そうね、乙華。私にはあなたがいるんだったわ……。
乙華の霊力は以前の花野にくらべたら無に等しいものだったが、それでも、零ではないことが母にとって救いとなった。
双子なのに姉の花野ばかりが重んじられて、自分の扱いは粗雑だったぶんを取りかえすように乙華は存分に母に甘えた。
大丈夫よ、おかあさま。あんな無能なおねえさまのことは忘れて? 霧灯家は私が守っていくから……そうささやきながら。
地獄に落ちたものが蜘蛛の糸にすがりつくように母親は乙華のささやきにすがりついた。"私にはあなたがいる"が"私にはあなたしかいない"に変わるまでさほど時間はかからず、やがて母は長女の花野のことを無視するようになった。まるで見えていないかのように。
母のなかで、花野は自分の娘ではなくなった。
けれど乙華の復讐はそれだけでは済まなかった。
祖母からゆずりうけた振袖。晴れの日のためにあつらえた絢爛な着物。職人から献上されたかんざしに帯留め。桜柄が愛らしい下駄。花野が大切にしてきたものを彼女はすべて奪っていった。
これは『次期当主』だったおねえさまに贈られたもの。だったら、無能になりさがったおねえさまじゃなくて私が持つべきでしょう?――そう愛らしく微笑んで。
そして彼女は花野の許嫁さえも自分のものにした。花野に手作りの花の指輪を送ってくれた彼はいつの間にか乙華とふたりででかけるようになっていて、睦《むつみ》さんからもらったわ、とある日乙華は薬指にはめた金の指輪を見せびらかしてきた。
私が大切にしてきたものはすべて乙華に奪われていく。
ものだけじゃない。おかあさまも、睦さんも……。
花野が母の寵愛をなくしたことは使用人たちにもすぐに知れわたった。
霧灯家では当主の意向がすべてである。その当主に『いないもの』扱いされたら花野も同じように扱われてもおかしくなかったが、むしろ使用人たちは彼女を憐れんで慰めてくれた。
それが乙華には気に食わなかった。
母に進言して花野に好意的な使用人たちの首を切り、新しくきた使用人たちに私はずっと姉にいじめられてきたと訴えた。事情を知らないかれらの正義感を煽り、庇護欲を刺激するように。
かわいい妹をいじめた罰として花野は女中たちに長くて艶やかな黒髪を切られ、それでも母親がなんの反応を示さないことを知ると、『罰』は日に日に過激なものとなっていった。池に落とされて時には体に熱した火箸を押しつけられる花野を見ても、使用人の男たちはげらげら笑うだけで止めようとはしなかった。
花野の心の支えは前当主の祖母だけだった。
病に倒れ、数年まえからずっと寝ついている祖母だけは花野が霊力をなくしても態度を変えなかった。
たとえ霊力がなくっともあんたはあたしの孫だ。それだけは絶対に変わらない。そう云ってしわだらけの手で花野の頬をなでてくれた。
祖母に心配はかけられない。だからたすけてと云うことはできなかったけれど、それでも、頬をなでられるとどんな痛みもかなしみもそのときだけは忘れられた。
けれど、そんな祖母も花野が十二歳のときに他界してしまう。
花野は完全にひとりぼっちになった。そして、『灯使の修行をしているとおねえさまが邪魔をしてくるの。私を妬んでいるんだわ』という乙華の根も葉もない告げ口により家の蔵に閉じこめられることとなる。
昼でも暗い闇のなかで、花野が正気を保つにはすべてをあきらめるしかなかった。
だれかに愛されること。だれかにたすけてもらうこと。幸せになること。その、すべてを。
自分はここで死んでいくのだろう。そう思いながら、女中が野良犬に餌をやるように気まぐれでよこす残飯で食いつないできたけれど。
思いがけず月岡家との縁談が舞いこんできて。
あの闇のなかから逃げだすことができた。……その、はずだったのに。
新婚なのに旦那さまに相手にされないなんてお可哀想ですねえ。まさにそうねちねちといびられた翌朝だった。
離れの寝室でひとり目覚めた花野は"彼女"の顔が見たくなって布団に体を起こした。帯留めの白猫だ。
あの笑っているような顔が見たくて衣装箱を開けた。なくさないよう昨日のうちにここにしまったから。
なのに白猫はどこにもいない。どうして、とあちこち探しまわっているとふすまが開いた。
「どうなさったのですか、花野さま」
「……いえ。なんでもありません」
着物をひっぱりだしていた手を止めて花野が答えると、「あらそうですか」とまさは云う。そうして面白そうにつづけた。
「あの猫なら逃げだしてしまったかもしれませんねえ。猫は気まぐれなものですから」
「――――」
まさには見つからないように衣装箱に入れたはずだった。思わず腰を浮かせる花野にまさはにやにやと笑いかける。
「そんなところに入れられて窮屈だったんでしょう。庭を探してみたらどうですか? 見つかるかもしれませんよ」
もちろん帯留めのことはまさには話していないし見せてもいない。けれど、それが逆に彼女の好奇心を煽る結果となったのだろう。
ふすま越しに衣装箱を開ける音を聞いていたにちがいない。そうして、花野が寝ているあいだになかをあらためた……
浴衣姿のまま花野は庭に飛びだした。霧が薄くかかって視界が悪いなか、地面に膝をついて必死に白猫を探す。
――どこ。どこに行ってしまったの?
まるで本物の飼い猫が逃げてしまったかのように花野の心は焦っていた。はやく見つけなくちゃ。はやく見つけなくちゃあの子が怖い目にあってしまう、と。
浴衣の膝が土で汚れ、指がとがった石にあたって切り傷ができる。痛《つ》、と花野は顔をしかめたがかまわなかった。必死で地面を探しつづける。
やがて、指先が陶器と思しき固いものにあたった。
「あ――」
見つけた、と花野はほっとしたがすぐに表情をこわばらせる。
かわいらしく丸まっていた白猫。
それは耳が欠け、胴体に大きくひびが入った無残な姿になっていた。
「…………」
信じられない、信じたくない気持ちで花野は猫を拾いあげる。猫は氷のようにつめたくなっていた。
呆然としていると背後から足音が聞こえてきた。「あら、そんなところにいたんですか」とまさの嘲笑う声がする。
「これで旦那さまにも示しがつきますねぇ。せっかく買ってもらったものを一日でなくしたなんて云えませんものね?」
「…………」
「どうなさったんですか、花野さま。猫は見つかったのでしょう? それともまさか――せっかく旦那さまからいただいたものを壊してしまったのですか?」
花野は黙って猫を両手でにぎりしめ、自分の胸に押しつける。
――あなたが気になっているようだったから。
凪がかけてくれた言葉が胸によみがえり、けれど、その声はつめたい霧にさらわれるようにして消えていった。
乙華の霊力は以前の花野にくらべたら無に等しいものだったが、それでも、零ではないことが母にとって救いとなった。
双子なのに姉の花野ばかりが重んじられて、自分の扱いは粗雑だったぶんを取りかえすように乙華は存分に母に甘えた。
大丈夫よ、おかあさま。あんな無能なおねえさまのことは忘れて? 霧灯家は私が守っていくから……そうささやきながら。
地獄に落ちたものが蜘蛛の糸にすがりつくように母親は乙華のささやきにすがりついた。"私にはあなたがいる"が"私にはあなたしかいない"に変わるまでさほど時間はかからず、やがて母は長女の花野のことを無視するようになった。まるで見えていないかのように。
母のなかで、花野は自分の娘ではなくなった。
けれど乙華の復讐はそれだけでは済まなかった。
祖母からゆずりうけた振袖。晴れの日のためにあつらえた絢爛な着物。職人から献上されたかんざしに帯留め。桜柄が愛らしい下駄。花野が大切にしてきたものを彼女はすべて奪っていった。
これは『次期当主』だったおねえさまに贈られたもの。だったら、無能になりさがったおねえさまじゃなくて私が持つべきでしょう?――そう愛らしく微笑んで。
そして彼女は花野の許嫁さえも自分のものにした。花野に手作りの花の指輪を送ってくれた彼はいつの間にか乙華とふたりででかけるようになっていて、睦《むつみ》さんからもらったわ、とある日乙華は薬指にはめた金の指輪を見せびらかしてきた。
私が大切にしてきたものはすべて乙華に奪われていく。
ものだけじゃない。おかあさまも、睦さんも……。
花野が母の寵愛をなくしたことは使用人たちにもすぐに知れわたった。
霧灯家では当主の意向がすべてである。その当主に『いないもの』扱いされたら花野も同じように扱われてもおかしくなかったが、むしろ使用人たちは彼女を憐れんで慰めてくれた。
それが乙華には気に食わなかった。
母に進言して花野に好意的な使用人たちの首を切り、新しくきた使用人たちに私はずっと姉にいじめられてきたと訴えた。事情を知らないかれらの正義感を煽り、庇護欲を刺激するように。
かわいい妹をいじめた罰として花野は女中たちに長くて艶やかな黒髪を切られ、それでも母親がなんの反応を示さないことを知ると、『罰』は日に日に過激なものとなっていった。池に落とされて時には体に熱した火箸を押しつけられる花野を見ても、使用人の男たちはげらげら笑うだけで止めようとはしなかった。
花野の心の支えは前当主の祖母だけだった。
病に倒れ、数年まえからずっと寝ついている祖母だけは花野が霊力をなくしても態度を変えなかった。
たとえ霊力がなくっともあんたはあたしの孫だ。それだけは絶対に変わらない。そう云ってしわだらけの手で花野の頬をなでてくれた。
祖母に心配はかけられない。だからたすけてと云うことはできなかったけれど、それでも、頬をなでられるとどんな痛みもかなしみもそのときだけは忘れられた。
けれど、そんな祖母も花野が十二歳のときに他界してしまう。
花野は完全にひとりぼっちになった。そして、『灯使の修行をしているとおねえさまが邪魔をしてくるの。私を妬んでいるんだわ』という乙華の根も葉もない告げ口により家の蔵に閉じこめられることとなる。
昼でも暗い闇のなかで、花野が正気を保つにはすべてをあきらめるしかなかった。
だれかに愛されること。だれかにたすけてもらうこと。幸せになること。その、すべてを。
自分はここで死んでいくのだろう。そう思いながら、女中が野良犬に餌をやるように気まぐれでよこす残飯で食いつないできたけれど。
思いがけず月岡家との縁談が舞いこんできて。
あの闇のなかから逃げだすことができた。……その、はずだったのに。
新婚なのに旦那さまに相手にされないなんてお可哀想ですねえ。まさにそうねちねちといびられた翌朝だった。
離れの寝室でひとり目覚めた花野は"彼女"の顔が見たくなって布団に体を起こした。帯留めの白猫だ。
あの笑っているような顔が見たくて衣装箱を開けた。なくさないよう昨日のうちにここにしまったから。
なのに白猫はどこにもいない。どうして、とあちこち探しまわっているとふすまが開いた。
「どうなさったのですか、花野さま」
「……いえ。なんでもありません」
着物をひっぱりだしていた手を止めて花野が答えると、「あらそうですか」とまさは云う。そうして面白そうにつづけた。
「あの猫なら逃げだしてしまったかもしれませんねえ。猫は気まぐれなものですから」
「――――」
まさには見つからないように衣装箱に入れたはずだった。思わず腰を浮かせる花野にまさはにやにやと笑いかける。
「そんなところに入れられて窮屈だったんでしょう。庭を探してみたらどうですか? 見つかるかもしれませんよ」
もちろん帯留めのことはまさには話していないし見せてもいない。けれど、それが逆に彼女の好奇心を煽る結果となったのだろう。
ふすま越しに衣装箱を開ける音を聞いていたにちがいない。そうして、花野が寝ているあいだになかをあらためた……
浴衣姿のまま花野は庭に飛びだした。霧が薄くかかって視界が悪いなか、地面に膝をついて必死に白猫を探す。
――どこ。どこに行ってしまったの?
まるで本物の飼い猫が逃げてしまったかのように花野の心は焦っていた。はやく見つけなくちゃ。はやく見つけなくちゃあの子が怖い目にあってしまう、と。
浴衣の膝が土で汚れ、指がとがった石にあたって切り傷ができる。痛《つ》、と花野は顔をしかめたがかまわなかった。必死で地面を探しつづける。
やがて、指先が陶器と思しき固いものにあたった。
「あ――」
見つけた、と花野はほっとしたがすぐに表情をこわばらせる。
かわいらしく丸まっていた白猫。
それは耳が欠け、胴体に大きくひびが入った無残な姿になっていた。
「…………」
信じられない、信じたくない気持ちで花野は猫を拾いあげる。猫は氷のようにつめたくなっていた。
呆然としていると背後から足音が聞こえてきた。「あら、そんなところにいたんですか」とまさの嘲笑う声がする。
「これで旦那さまにも示しがつきますねぇ。せっかく買ってもらったものを一日でなくしたなんて云えませんものね?」
「…………」
「どうなさったんですか、花野さま。猫は見つかったのでしょう? それともまさか――せっかく旦那さまからいただいたものを壊してしまったのですか?」
花野は黙って猫を両手でにぎりしめ、自分の胸に押しつける。
――あなたが気になっているようだったから。
凪がかけてくれた言葉が胸によみがえり、けれど、その声はつめたい霧にさらわれるようにして消えていった。



