「十三階段ごくろうさま、ここでいーよー」
花凜が言うと、スライム状の十三階段は中に取り込んでいた薫を言われた場所に置いた。
自由になった薫はさっと周りを見渡した。
「っ!」
薫は視線の先に扉があるのを見て、無言でだっと駆け出した。
「あ!薫ニャン!なにしてるのー」
花凜が笑いながら言って、おいでおいでと手を動かした。
「うわ!」
見えない手のようなものに、足を掴まれてひっぱられる。
薫はそのままダンっとうつ伏せに倒れた。咄嗟に受身を取って、なんとか身体にうける衝撃は逃す。
「くっ!」
立ち上がろうとしたが、そのままずるずると花凜の方へ引っ張られる。
「なんで逃げるのぉ?花凜ニャン悲しいなー」
自分の足元まで引き寄せた薫を見下ろして、花凜はわざとらしく泣きマネをしながら、何か指示をするように手を動かす。
その手の動きに合わせるようにして、薫の体が引き上げられ、花凜の前に立たされた。
花凜はさっきの泣きマネが嘘のように、にっこり楽しそうな笑顔を薫にむける。
「俺を人質に取っても無駄だからな」
薫はキッと花凜を睨んだ。
言ってはみたが、悠司なら、薫の安全を引き換えにしたら、どんな条件も、のんでしまいそうで怖かった。
悠司は、薫じゃなくても、誰に対してもきっと体をはって守ろうとする。悠司がそんな人間だということは、薫は1番わかっていた。
自分ができることなら、平気な顔で、引き受けてしまうのだ。
そんな、悠司を自分の存在が不利な状況に追い込んでいることが、我慢できなかった。
「悠兄ちゃんになんかしてみろ、絶対に許さないからな!」
薫が叫び出したくなるのをこらえて言うと、花凜はうーんと首を傾げながら、薫の体を引っ張って、円が描かれている場所に立たせる。
薫は抵抗しようとしたが、金縛りにあっているように体を動かなかった。
「花凜ニャンも反省してるの」
ふいに花凜が言って、薫は驚いてその顔を見た。
花凜は薫の顔を見ることなく、薫の右腕を持ち上げると
「このへんかなー」
と肩からまっすぐに腕を伸ばさせた。
そうされると、なにかにくっつくように腕が固定される。
「なにして?!」
なにもない空中に縫い付けられた薫は声をあげた。
「悠ニャンも一人でこっちに来るのは寂しいよね。だからー悠ニャンが仲良しの薫ニャンが一緒なら寂しくないでしょー?」
花凜は左手も持ち上げて、右手と同じようにして、話を続ける。
「でもねー薫ニャンをこっち側にするにはちょぉーと力不足だったの、てへ」
空中に磔のようにされた薫には、花凜の言っている言葉の意味がわからない。
ただ花凜が自分になにかしようとしていることは分かる。
薫はなんとか、見えない拘束から逃れようと身をよじろうとしたが、身体はさらにぴくりとも動かなくなっていた。
花凜は睨むことしかできない薫の前に立つと、
「でもでも、安心してーちゃんと花凜ニャン考えてます!じゃーん!かわいーでしょー寂しがり屋さんのウサちゃんだよー」
半透明のウサギの耳の付け根の辺りを掴んで、ぐっと薫へ突き出した。
耳の付け根を掴まれて持たれているウサギはジタバタしている。
「このウサちゃんはねー忘れられちゃってーご飯もらえなくて、死んじゃったかわいそうな子なのーよしよし、してほしいんだってー」
花凜はさらにウサギを薫に近づけた。
薫の顔にウサギの毛のフワフワモサモサの感触が伝わってくる。
「だからねー薫ちゃん、この子がまたよしよししてもらえるように、ウサちゃんの依り代になってね」
「な?」
花凜は言うと、さらにウサギを薫に押しつけてきた。
花凜に押し込まれてウサギの体が薫の身体にめり込むように入っていく。
その光景に薫は声も出せずにいた。
「なに…した…ん?!」
言い掛けたそのとき、胸の奥の方がドクンと大きく脈うつように動いた。
「なに…なにが…」
「薫ニャンはーかわいいウサちゃん、薫ピョンになるんだよ、ほら、見てぇもう手が」
言われるままに薫は自分の手をみて息を飲んだ。
指がくっついて、手の甲には毛がはえはじめていた。
手首の中の骨がぐぐっとその位置を変える。
「うっあぁー!あっあ!」
激しい痛みが走って声を上げた。
胸の奥のさっき脈打ったあたりが、さらにドクドクしている。それが、無理やりに引っ張られて、伸ばされる。粘土遊びをしているようにこね回されている。
「ぐ…ぇ…ぅ…あぁ」
そこから感じる痛みは、痛みだけではなく、ジェットコースターに乗ったとき、内臓がふっと持ち上げられるようなあの気持ち悪さを、もっと激しくしたもので、薫は込み上げてくる吐き気に体を震わせた。
「だんだん、かわいくなってきたねーお耳も長くなってきた」
朦朧としてくる意識の中で花凜の言葉はほとんど薫には届いていなかった。
花凜が変化していく薫を満足そうに眺めていると、バンっと大きな音が志延館に響いた。
「薫!」
「薫くん!」
志延館の扉を蹴破る勢いで、悠司、レイマ、マキシが駆け込んできた。
そのまま、三人は薫と花凜がいるところまで来ようとしたが、その2メートルほど手前で、なにかに阻まれた。
そこから、足が動かない。
「なんだっ、これ」
悠司が何度も足を動かそうとするが、足が床に張り付いたように動かない。
「あっ悠ニャン、やっぱり花凜ニャンのところに来てくれたんだー。でもでも、ちょっと早すぎぃ。せっかくサプライズプレゼント用意していたのに、ごめんニャンまだ完成してないのー」
と、言いながら薫の前から、動いた。
「薫!」
「薫く…」
その姿に息を飲むしかなかった。
薫の顔は半分ほどまでモサモサとした毛に覆われて、鼻先の下から、柔らかな毛で覆われた口元が左右にぷっくりと膨らんでいる。
「あっ…ぁぅ…」
その間も薫は苦痛の声を上げ続けている。
「お前っ薫になにしてるんだっすぐに止めろ。お前の目的は俺だろう!」
悠司が叫んだ。
「あのね、花凜ニャンはね、悠ニャンに花凜ニャンと同じ学校の怪異になってもらいたいの。すごく頑張って準備したんだよ。みんなの願い集めて、この場所に溜まった力も動かして」
花凜は褒めてというようにキラキラした目を悠司に向けてくる。その間にも薫から耳を塞ぎたくなるほどの苦痛の声が上がっている。
「そんなこと聞いてない!薫をっ薫!」
悠司はさらに叫んだ。悲痛な悠司の叫びは花凜にはまったく響いていない。勝手な言葉だけが続く。
「でも、悠ニャンも一人で怪異になってこっちにくるのちょっと寂しいでしょ。だから、悠ニャンと仲良しの薫ニャンに怪異になってもらったら、悠ニャンも大丈夫でしょ?花凜ニャンと悠ニャン、二人でぇ薫ピョンを可愛がりながら、永遠にここで暮らそうねー」
にっこり笑った花凜は胸の前で両手を組んで、ねっ、と首を横に曲げた。
「なに言って…すぐに止めろっ!薫が苦しんでるっ薫!」
花凜には怒鳴りながら、悠司が名前を呼ぶと、薫の目だけが動いた。
毛で覆われかけた顔の中で、目だけは人間のもので、少し色素の薄いそれは薫の目だとすぐにわかった。
顔を見たらいつもしっかり視線が合う薫の目。
苦痛の声を上げながらも、悠司が見れば薫は目を合わせる。
「薫…」
「…ちょっとかわいい…ロップイヤーちゃん」
薫をじっと見ていたマキシがポツリと呟いた。
「ロップイヤー?」
激しい目で花凜と薫を睨んでいたレイマは聞きなれない単語にふっとマキシを見た。
「そう、ほら薫ちゃん、お耳垂れてるでしょーあれね、ロップイヤーっていう種類なんだよーかわいいよね」
緊迫感ゼロのマキシに、
「っ今、ウサギの種類言ってる場合かっ!マキシ、お前ぇ」
動けないのはわかっていたが、礼真は勢いでマキシに詰め寄ろうとした。
そのとき、固まっていたはずの足が少し動いて、礼真は、はっとマキシを見返した。
マキシがほんの少しだけ首を横に振った。そのまま動くなという指示だ。
礼真が何気ない素振りで、足元を見ると、水がその場にまかれている。マキシが後ろ手に、空になった水のペットボトルを持っていた。
マキシは水を介して自分の霊力を広げる。
花凜の気が薫と悠司に反れている間に、自分たちにかけられていた金縛りのようなものを解除していたのだ。
マキシと礼真はさっと視線を交わしてから、花凜、悠司、薫をじっと見つめた。
まだ、動けない。じりじりしている礼真をマキシはもう一度、制した。
そんな二人にまったく気付いていない花凜と悠司のやりとりは続いていた。
止めろを繰り返す悠司に、花凜が「えー」と声を上げながら少し考え込むと、ゆっくり悠司に近づいてきた。
「そんなに言うならー、悠ニャンの口から言って欲しいニャン。学校の怪異になって、花凜ニャンと永遠に一緒にいたい。薫ピョンはいりませんって。そしたら、やめてあ、げ、る」
花凜はちょっと首を傾げながら、悠司の目の前まできて、うふっと笑う。
悠司はうっと息をつめた。
自分が怪異になる?
あの恐ろしいものに自分が?
ぞわっとした嫌悪感と恐怖が全身に走る。
それよりも、薫をいらないと言う?
足が震えた。
悠司は薫を見た。
片側の目が真っ黒のガラス玉のようになっている。
口から伸びた前歯がのぞき、磔にされている腕はすでに関節がウサギのそれになっていた。
「うぅあ…ぁ、ゆ…にちゃ」
呻きながら薫が言った。発声器官のないウサギに変わりつつある薫が必死で喉の奥から言葉を絞り出している。
「ダメ…、ゆ…にちゃ…ダメ、そ、なの、…こたえ…ちゃ…あっぁうぅ…!…っ!」
最後の言葉は声にならずただ喉から息だけがこぼれた。
悠司の目にはモグモグ動いているようにしか見えない薫の口が確かに「ダメ!」と言っているのが見えた。
「薫!かおる…」
悠司は薫を呼び続けながら俯いた。
ここで花凜の言うこと聞けば薫は助かる。けれど、あんな姿にされても自分のことより悠司を優先しようとする薫が、悠司の選択にどれほど苦しむかわかってしまう。
薫の言葉と姿に礼真は顔を歪めて、マキシに訴える。
「クソ!どうにか!ならないのかよ!マキシ!」
「さっきから解析してるけど、ロップイヤーちゃんの魂が薫ちゃんの魂を包み込んでて、薫ちゃんの魂がはっきりとらえられない」
珍しくマキシの顔が険しくなっている。
「なにか、薫ちゃんの魂だけが激しく反応するようなことがあれば、俺の力でロップイヤーちゃんを引き剥がせるんだけど」
「薫くんの魂だけ」
二人の会話に気付いた悠司は、少し振り向いた。
マキシと礼真がなんとか薫を救おうとしてくれている。
自分があきらめてどうすると、悠司はマキシの言葉から、薫の魂が少しでも反応してくれればと、花凜は無視して薫に声を掛け続けた。
まだ片方だけ残っている薫の目はしっかりと悠司を捉えて、光を失ってはいない。
「あっ」
礼真が声をあげた。何か思いついたらしい。
「なに?」
「いや、あの、ちょっと思いついたんだけどさ、いや、マジでこんなんベタすぎて、言いたくないんだけどさ、笑わない?」
礼真が珍しく歯切れ悪く上目でマキシを見る。
「笑わない、笑わない!なに?」
「あのさ、薫くんて、悠司先生のこと好きだろ?かなり。」
自分の名前が出た、そのあとに続いた言葉に悠司はバッと振り向いた。
「だからさ、悠司先生がさ、薫くんに、キスとかしたら…どうか…なと」
言いながら礼真は自分の言葉に恥ずかしくなったらしく赤面して俯いた。
「あのさーレイマさーさすがにさー俺でもそれは言えないわー」
「だから!言いたくないっていっただろ!」
「キスすればいいんだな!」
二人が言い合っているところに、悠司が叫んだ。
悠司の足の金縛りも当然マキシが解いていたが、足が動くようになったということにも気付いていない悠司は薫へ向かって駆け出していた。
「え!?」
「ま?」
「いや、悠司先生!その、そうかもって話で!」
「聞いてないわ、あれ」
礼真が呼びかけたときには悠司はモサモサになっている薫の頬をしっかり両手に挟むようにして、モグモグしているその口に、自分の唇を重ねてきた。
唇にも、口の回りにも、毛があたる。
抱き寄せようとして首に腕を回すと、垂れた耳が触れた。
しっかり唇を重ねようすると、上唇に伸びた前歯があたって痛い。
けれどそんなことは関係なかった。
姿なんか関係ない。
悠司はただ薫に、薫の魂に口づけていた。
「ちょっ!悠ニャン!誓いのキスは花凜ニャンとするのよー!」
「黙れ、ハマチ!邪魔するな!」
きぃーと声を上げた花凜の前に礼真が立ちはだかる。
鋭い礼真の視線とその体を守るよう覆う強い霊力に花凜は無意識に後ずさった。
「んっんん!」
口を塞がれたかたちになっている薫が息苦しさをうったえる。
その声に悠司はキスの距離のままで、薫を見つめた。
目が合う。
その瞳は、薫の色になっていて、驚いているらしくまん丸になっている。
紛れもなく悠司の知る薫の目だった。
「来た!」
ずっと薫を見つめていたマキシが声を上げた。
マキシはぐっと表情を引き締める。緑色の目が、別の空間を見ているように深くなる。
「レイマ!」
マキシの声に礼真は身構えた。
薫の体から剥がされて、マキシの霊力に絡め取られ、引き抜かれたウサギの霊が空中に放りだされる。
礼真はたっと床を蹴ると、軽々と薫と悠司の頭上を跳び越え、空中でウサギをキャッチして、そのままトンと床に着地した。
礼真の腕の中でウサギはフルフルと震えていた。
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫だからな」
礼真はそっと柔らかくウサギを抱いて、ゆっくりと頭から背中を撫でた。
ウサギは震えながらじっと礼真を見つめていたが、頭を礼真の腹にぐりぐりと押しつけた。
礼真が、頭から垂れた耳をなでやると、ウサギは目を閉じた。
「また、なつかれたー」
礼真の横に来たマキシがコツンとその肩に自分の肩をあてた。
「うるせぇな、それより薫くんは?」
「そうだった。悠ニャン、薫ちゃん支えて、拘束とくから!」
マキシは霊力を動かして磔にされていた薫の拘束を解く。
ぐらっと崩れ落ちる薫の体を悠司がしっかり受け止めたことを、見届けてマキシは花凜に向きなおった。
「薫ちゃんは悠ニャンに任せて、俺らはこっち」
「薫!」
ぐらっと沈み込む薫を抱きとめて、悠司は床に寝かしつけた。
「ゆ…にい…ちゃ」
顔に生えていた毛も、垂れた耳も、伸びた歯も消えている。
「薫」
戻った。そのことを確かめるように、悠司は薫の頬をなで、垂れ耳があった場所に触れ、ウサギの手に変形していた手を握った。
悠司の手と変わらないしっかりと男の手。それがたまらなく愛おしい。
悠司はその手を持ち上げて、その手の甲にそっと唇をあてた。
「悠兄ちゃん?!」
薫は『わっ』と声を上げて体を起こしたが、ぐるっと目が回ってしまう。
ぐらっと揺れた薫の肩を抱いた悠司が、薫の頭を自分の胸のあたりに寄りかからせる。
「薫、本当にお前…無理ばっかりして。本当に…もう…今は本当にお姫さまになっててくれ。無理すんな」
悠司は泣きそうな声で言って、薫の頭に顔を埋めるようにした。
その距離の近さに薫はドキドキドキしながら、
「あの、悠兄ちゃん、そのさ、もしかして俺にキスした?あっさっきの手じゃなくて…」
ウサギになりかけていた間のことは、意識が朦朧としていてよく覚えていないが、口に残っている感触と、悠司がずっと呼んでくれたことだけなんとなく記憶が残っていた。
「したよ、ここに」
悠司は言うとちょんと、薫の唇をつついた。薫の頬が赤くなる。
「ごめん、嫌だったよな。薫の魂を目ざめさせるため仕方なかったんだ、ごめんな」
「え?嫌じゃないよ!本当に」
嬉しい…そんな言葉を続けそうになって、薫は慌てて口をつぐんだ。
薫は心配そうに自分を見つめてくる悠司をまともに見られなくて、俯いた。
心臓の音がうるさい。
キスが嬉しいなんて…こうしてくっついていると、ドキドキして、安心できて、幸せな気持ちになる。
あっと、薫は小さく声をあげた。
当たり前のことに気付く。
俺、悠兄ちゃんのこと好きなんだ。
「薫? 顔が赤いし、身体も熱いぞ、お前、熱あるんじゃ、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
だって、目を覚ますためにキスしてもらって、目が覚めるなんてすごく、お姫さまっぽい。かわいくなる…はできなかったけど、今かなりお姫さまっぽい。
薫はこみあげてくるままに、笑みを浮かべていた。
「願い、かなったかも」
嬉しさに頭がぼーっとしたまま独り言のように呟いた薫の体から、ふぅと力が抜ける。
「薫!」
悠司の声に、心配しすぎ…と思いながら薫は意識を失っていた。
それとほぼ同時に、ドオォンという大きな太鼓のような音と、
『契約は成就した。これをもって、すべて終了とし、意志は解かれ、役目は失われ、力は力へと還る』
という、誰のものとも分からない声がその場に響いた。
「えっ?」
「ま?」
「待って、待って待ってぇ、まだなにも成就してない。花凜ニャンと悠ニャンのラブラブ怪異ライフに向けた計画なんにも進んでないニャン」
花凜が声を上げて、回りを見まわしながら、叫んだ。
「無駄みたいだね、変な力の流れも止まったし、結界もとけた。」
マキシが言うと、花凜は一瞬顔をひきつらせて、逃げようと動いたが、
「なになに、動けないニャン」
「気付くの遅すぎ、自分だけが相手の動き封じる力を持ってるとか、お気楽なこと思ってた?」
「お前…」
マキシは背負っていたバックパックからタブレットを取り出した。ただタブレットの画面をタップしているだけなのに、マキシから上がる霊力がどんどん増している。
「なにして…」
「んー?なにって、今からお前をデータ化して、取り込むんだよ。野放しにできないからさ、俺が管理してるクラウドでしばらくいてもらうことになるかな?」
「データ化?くらうど?」
「要は封印ってことだよ」
横から礼真が言った。
花凜の顔がさらに引きつる。いつものかわいいを意識した表情は完全になくなっていた。
花凜は逃げようと暴れるが、マキシの霊力に絡め取られて、じりじりと引き寄せられて行く。
タブレットの画面が底知れない漆黒に変わっている。
その闇に閉じ込められるということが、怪異の本能でわかってしまう。
強大で、1ミリも抗うこともできない力。そんな力を人間にしか見えない金髪の男が、ヘラヘラと使っていることが恐ろしい。
「イヤー誰か!助けて!」
花凜はまわりにいる怪異たちに呼びかけた。が、怪異たちはいつも通りひそひそと話しているだけだった。
「この金髪ヤロー!ー止めろ!私を誰だと思ってる!」
「ハマチニャンでしょ?」
マキシは平坦に答えて引き寄せる力を強める。
「私は!この学校に100年住まうトイレの花子ぞ!私はここにあるべき存在!」
「場所に縛れるなんて、面倒だと言っていたな」
ふいにピアノの音に混じって声がした。
「音楽室のピアノ?助けて!」
花凜は叫びながら、必死で回りを見まわした。
赤い紙青い紙と十三怪異の姿があった。
「赤い紙青い紙!ずっと同じ場所にいた仲じゃない!」
「トイレなんて言葉、かわいい私にはふさわしくないと言って捨てたじゃないか」
赤い紙青い紙が静かに言った。
その言葉に花凜が息をのんだ。
どれもすべて思い当たることばかりだった。
「100年の格を捨て、場所を捨て、銘を捨てたのはお前自身ではないか、花凜ニャンとやら」
いつの間にそこにいたのか、秋正がわずかに笑みを浮かべ穏やかに言った。
「っ…!……?え?」
秋正を見て花凜は呼びかけようとしたが、どうしても目の前の侍の名前が口からでてこない。
知っているはずなのに、一緒に長い間、学校の怪異の長とも呼べる立場にいた存在だったのに、名前が思い出せない。
「お前、名前…」
「花凜ニャンと交わした名前はない。私が名を明かし、呼ぶことを許した相手はトイレの花子だからな」
花凜ニャンの目が大きく見開かれた。
「はーい!いらっしゃーい」
マキシの声がした。
ふり向くとタブレットの闇が目の前にあった。
「ひっ!嫌っい…や」
花凜は最後にその声を残して、タブレットに引き込まれた。
「マキシ、見せて」
礼真がタブレットの画面をのぞき込んだ。
画面はいつもの幾何学模様の壁紙になっている。その中に新しいフォルダーがひとつ増えていた。
「ハマチニャン」という名前のファイル。
「マキシ、お前さーこのくらいは本人の希望尊重してやれよ」
「別に本人に見えるわけでもないし、俺がわかりやすいからいいの」
マキシらしい言葉に礼真は少し花凜に同情して、消えていく秋正に頭をさげた。
秋正も礼真に柔らかく微笑んで軽く手をあげて消えた。
「悠ニャンこっちは片付いたよー」
「薫くんは?大丈夫?」
二人は薫と悠司のそばへ行った。
「薫が」
眠っているような薫の額にマキシが触れる。
「魂の形を無理矢理変えられそうになったから体の方も消耗してるんだよ。薫ちゃん強いから、一日ゆっくり休めばすぐ良くなるよ」
「良かった」
マキシの言葉に悠司は、心底ほっとしたように息をついて、薫の頭を柔らかく撫でながら、顔を上げた。
「っ!!」
その顔から一気に血の気が引く。
「ひっ!」
ずらりと並んだいろいろな姿の怪異たちに囲まれている。
悠司の顔に気づいて、マキシも礼真も周りを見た。
「悠ニャン、大丈夫だよーみんななんもしないよ」
マキシがヘラっと言ったところで、悠司は薫を抱きしめたままスローモーションで、倒れた。
礼真がウサギを抱えたまま、悠司を支えて、薫の横に寝かせた。
「あらー悠ニャンの怪異恐怖症ってすっかり忘れてた。」
「気絶するくらい怪異が怖いのに、あの状態の薫くんに、なんのためらいもなくキスできるんだから、悠司先生は強いよ」
礼真はよしよしと労うように悠司と薫の頭を撫でた。
花凜が言うと、スライム状の十三階段は中に取り込んでいた薫を言われた場所に置いた。
自由になった薫はさっと周りを見渡した。
「っ!」
薫は視線の先に扉があるのを見て、無言でだっと駆け出した。
「あ!薫ニャン!なにしてるのー」
花凜が笑いながら言って、おいでおいでと手を動かした。
「うわ!」
見えない手のようなものに、足を掴まれてひっぱられる。
薫はそのままダンっとうつ伏せに倒れた。咄嗟に受身を取って、なんとか身体にうける衝撃は逃す。
「くっ!」
立ち上がろうとしたが、そのままずるずると花凜の方へ引っ張られる。
「なんで逃げるのぉ?花凜ニャン悲しいなー」
自分の足元まで引き寄せた薫を見下ろして、花凜はわざとらしく泣きマネをしながら、何か指示をするように手を動かす。
その手の動きに合わせるようにして、薫の体が引き上げられ、花凜の前に立たされた。
花凜はさっきの泣きマネが嘘のように、にっこり楽しそうな笑顔を薫にむける。
「俺を人質に取っても無駄だからな」
薫はキッと花凜を睨んだ。
言ってはみたが、悠司なら、薫の安全を引き換えにしたら、どんな条件も、のんでしまいそうで怖かった。
悠司は、薫じゃなくても、誰に対してもきっと体をはって守ろうとする。悠司がそんな人間だということは、薫は1番わかっていた。
自分ができることなら、平気な顔で、引き受けてしまうのだ。
そんな、悠司を自分の存在が不利な状況に追い込んでいることが、我慢できなかった。
「悠兄ちゃんになんかしてみろ、絶対に許さないからな!」
薫が叫び出したくなるのをこらえて言うと、花凜はうーんと首を傾げながら、薫の体を引っ張って、円が描かれている場所に立たせる。
薫は抵抗しようとしたが、金縛りにあっているように体を動かなかった。
「花凜ニャンも反省してるの」
ふいに花凜が言って、薫は驚いてその顔を見た。
花凜は薫の顔を見ることなく、薫の右腕を持ち上げると
「このへんかなー」
と肩からまっすぐに腕を伸ばさせた。
そうされると、なにかにくっつくように腕が固定される。
「なにして?!」
なにもない空中に縫い付けられた薫は声をあげた。
「悠ニャンも一人でこっちに来るのは寂しいよね。だからー悠ニャンが仲良しの薫ニャンが一緒なら寂しくないでしょー?」
花凜は左手も持ち上げて、右手と同じようにして、話を続ける。
「でもねー薫ニャンをこっち側にするにはちょぉーと力不足だったの、てへ」
空中に磔のようにされた薫には、花凜の言っている言葉の意味がわからない。
ただ花凜が自分になにかしようとしていることは分かる。
薫はなんとか、見えない拘束から逃れようと身をよじろうとしたが、身体はさらにぴくりとも動かなくなっていた。
花凜は睨むことしかできない薫の前に立つと、
「でもでも、安心してーちゃんと花凜ニャン考えてます!じゃーん!かわいーでしょー寂しがり屋さんのウサちゃんだよー」
半透明のウサギの耳の付け根の辺りを掴んで、ぐっと薫へ突き出した。
耳の付け根を掴まれて持たれているウサギはジタバタしている。
「このウサちゃんはねー忘れられちゃってーご飯もらえなくて、死んじゃったかわいそうな子なのーよしよし、してほしいんだってー」
花凜はさらにウサギを薫に近づけた。
薫の顔にウサギの毛のフワフワモサモサの感触が伝わってくる。
「だからねー薫ちゃん、この子がまたよしよししてもらえるように、ウサちゃんの依り代になってね」
「な?」
花凜は言うと、さらにウサギを薫に押しつけてきた。
花凜に押し込まれてウサギの体が薫の身体にめり込むように入っていく。
その光景に薫は声も出せずにいた。
「なに…した…ん?!」
言い掛けたそのとき、胸の奥の方がドクンと大きく脈うつように動いた。
「なに…なにが…」
「薫ニャンはーかわいいウサちゃん、薫ピョンになるんだよ、ほら、見てぇもう手が」
言われるままに薫は自分の手をみて息を飲んだ。
指がくっついて、手の甲には毛がはえはじめていた。
手首の中の骨がぐぐっとその位置を変える。
「うっあぁー!あっあ!」
激しい痛みが走って声を上げた。
胸の奥のさっき脈打ったあたりが、さらにドクドクしている。それが、無理やりに引っ張られて、伸ばされる。粘土遊びをしているようにこね回されている。
「ぐ…ぇ…ぅ…あぁ」
そこから感じる痛みは、痛みだけではなく、ジェットコースターに乗ったとき、内臓がふっと持ち上げられるようなあの気持ち悪さを、もっと激しくしたもので、薫は込み上げてくる吐き気に体を震わせた。
「だんだん、かわいくなってきたねーお耳も長くなってきた」
朦朧としてくる意識の中で花凜の言葉はほとんど薫には届いていなかった。
花凜が変化していく薫を満足そうに眺めていると、バンっと大きな音が志延館に響いた。
「薫!」
「薫くん!」
志延館の扉を蹴破る勢いで、悠司、レイマ、マキシが駆け込んできた。
そのまま、三人は薫と花凜がいるところまで来ようとしたが、その2メートルほど手前で、なにかに阻まれた。
そこから、足が動かない。
「なんだっ、これ」
悠司が何度も足を動かそうとするが、足が床に張り付いたように動かない。
「あっ悠ニャン、やっぱり花凜ニャンのところに来てくれたんだー。でもでも、ちょっと早すぎぃ。せっかくサプライズプレゼント用意していたのに、ごめんニャンまだ完成してないのー」
と、言いながら薫の前から、動いた。
「薫!」
「薫く…」
その姿に息を飲むしかなかった。
薫の顔は半分ほどまでモサモサとした毛に覆われて、鼻先の下から、柔らかな毛で覆われた口元が左右にぷっくりと膨らんでいる。
「あっ…ぁぅ…」
その間も薫は苦痛の声を上げ続けている。
「お前っ薫になにしてるんだっすぐに止めろ。お前の目的は俺だろう!」
悠司が叫んだ。
「あのね、花凜ニャンはね、悠ニャンに花凜ニャンと同じ学校の怪異になってもらいたいの。すごく頑張って準備したんだよ。みんなの願い集めて、この場所に溜まった力も動かして」
花凜は褒めてというようにキラキラした目を悠司に向けてくる。その間にも薫から耳を塞ぎたくなるほどの苦痛の声が上がっている。
「そんなこと聞いてない!薫をっ薫!」
悠司はさらに叫んだ。悲痛な悠司の叫びは花凜にはまったく響いていない。勝手な言葉だけが続く。
「でも、悠ニャンも一人で怪異になってこっちにくるのちょっと寂しいでしょ。だから、悠ニャンと仲良しの薫ニャンに怪異になってもらったら、悠ニャンも大丈夫でしょ?花凜ニャンと悠ニャン、二人でぇ薫ピョンを可愛がりながら、永遠にここで暮らそうねー」
にっこり笑った花凜は胸の前で両手を組んで、ねっ、と首を横に曲げた。
「なに言って…すぐに止めろっ!薫が苦しんでるっ薫!」
花凜には怒鳴りながら、悠司が名前を呼ぶと、薫の目だけが動いた。
毛で覆われかけた顔の中で、目だけは人間のもので、少し色素の薄いそれは薫の目だとすぐにわかった。
顔を見たらいつもしっかり視線が合う薫の目。
苦痛の声を上げながらも、悠司が見れば薫は目を合わせる。
「薫…」
「…ちょっとかわいい…ロップイヤーちゃん」
薫をじっと見ていたマキシがポツリと呟いた。
「ロップイヤー?」
激しい目で花凜と薫を睨んでいたレイマは聞きなれない単語にふっとマキシを見た。
「そう、ほら薫ちゃん、お耳垂れてるでしょーあれね、ロップイヤーっていう種類なんだよーかわいいよね」
緊迫感ゼロのマキシに、
「っ今、ウサギの種類言ってる場合かっ!マキシ、お前ぇ」
動けないのはわかっていたが、礼真は勢いでマキシに詰め寄ろうとした。
そのとき、固まっていたはずの足が少し動いて、礼真は、はっとマキシを見返した。
マキシがほんの少しだけ首を横に振った。そのまま動くなという指示だ。
礼真が何気ない素振りで、足元を見ると、水がその場にまかれている。マキシが後ろ手に、空になった水のペットボトルを持っていた。
マキシは水を介して自分の霊力を広げる。
花凜の気が薫と悠司に反れている間に、自分たちにかけられていた金縛りのようなものを解除していたのだ。
マキシと礼真はさっと視線を交わしてから、花凜、悠司、薫をじっと見つめた。
まだ、動けない。じりじりしている礼真をマキシはもう一度、制した。
そんな二人にまったく気付いていない花凜と悠司のやりとりは続いていた。
止めろを繰り返す悠司に、花凜が「えー」と声を上げながら少し考え込むと、ゆっくり悠司に近づいてきた。
「そんなに言うならー、悠ニャンの口から言って欲しいニャン。学校の怪異になって、花凜ニャンと永遠に一緒にいたい。薫ピョンはいりませんって。そしたら、やめてあ、げ、る」
花凜はちょっと首を傾げながら、悠司の目の前まできて、うふっと笑う。
悠司はうっと息をつめた。
自分が怪異になる?
あの恐ろしいものに自分が?
ぞわっとした嫌悪感と恐怖が全身に走る。
それよりも、薫をいらないと言う?
足が震えた。
悠司は薫を見た。
片側の目が真っ黒のガラス玉のようになっている。
口から伸びた前歯がのぞき、磔にされている腕はすでに関節がウサギのそれになっていた。
「うぅあ…ぁ、ゆ…にちゃ」
呻きながら薫が言った。発声器官のないウサギに変わりつつある薫が必死で喉の奥から言葉を絞り出している。
「ダメ…、ゆ…にちゃ…ダメ、そ、なの、…こたえ…ちゃ…あっぁうぅ…!…っ!」
最後の言葉は声にならずただ喉から息だけがこぼれた。
悠司の目にはモグモグ動いているようにしか見えない薫の口が確かに「ダメ!」と言っているのが見えた。
「薫!かおる…」
悠司は薫を呼び続けながら俯いた。
ここで花凜の言うこと聞けば薫は助かる。けれど、あんな姿にされても自分のことより悠司を優先しようとする薫が、悠司の選択にどれほど苦しむかわかってしまう。
薫の言葉と姿に礼真は顔を歪めて、マキシに訴える。
「クソ!どうにか!ならないのかよ!マキシ!」
「さっきから解析してるけど、ロップイヤーちゃんの魂が薫ちゃんの魂を包み込んでて、薫ちゃんの魂がはっきりとらえられない」
珍しくマキシの顔が険しくなっている。
「なにか、薫ちゃんの魂だけが激しく反応するようなことがあれば、俺の力でロップイヤーちゃんを引き剥がせるんだけど」
「薫くんの魂だけ」
二人の会話に気付いた悠司は、少し振り向いた。
マキシと礼真がなんとか薫を救おうとしてくれている。
自分があきらめてどうすると、悠司はマキシの言葉から、薫の魂が少しでも反応してくれればと、花凜は無視して薫に声を掛け続けた。
まだ片方だけ残っている薫の目はしっかりと悠司を捉えて、光を失ってはいない。
「あっ」
礼真が声をあげた。何か思いついたらしい。
「なに?」
「いや、あの、ちょっと思いついたんだけどさ、いや、マジでこんなんベタすぎて、言いたくないんだけどさ、笑わない?」
礼真が珍しく歯切れ悪く上目でマキシを見る。
「笑わない、笑わない!なに?」
「あのさ、薫くんて、悠司先生のこと好きだろ?かなり。」
自分の名前が出た、そのあとに続いた言葉に悠司はバッと振り向いた。
「だからさ、悠司先生がさ、薫くんに、キスとかしたら…どうか…なと」
言いながら礼真は自分の言葉に恥ずかしくなったらしく赤面して俯いた。
「あのさーレイマさーさすがにさー俺でもそれは言えないわー」
「だから!言いたくないっていっただろ!」
「キスすればいいんだな!」
二人が言い合っているところに、悠司が叫んだ。
悠司の足の金縛りも当然マキシが解いていたが、足が動くようになったということにも気付いていない悠司は薫へ向かって駆け出していた。
「え!?」
「ま?」
「いや、悠司先生!その、そうかもって話で!」
「聞いてないわ、あれ」
礼真が呼びかけたときには悠司はモサモサになっている薫の頬をしっかり両手に挟むようにして、モグモグしているその口に、自分の唇を重ねてきた。
唇にも、口の回りにも、毛があたる。
抱き寄せようとして首に腕を回すと、垂れた耳が触れた。
しっかり唇を重ねようすると、上唇に伸びた前歯があたって痛い。
けれどそんなことは関係なかった。
姿なんか関係ない。
悠司はただ薫に、薫の魂に口づけていた。
「ちょっ!悠ニャン!誓いのキスは花凜ニャンとするのよー!」
「黙れ、ハマチ!邪魔するな!」
きぃーと声を上げた花凜の前に礼真が立ちはだかる。
鋭い礼真の視線とその体を守るよう覆う強い霊力に花凜は無意識に後ずさった。
「んっんん!」
口を塞がれたかたちになっている薫が息苦しさをうったえる。
その声に悠司はキスの距離のままで、薫を見つめた。
目が合う。
その瞳は、薫の色になっていて、驚いているらしくまん丸になっている。
紛れもなく悠司の知る薫の目だった。
「来た!」
ずっと薫を見つめていたマキシが声を上げた。
マキシはぐっと表情を引き締める。緑色の目が、別の空間を見ているように深くなる。
「レイマ!」
マキシの声に礼真は身構えた。
薫の体から剥がされて、マキシの霊力に絡め取られ、引き抜かれたウサギの霊が空中に放りだされる。
礼真はたっと床を蹴ると、軽々と薫と悠司の頭上を跳び越え、空中でウサギをキャッチして、そのままトンと床に着地した。
礼真の腕の中でウサギはフルフルと震えていた。
「よしよし、怖かったな。もう大丈夫だからな」
礼真はそっと柔らかくウサギを抱いて、ゆっくりと頭から背中を撫でた。
ウサギは震えながらじっと礼真を見つめていたが、頭を礼真の腹にぐりぐりと押しつけた。
礼真が、頭から垂れた耳をなでやると、ウサギは目を閉じた。
「また、なつかれたー」
礼真の横に来たマキシがコツンとその肩に自分の肩をあてた。
「うるせぇな、それより薫くんは?」
「そうだった。悠ニャン、薫ちゃん支えて、拘束とくから!」
マキシは霊力を動かして磔にされていた薫の拘束を解く。
ぐらっと崩れ落ちる薫の体を悠司がしっかり受け止めたことを、見届けてマキシは花凜に向きなおった。
「薫ちゃんは悠ニャンに任せて、俺らはこっち」
「薫!」
ぐらっと沈み込む薫を抱きとめて、悠司は床に寝かしつけた。
「ゆ…にい…ちゃ」
顔に生えていた毛も、垂れた耳も、伸びた歯も消えている。
「薫」
戻った。そのことを確かめるように、悠司は薫の頬をなで、垂れ耳があった場所に触れ、ウサギの手に変形していた手を握った。
悠司の手と変わらないしっかりと男の手。それがたまらなく愛おしい。
悠司はその手を持ち上げて、その手の甲にそっと唇をあてた。
「悠兄ちゃん?!」
薫は『わっ』と声を上げて体を起こしたが、ぐるっと目が回ってしまう。
ぐらっと揺れた薫の肩を抱いた悠司が、薫の頭を自分の胸のあたりに寄りかからせる。
「薫、本当にお前…無理ばっかりして。本当に…もう…今は本当にお姫さまになっててくれ。無理すんな」
悠司は泣きそうな声で言って、薫の頭に顔を埋めるようにした。
その距離の近さに薫はドキドキドキしながら、
「あの、悠兄ちゃん、そのさ、もしかして俺にキスした?あっさっきの手じゃなくて…」
ウサギになりかけていた間のことは、意識が朦朧としていてよく覚えていないが、口に残っている感触と、悠司がずっと呼んでくれたことだけなんとなく記憶が残っていた。
「したよ、ここに」
悠司は言うとちょんと、薫の唇をつついた。薫の頬が赤くなる。
「ごめん、嫌だったよな。薫の魂を目ざめさせるため仕方なかったんだ、ごめんな」
「え?嫌じゃないよ!本当に」
嬉しい…そんな言葉を続けそうになって、薫は慌てて口をつぐんだ。
薫は心配そうに自分を見つめてくる悠司をまともに見られなくて、俯いた。
心臓の音がうるさい。
キスが嬉しいなんて…こうしてくっついていると、ドキドキして、安心できて、幸せな気持ちになる。
あっと、薫は小さく声をあげた。
当たり前のことに気付く。
俺、悠兄ちゃんのこと好きなんだ。
「薫? 顔が赤いし、身体も熱いぞ、お前、熱あるんじゃ、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
だって、目を覚ますためにキスしてもらって、目が覚めるなんてすごく、お姫さまっぽい。かわいくなる…はできなかったけど、今かなりお姫さまっぽい。
薫はこみあげてくるままに、笑みを浮かべていた。
「願い、かなったかも」
嬉しさに頭がぼーっとしたまま独り言のように呟いた薫の体から、ふぅと力が抜ける。
「薫!」
悠司の声に、心配しすぎ…と思いながら薫は意識を失っていた。
それとほぼ同時に、ドオォンという大きな太鼓のような音と、
『契約は成就した。これをもって、すべて終了とし、意志は解かれ、役目は失われ、力は力へと還る』
という、誰のものとも分からない声がその場に響いた。
「えっ?」
「ま?」
「待って、待って待ってぇ、まだなにも成就してない。花凜ニャンと悠ニャンのラブラブ怪異ライフに向けた計画なんにも進んでないニャン」
花凜が声を上げて、回りを見まわしながら、叫んだ。
「無駄みたいだね、変な力の流れも止まったし、結界もとけた。」
マキシが言うと、花凜は一瞬顔をひきつらせて、逃げようと動いたが、
「なになに、動けないニャン」
「気付くの遅すぎ、自分だけが相手の動き封じる力を持ってるとか、お気楽なこと思ってた?」
「お前…」
マキシは背負っていたバックパックからタブレットを取り出した。ただタブレットの画面をタップしているだけなのに、マキシから上がる霊力がどんどん増している。
「なにして…」
「んー?なにって、今からお前をデータ化して、取り込むんだよ。野放しにできないからさ、俺が管理してるクラウドでしばらくいてもらうことになるかな?」
「データ化?くらうど?」
「要は封印ってことだよ」
横から礼真が言った。
花凜の顔がさらに引きつる。いつものかわいいを意識した表情は完全になくなっていた。
花凜は逃げようと暴れるが、マキシの霊力に絡め取られて、じりじりと引き寄せられて行く。
タブレットの画面が底知れない漆黒に変わっている。
その闇に閉じ込められるということが、怪異の本能でわかってしまう。
強大で、1ミリも抗うこともできない力。そんな力を人間にしか見えない金髪の男が、ヘラヘラと使っていることが恐ろしい。
「イヤー誰か!助けて!」
花凜はまわりにいる怪異たちに呼びかけた。が、怪異たちはいつも通りひそひそと話しているだけだった。
「この金髪ヤロー!ー止めろ!私を誰だと思ってる!」
「ハマチニャンでしょ?」
マキシは平坦に答えて引き寄せる力を強める。
「私は!この学校に100年住まうトイレの花子ぞ!私はここにあるべき存在!」
「場所に縛れるなんて、面倒だと言っていたな」
ふいにピアノの音に混じって声がした。
「音楽室のピアノ?助けて!」
花凜は叫びながら、必死で回りを見まわした。
赤い紙青い紙と十三怪異の姿があった。
「赤い紙青い紙!ずっと同じ場所にいた仲じゃない!」
「トイレなんて言葉、かわいい私にはふさわしくないと言って捨てたじゃないか」
赤い紙青い紙が静かに言った。
その言葉に花凜が息をのんだ。
どれもすべて思い当たることばかりだった。
「100年の格を捨て、場所を捨て、銘を捨てたのはお前自身ではないか、花凜ニャンとやら」
いつの間にそこにいたのか、秋正がわずかに笑みを浮かべ穏やかに言った。
「っ…!……?え?」
秋正を見て花凜は呼びかけようとしたが、どうしても目の前の侍の名前が口からでてこない。
知っているはずなのに、一緒に長い間、学校の怪異の長とも呼べる立場にいた存在だったのに、名前が思い出せない。
「お前、名前…」
「花凜ニャンと交わした名前はない。私が名を明かし、呼ぶことを許した相手はトイレの花子だからな」
花凜ニャンの目が大きく見開かれた。
「はーい!いらっしゃーい」
マキシの声がした。
ふり向くとタブレットの闇が目の前にあった。
「ひっ!嫌っい…や」
花凜は最後にその声を残して、タブレットに引き込まれた。
「マキシ、見せて」
礼真がタブレットの画面をのぞき込んだ。
画面はいつもの幾何学模様の壁紙になっている。その中に新しいフォルダーがひとつ増えていた。
「ハマチニャン」という名前のファイル。
「マキシ、お前さーこのくらいは本人の希望尊重してやれよ」
「別に本人に見えるわけでもないし、俺がわかりやすいからいいの」
マキシらしい言葉に礼真は少し花凜に同情して、消えていく秋正に頭をさげた。
秋正も礼真に柔らかく微笑んで軽く手をあげて消えた。
「悠ニャンこっちは片付いたよー」
「薫くんは?大丈夫?」
二人は薫と悠司のそばへ行った。
「薫が」
眠っているような薫の額にマキシが触れる。
「魂の形を無理矢理変えられそうになったから体の方も消耗してるんだよ。薫ちゃん強いから、一日ゆっくり休めばすぐ良くなるよ」
「良かった」
マキシの言葉に悠司は、心底ほっとしたように息をついて、薫の頭を柔らかく撫でながら、顔を上げた。
「っ!!」
その顔から一気に血の気が引く。
「ひっ!」
ずらりと並んだいろいろな姿の怪異たちに囲まれている。
悠司の顔に気づいて、マキシも礼真も周りを見た。
「悠ニャン、大丈夫だよーみんななんもしないよ」
マキシがヘラっと言ったところで、悠司は薫を抱きしめたままスローモーションで、倒れた。
礼真がウサギを抱えたまま、悠司を支えて、薫の横に寝かせた。
「あらー悠ニャンの怪異恐怖症ってすっかり忘れてた。」
「気絶するくらい怪異が怖いのに、あの状態の薫くんに、なんのためらいもなくキスできるんだから、悠司先生は強いよ」
礼真はよしよしと労うように悠司と薫の頭を撫でた。



