祭の練習にも参加していない。
 体育祭の練習をしているときは、見学しているはずだが、今日はどこかでさぼっていたらしい。
 礼真は休み時間もふらっと一人でどこかに行ってしまうことがある。
 薫もそこは深く聞かないことにしていた。
 礼真は、保健室のドアを開ける。
「ありがとう」
悠司は礼真に言いながら、保健室に入って、ベッドに薫を下した。
「ちょっと転んだだけで…」
「ちょっとじゃない、仰向けに転んで頭うって、足ひねってるだろ」
心配そうにしている礼真に薫が言っていると、横から悠司が訂正する。
「えっ頭うった?吐き気ない?頭は後から来ることあるから、気を付けないと」
礼真が眉をしかめて薫の顔を覗き込んでくる。
 その瞬間、ふいに薫の頭の奥がズキっと痛んで、
「っ…痛…」
ぎゅっと目を閉じた。
「薫!」
「薫くん?」
二人が一斉に声を上げて、顔を覗き込んでくる。
 悠司は怒っているような顔で、礼真は困ったような顔で、でもそれぞれが薫のことを心配しているのがわかる。
 が、薫は二人に対して、返事できる状態ではなかった。
 薫は礼真の顔をじっと見つめた。
 さっき頭痛がした瞬間、頭の中にあったものがぱらっと剥がれ落ちた。
 その剥がれたものは、礼真の存在。
 2年生から同じクラスになって、席が隣になるまではそれほど親しく話したことはなかったけれど、挨拶はするし、雑談もした。
 その記憶が、ない。佐藤礼真というクラスメートはそこにいなかった。
 けれど、ここ数日の記憶は確かで…。
 自分の頭の中でなにが起きているのかわからない。
 混乱のままに、薫は礼真を凝視していた。
「薫くん…俺の顔になんかついてる?大丈夫?」
礼真の方は普通に心配げに聞いてくる。
 悠司も心配そうに薫を見てる。
 ここで、薫が礼真の記憶がないと言えば、異常があるのは頭を打った薫だと思われるのはわかりきっている。
「あーえっと…あっ礼真くんの耳っ耳についてるのかっこいいなーって」
礼真を見ていた理由をなんとかひねり出すと、
「は?」
「え?」
二人は同時に声を上げて、拍子抜けしたというように脱力した。
「そこー?また頭が痛くなったかと思ったよー」
礼真はイヤーカフに触りながら、はぁ…と息をつく。
「それな。けど、薫もアクセサリーに興味持つようになったかー」
悠司も笑いながら、いかにもお兄さんぶった言い方をする。
「…そりゃまぁ、礼真くんの耳のヤツ、かわい…かっこいいから」
悠司に子供扱いされているな…と感じながら、二人が自分に向けていた心配が逸れたことにほっとする。
「ありがとう」
礼真は少し照れたようにまたイヤーカフに触れながら、ちょっと視線を落として、口元に笑みを浮かべた。何者かはわからなくても、やっぱりかわいいな…と見入ってしまう。
「イヤーカフか、そうだな。邪魔にならないし、ピアスみたいに穴あけなくてもいいから、いいよな」
悠司は礼真のイヤーカフと礼真をじぃと見てる薫を交互に見て、頷いている。
「うん、礼真くん、似合ってるし、いいなって思っちゃった」
薫もその言葉を聞きながら、これならマネできると考えていた。
「はは、ほめ過ぎ、ありがとう。奥村先生もいるし、俺、教室戻るから、お大事に。あっ一応、保健室にいるって、山先には言っておくよ」
二人の視線を受けて、恥ずかしくなったのか居心地悪そうに、うろっと視線を泳がせた礼真は少し早口で言うと、ひらっと手を上げて、保健室を出て行った。
「ありがとう」
「山方先生な」
出て行く礼真の担任の呼び方を悠司が軽く注意すると、閉めかけた保健室の扉からひょいと顔を戻した礼真が「はーい」と軽い返事をして、にこっと薫に笑った。
 閉まった扉を見ながら、薫はまた、礼真の正体への疑問を深くしていた。
 礼真の言った「山先」は自分たちの担任の山方を生徒同士で呼ぶときの、呼び方だ。
 あだ名というほどではないが、生徒しか知らない呼び方だ。
 部外者が、それをあの会話の流れの中で、あれほど自然に口にすることができるのか…薫はまたわからなくなってきて、溜息をついて俯いた。
「薫?大丈夫か?頭、痛いんじゃないのか?」
悠司の手が伸びてきて、薫の額に触れる。
 安心できる大きな手が少しひんやりしていて、気持ちがいい。
「熱はないか…」
「もう、本当に大丈夫だよ。俺少し休んだら、戻るから。悠兄ちゃんも戻っていいよ」
薫が言うと、悠司はまだ疑うように薫を見つめてくる。
 本当はもっと一緒にいたいけど…と、思いながら、ふっと思い出して礼真の真似をして、唇に触れて悠司を上目で見てみた。
 礼真がやってすごくかわいいと思った仕草だ。
 合ってるかな…と思っていると、少し悠司の表情が変わった。
「薫、授業中もよく唇触ってたけど…」
(授業中も見てくれてた!これは!正解?合ってた?)
「唇荒れてたら、触りたくなるかもだけど、余計に悪くなるから、触るな。」
心の中でくるくるーと回ってしまうくらいに喜びかけていた薫は、続けられた悠司の言葉にひっくり返りそうになる。
 荒れて触ってたんじゃないのに…と唇から手を離して、俯く。
 かわいく見える礼真の仕草の修行の道はなかなか険しいらしい。
 すっ…俯く薫の目の前に、緑と白のリップが差し出された。
「これ、よかったら。コンビニで買ったヤツだけど。つけとけ」
「え?」
薫が顔を上げて、リップと悠司を見る。
どうしていきなりリップ?そんな顔をしていると、
「俺の使いかけじゃないぞ」
悠司がちょっと慌てて付け足した。
「それは、そうだろうけど…えっでももらっていいの?」
薫は悠司の手からリップを取って、白い蓋をとった。半透明の中身は角がビシとしていて新品だ。
「おぉ、その…ちょっと唇いつも触ってるの気になってさ、今朝寄ったコンビニで買ったヤツ。2個入りだったから、1個は俺がとったし、気にしなくていいから」
悠司はポケットの中から同じものを取り出して、薫に見せた。
 悠司が授業中も、自分を見てくれていて、薫の意図とはかなり違っていたが、唇を触っていることも気にしてくれていた。
 しかも、そこから朝、コンビニに寄って、リップを買ったのだろう。
 2個入りを買ったのは、薫がもらっても負担に思わないようという、気遣いだろう。そこが悠司らしい。
 ひとつのリップに、悠司の気持ちをたくさん感じて、薫はぎゅっと握った。
「ありがとう…大事に…する」
宝物にするね…までは言えなかったが、そのくらいの気持ちで言うと、
「いや、使えよ」
あっさり言われた。秒で返された。そこもやっぱり悠司らしい。
 笑ってしまって、
「うん、じゃあ今、使うよ」
と、リップを塗っていると、
「お待たせ、お待たせー怪我人はどこかな?」
保健室の先生が戻ってきた。
 悠司の表情が、近所のお兄さんから、教育実習の先生に戻る。
 薫が転んだ状況の説明を保健室の先生にしている悠司を見ながら、薫は手の中のリップをそっと撫でた。