Not only かわいい but also…

チャイムが鳴って悠司はすっと一度深呼吸して、教室に入った。
 教室の後ろには、担当の山方や校長、学年主任など今日の悠司の授業を評価する面々が並んでいる。
 悠司は昨日、薫と作った模造紙の束を教壇に置いて、教室を見渡した。
「今日は、裁判員制度について考えていきます」
黒板にテーマを示す模造紙を貼る。裏にマグネットシールをつけているので、ペタと張り付く。
 『裁判員制度について考えよう』を指す。
「裁判員制度について考える前に、刑事裁判がどういうものなのか、簡単に確認していきます。」
悠司は次の模造紙を黒板に貼った。
『刑事裁判
犯罪をしたと疑われている人について
① 有罪か、無罪か
② 有罪の場合、どのような刑罰にするか
を判断する裁判』
 生徒たちがノートを取る音がする。
 悠司は少し待つことにして、生徒を見渡した。
 書き終わったらしい生徒たちが顔を上げていく中で、薫と目が合う。
 薫は、悠司と目が合うとにこっと小さく笑った。自然な、見慣れた薫の笑顔に少しだけ、悠司の緊張がとけた。
 悠司は続ける。
「たとえば、ある人が強盗をした疑いで逮捕されたとします。でも、逮捕されたからといって、その人が強盗をしたと決まるわけじゃないんです」
ここで一度、教室を見渡す。生徒全員が悠司に集中している。
「警察などが捜査をして、検察官が裁判にかける必要があると判断すると、その人を裁判所に起訴します。起訴されて、刑事裁判を受ける人を何と呼ぶか知っていますか?」
 誰が言っているか分からないが、生徒の中からあちこちで、
「犯人?」
「被告人」
という言葉が控え目に上がる。
 それを聞いた悠司は大きなうなずいて、
「そう、今、誰か言ってくれたね。被告人です。ドラマやニュースなんかで『被告』って言葉を聞いたことがある人もいるかな。刑事裁判では、裁判にかけられた人のことを『被告人』といいます」
二枚目の模造紙を貼る。
 『刑事裁判にかかわる人
検察官  被告人・弁護人  裁判官』
 また、カリカリとノートを取る音がする中、
「検察官は、被告人が犯罪を行ったと考える根拠を、証拠などを使って示します」
悠司は検察官のところを指す。ひと呼吸置いて、
「弁護人は被告人の権利を守る立場です。検察官の主張や証拠を検討して、必要があれば反論します」
『被告人・弁護人』のところを指した。続いて裁判官を指す。
「裁判官は、検察官と弁護人、それぞれの主張を聞きます。そして証拠や証言などを調べて、被告人が有罪なのか無罪なのかを判断します。有罪なら、どのような刑罰を科すのかも判断します」
ここで悠司は、少し間を置いた。
「じゃあ、一つ質問です」
悠司は教室を見回した。
「逮捕されて、検察官に起訴されて、裁判まで受けることになった人がいる。皆さんは、この人が犯罪をやっていると思いますか?やっていると思う人?」
悠司が言うと、生徒の3分の2が手を上げた。
 手を上げていない薫と目が合う。周囲を気にする生徒たちとは違い、薫はまっすぐ悠司を見ていた。自分の意見は決まっているのだろう。
「ですよね、そう思う人もいると思います。でも、刑事裁判では、そこをいったん切り離して考えます」
次の少し小さい模造紙を貼る。昨日、薫に手伝ってもらって、しっかり順番を揃えたことが、効いている。
『無罪推定の原則
有罪と認められるまでは、無罪として扱う』
「これを、無罪推定の原則といいます」
大事な言葉だと思ったのだろう。カリカリとノートを取る音と、ペンケースを探っている音もする。
 悠司は少し待って、
「『逮捕されたから』『起訴されたから』『なんとなく怪しいから』という理由だけで、有罪にすることはできないんです」
 そこで最初の模造紙をもう一度示す。
「だから刑事裁判では、証拠や証言などを調べて、本当にこの人が犯罪をしたと認められるのかを判断する必要があります。ここまでは大丈夫?」
生徒の様子を確認する。
 特定の生徒ばかり気にするのは良くないと分かっているが、ここでもつい薫に目が行ってしまう。
 見ると、また目が合って、薫は悠司の「大丈夫?」に答えようとしているのか、頷いてくれている。
 よし、ここまでオッケー!と内心で思いながら、
「じゃあ、ここからが今日の本題です。今、説明した裁判では、こうした判断を裁判官が行います」
と、裁判官の文字を指さしてから、生徒たちの方へ向き直る。
「この『人を有罪か無罪か判断する』ところに、皆さんのような一般の人が参加するというのが裁判員制度です」
悠司は次の模造紙を黒板に貼る。
『裁判員制度
一般の人が裁判員として刑事裁判に参加し、裁判官と一緒に
・被告人が有罪か無罪か
・有罪の場合、どのような刑にするか
を判断する制度』
「裁判員は、法律の専門家ではありません。では、どういう人が裁判員になると思いますか?」
悠司が問いかけると、生徒たちから、
「立候補?」
「抽選?」
「法律に詳しい人?」
いくつか声が上がる。
「今、抽選って言ってくれた人がいましたね。裁判員は、衆議院議員の選挙権を持つ人の中から、くじで選ばれます。法律の資格を持っている人だけが選ばれるわけじゃないんです。」
 悠司はここで、すこし少し間を取ってから、
「つまり、皆さんも将来、裁判員に選ばれる可能性がある」
と、生徒たちを見渡しながらニヤッとしてみせた。
 ざわざわ、と教室が少しだけ動く。
「嫌だー」
「マジかー」
そんな声が聞こえてくる。
「嫌だって声が聞こえたぞ。けど、そう思う人もいるよね」
 少し冗談めかして言って、続いて、別の模造紙を貼る。
『裁判員裁判の対象
殺人、強盗致死傷などの重大な刑事事件』
「すべての刑事裁判に裁判員が参加するわけではないです。裁判員裁判の対象になるのは、殺人や強盗致死傷などの重大な刑事事件です」
 殺人、強盗致死傷の言葉に少しざわつく。悠司はそれがおさまるのを待って、
「裁判員は、裁判官と一緒に裁判に参加して、法廷で示された証拠や証言などをもとに話し合います。そのうえで、有罪か無罪か、有罪ならどのような刑にするのかを判断します」
そこで説明を切った。
「ここまで聞いて、どうかな?もし自分が裁判員に選ばれたら、参加したいと思いますか?」
悠司は今日のメインイベントになる模造紙を貼った。
『グループで考えよう。
① 自分が裁判員に選ばれたら、参加したい? 参加したくない? その理由は?
② 一般の人が裁判に参加することには、どんな良い点がある?
③ 反対に、どんな問題や不安がある?』
「今から班を作って、グループで、この3つについて話し合ってください。まずは、自分だったら参加したいか、参加したくないか。一般の人が裁判に参加することの良いところと、逆に問題になりそうなところや不安に思うところも考えてみてください」
悠司は生徒たちに、説明したグループ討議の内容が書かれたプリントを配る。
「グループで一つの意見にまとめなくてもいいよ。意見が違っても大丈夫です。どうして意見が違ったのかも話してみてください」
悠司は時計を確認する。ここまで予定通りだ。
「では、10分間。始めてください」
 一瞬静かだった教室が、机を動かす音とともにざわざわと動き始めた。
 悠司は教壇からその様子を見る。
 薫は、礼真と何か話しながら机をくっつけている。机を動かしているだけなのに、楽しそうだ。
 一回目、二回目の授業では、こんな時間もなく、悠司は一方的に話していた。
 双方向の授業。今日の目標だ。
 机を移動させた生徒たちは、プリントを見ながら話して始める。自分が黙っていても、授業はしっかり生徒たちによって進んでいる。
 悠司は教壇を離れ、グループの間を回り始めた。
 近くの班では、さっそく意見が割れていた。
「俺、絶対やりたくない。責任感じる」
「でも、裁判官だけで決めるより、普通の人もいたほうがよくない?」
「法律知らないのに人を裁くほうが怖くない?」
悠司は足を止めた。
「今、法律を知らないのに判断するのが怖いって意見が出たね。ほかの人はどう思う?」
「俺も怖いかも。間違えたらどうするんだろうって」
「けど、わざわざ一般の人を入れようって制度作ったんだから、そういう人が必要ってことがあったんじゃないのかな?」
うーんと考え始めた生徒たちに、
「専門家じゃない人が参加することで、どんな良いことがあると思う?」
と悠司が声をかけると、生徒たちは再び話し始めた。
 悠司は答えを言わず、その班を離れた。
 別の班では、参加したくないという意見が多いようだった。
「仕事とか学校とか休まないといけないんですよね?」
「事件の写真とか見るのかな?」
「殺人事件とかだったら怖いよね」
悠司が近づくと、一人の生徒が聞いてくる。
「先生、裁判員って断れないんですか?」
『仕事とか休まないといけないのか』と言っていた生徒だ。
「選ばれたら必ず参加しなければならない、というわけではないよ。一定の事情があれば辞退が認められる場合がある。けど、基本的には参加してくださいってなるね」
悠司が答えると、
「事情って…面倒だからっていうのは?」
なおも生徒は質問してくる。どうやったら参加しないで済むか考えているらしい。
「それだけでは難しいかな」
悠司が少し苦笑して言うと、
「お前それ一定の事情にならないだろ」
「面倒はないわ。せめて体調悪いとかにしろよ」
面倒と言った生徒に一斉に笑いながら、つっこみが入っている。言った生徒も笑っている。
「けど、面倒っていうのも理由にはあるよな。そういうことも大事な意見だからね」
プリントに書いておいてね、と付け加えて、悠司は次の班へ向かった。
 いくつかの班を回ってから、薫と礼真のいるグループに近づく。
「俺は参加してみたい」
薫の声が聞こえた。
「九条くんはそう言うと思った。でも、なんで怖くない?」
同じ班の女子が尋ねる。
「めったにない機会だから。好奇心っていうか。だってさ裁判官になるって難しい試験に合格しないとなれないんだよ。それが普通の人でも体験できるんだから、すごくない?やってみたくない?」
薫は目を輝かせて周りに同意を求めている。ちょっと子供っぽい、かわいい…悠司はクスクスしながら、薫を眺めていた。
「こういうテンションの人が裁くっていうのが俺は怖い」
そこへ礼真が低めに言って、薫を指さすと、班の全員がぷっと吹き出した。悠司も思わず笑いそうになったがそこは堪えた。
「礼真くんひどい。けど、選ばれたらちゃんと考えるし、真面目にやるに決まってるだろ」
「薫くんはそうだろうけどね」
「そういう礼真くんはどうなんだよ」
話を振られた礼真は、少し考えてから答える。
「俺は…やりたくはないかな」
「理由は?やっぱり怖い?」
「怖いのは怖いだろ。人の人生に関わることだから。俺の一言で無罪とか有罪に影響でるのは怖い」
「じゃあ、選ばれたら断る?」
「いや、それはやると思う」
「やりたくないのに?」
「っていうかさ、やりたくないけど、やらないといけないことってけっこうあるよ。やるってなったら、ちゃんとやらないと、気持ち悪いだろ」
しばらく薫と礼真のやりとりが続いて、最後の礼真の言葉を聞いて、班の生徒たちがまた意見を出し始める。
「けどやりたくないことは、やりたくないよねー」
「制度として必要で、決められたらやらないとだよね」
悠司は少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
 礼真の意見は高校生にしてはちょっと達観しているというか、冷めているようにも感じた。薫の意見は薫らしい。
 参加したいか、参加したくないか。
 最初は二つに分かれるだけだと思っていた問いから、生徒たちはそれぞれ違う考えを出している。
 悠司はグループに近づいた。
 生徒たちが悠司を見る。薫がちょっと嬉しそうだ。
「『参加したいかどうか』は①のところで、『制度として必要だと思うかどうか』は②と③のところで、話し合ってみるといいと思うよ」
今日のテーマに沿うようにちょっとだけヒントを出してみると、すぐ薫が、
「じゃあさ、参加したい人ーはーい」
と、他のメンバーに質問して、自分で手を上げている。班の生徒はそれにしたがって手を上げたり、上げなかったり。
 その後も薫が中心になって、話し合いをまわし始めた。
 よしよし、と思いながら悠司は教壇に戻った。
 時計を見る。残り一分ほど。
 教室のあちこちで、話が広がっている。
「あと一分です。プリントに話し合った内容をまとめてください」
生徒たちがプリントに書き込み始める。
 やがて十分が経った。
「はい、そこまで。机はそのままでいいよ。顔はこっちねー」
全員が前を向くのを待ってから、悠司は口を開いた。
「じゃあ、それぞれのグループでどんな意見が出たのか、聞いてみたいと思います。発表してくれる人」
悠司は教室を見渡した。
 実はこれが今日の悠司のもう一つの目標だった。自分が指名するのではなく、自主的に発表してもらうこと。
 誰とも目が合わない。ドキドキと鼓動が早くなるのが自分でもわかった。授業のプランを書いているノートをちらっと見る。
『(目標)グループ討議のあとの発表、自分から手を上げてしてもらう。誰も手を上げない場合は、1班から順に発表』
蛍光ペンマークされた文字を確認して、ゆっくりともう一度教室を見渡した。
 さっきまであんなに話していたのに、教室が嘘のように静かになる。
 悠司は待ったが誰も手を上げない。
(だよな。みんなの前で発表するの、嫌だよな。俺だって高校生のときは絶対やりたくなかった!分かる!分かるけど…)
1班から発表させても授業自体は失敗じゃない。それはわかっていても、悠司はどうしても誰かに自分から発表してもらいたかったのだ。
「はい」
静かな教室に声が響いた。
 手を上げたのは、薫だった。真っすぐに手を上げて、気負った風でもなく悠司を見て、ほんの少しだけ、にこっと悠司に笑いかけてくれる。
 かわいい…そんな言葉が頭をよぎって、悠司ははっとして、今、授業中!俺は先生!薫が発表してくれる!と、すぐに切り替えて、嬉しさが出てしまわないように、表情を引き締めて、
「かぉ…九条くん」
と、指名した。つい名前で呼びそうになったがなんとか回避した。
 薫は特に気にすることなく、ぱっと立ち上がると、
「僕たちの班は、参加したいが2人。したくないが4人でした。理由は参加したい人は、好奇心とか、めったにできない体験だから。したくない人は、怖い。時間を取られたくないからという意見でした」
聞き取りやすい声と口調で薫は続ける。
「②は、専門家じゃない人の意見が必要。知識のない人の感覚の意見が出る。③は、なにも知らない人が集まることで、意見がまとまらない。極端な意見が出るということが問題になる。という意見でした」
薫は言うと席についた。
 しっかりテーマに沿った発表で、悠司はほっとする。もう一度薫を見ると、目があって発表する前よりちょっと不安そうに悠司を見ている。
 自分が発表した内容が心配なのだろう、悠司が少し頷いてやると、薫はぱっと笑顔になった。
 悠司の反応に、わかりやすく表情を変える薫。
(わかりやす、かわい…)
思わずそう思ったが、すぐ授業へ意識を戻す。
 薫が最初に手を挙げたことで空気が変わり、別の班からも手が上がり始めた。
(よしっきた!)
悠司は手ごたえを感じながら、手を挙げている生徒を指名した。
 各班から、
「一般の人だからこその感覚が入る」
「法律を知らない人が判断するのは怖い」
「仕事や学校を休む負担がある」
「事件の証拠を見るのが怖い」
など、それぞれ違った意見が出る。
 悠司は発表された内容を拾い、黒板に書いていく。
 同じ三つの問いについて話し合ったはずなのに、班によって出てくる意見は少しずつ違う。
 自分が一方的に話しをしていたら出てこなかった生徒たちの意見。最初の二回の授業では、自分が説明するために使っていた黒板に、今日は生徒たちから出た言葉が並んでいく。
 一通り発表が終わった。
 悠司は黒板を振り返り、まとめに入る。
「じゃあ、最初に聞いたこと、覚えてる?」
生徒たちを見る。
「逮捕されて、検察官に起訴されて、裁判を受けることになった人がいる。この人は犯罪をやっていると思うかって聞いたよね」
生徒たちが思い出したような反応をする。
「最初、やっていると思うって手を挙げた人、けっこういたよな」
責める言い方はせず、続ける。
「もし自分が裁判員になったらどうかな?逮捕されてるから。起訴されてるから。なんとなく怪しいから。それだけで有罪って決めていい?」
 生徒から、
「ダメ」
「証拠見ないと」
「決められないよな」
などの声があちこちから上がる。
 悠司は黒板に貼った、『無罪推定の原則 有罪と認められるまでは、無罪として扱う』
を指さした。
「そうだよな。裁判員になったら、逮捕されたからとか、なんとなく怪しいからじゃなくて、裁判で示された証拠や話をもとに考えないといけない」
黒板に並んだ生徒たちの意見を見る。
 本当にいろんな意見が並んでいる。生徒たちが授業にしっかり参加して出てきた意見だ。
 あとでこの黒板は写真にとっておこう…と思いながら、
「今日、話してみて、参加してみたいと思った人も、やっぱり参加したくないと思った人もいると思います。どっちが正しいということじゃないです。」
悠司は生徒たちをぐるっと見まわした。みんなしっかり集中してくれている。最後の締めだと、ノートをもう一度確認する。
「ただ、皆さんも将来、裁判員に選ばれる可能性があります。そのときに初めて『知らない』『怖い』で終わるんじゃなくて、自分に何が求められるのかを知って、自分で考えてほしいと思います」
最後までしっかり言えた。まとめ終了。
(やった!)
予定していたところまで全部できた。
(終わった!)
心の中で何度も「よしっ」と言いながら、何気なく時計を見た。
(…ん?)
時計を二度見る。
 残り4分。
(4分余ったー!?)
一気に血の気が引いた。焦る。
 ばっと手元のノートを見下ろしたが、どこを見ても、ここからどうするかは書いてない。
 後ろには山方をはじめ、研究授業を見に来た先生たち。
 そっちの方へも、生徒たちの方へも顔を向けることができない。
(どうする!?4分って何する?)
焦った末、口から出たのは、
「え、えーっと…な、なにか質問ある人」
だった。
 言ってから気づく。
(いるわけない!)
 自分が生徒だったら、絶対にここで手なんか挙げない。っていうか、ここまで来たら早く授業終われとしか考えていなかった。
 教室がシンと静まっている。
 時計を見る。
 ほとんど時間が進んでいない。
 そのとき、
「はい」
薫がまっすぐ手を挙げた。
 薫が気負った風でもなく、普通に手を上げている。
(薫ーーー!)
心の中では、何度も薫の名前を連呼しつつ、そこは一切表情には出さず、
「はい、九条くん。座ったままでいいよ」
と指名した。
 立ち上がりかけていた薫は座り直すと、
「さっき班で話してるときに出たんですけど、なんにもわかってない僕たちみたいなのがいろいろ聞いたりしたら、裁判官から『なに言っちゃってるの?』ってなりませんか?」
丁寧ではあるが、自分の言葉で話していることが、薫の中から出てきた質問なんだとわかる。
 悠司を助けようとして、無理やりひねりだした質問ではないことが、なにより悠司には嬉しかった。
 ちゃんと答えないと…と悠司は少し考えてから、
「それは大丈夫」
と、薫に頷いて見せた。
「むしろ俺みたいに中途半端に詳しい方が、『なに言ってるの』になるかもしれない」
少し冗談めかして言うと、教室に少し笑いが起きた。悠司は薫から視線を教室全体に戻した。
「分からないことがあったら、分からない。知らないなら、知らないって言っていいよ。ただ、なにも言わないっていうのだけは、しないでほしいかな」
そう言ったところで、チャイムが鳴った。
「はい。それじゃあ、今日はここまで」
日直の「起立、礼」があって、授業が終わった。
 悠司はようやく息を吐く。
(終わった…今度こそ、本当に終わった…!)
 生徒たちが班の形にした机を戻している。
 ここから、少し長い中休みの時間だ。
 悠司が黒板に貼った模造紙を剥がして、簡単にまとめて教室を出ると、
「今日のはなかなかよかったよ」
山方が声をかけてきて、ポンと肩を叩かれた。
「はいっありがとうございます」
生徒として接していたときとは違って、なかなかに厳しく実習生の悠司の授業を指導していた山方から褒められて、悠司の気分はぐっと上がる。
 今更のように、高揚感に包まれて、廊下で少し放心していると、薫が廊下に出てきた。(いろいろ助けられたな)
昨日から、今日の授業中のことを思い出す。
 けれど、薫からしてみれば助けたなんて意識をしていないのは、悠司にもわかっていた。
 悠司は薫に近づくと声をかけた。
「薫」
「悠に…奥村先生」
悠兄ちゃんと言いかけて、周りを見て言い直すのが、かわいい。
 今日何回かわいいって言ってんだ俺…と自分で突っ込みを入れながら、近づいて、
「薫、行くぞ」
と、ひそひそ話の音量で言った。
「どこに?」
「売店、ヨルディ買ってやる」
悠司が言うと、薫がぱぁーっと顔を輝かせた。
「わーい!」
子供のように声を上げる薫と悠司は、連れ立って売店へ向かった。