「いいのですか」と花野は驚き、「あなたが気になっているようだったから」と凪はそっけなく答えた。
「……ありがとうございます。実はさっきから目があって困っていたのです」
「作りものの猫と?」
「メスでしょうか、オスでしょうか」
帯留めの猫の性別なんてくだらない。年よりも大人びて見えるのに変に子供っぽいことを云うひとだ、とあきれたが気がつくと凪は「細身だからメスだろう」と答えていた。
花野はきれいな目を細める。
「きっと、凪さまのおっしゃるとおりです」
ああいま彼女は笑おうとしたのだと、そう気がついたのは店をでてからだった。
彼女は笑おうとした。けれど、笑い方をずっとむかしに忘れてしまったのだ、と。
陶器製の白い猫を手のひらに載せると、猫は太陽の光を浴びて心地よさそうにした。かわいい、と花野は帰りの俥の上で思う。
自分のものを買ってもらうなんて何年ぶりだろう。
祖母が亡くなってから久しくないことだった。童心に返ったような気持ちで花野は指で猫の眉間をなでてやる。
切れてしまった鼻緒を買ってもらえただけで充分だったのに――帯留めまで。
まるで夢のなかにいるみたいだ。
あっという間に俥は旅館のまえについてしまい、花野は地面へと下りる。それからまえの俥にいる凪の横へと行った。
「凪さまは――」
「隊舎にもどる」
「……お気をつけて。ご無事をお祈りしています」
もし乙華なら、と花野はちらりと考える。
甘え上手な彼女なら、ここで『いかないで』と云えるのかもしれない。せっかくの新婚なのだから任務より私を優先してくださいと。
けれど花野は深々と頭を下げた。命をかけた仕事についている夫にたいして、なにかをねだることもわがままを云うこともなく。
凪は俥からそれを見下ろし、自分がなにか自分らしくないことを云おうとしていることに気づいて唇を引きむすんだ。
彼女に特別な想いをいだいてはいけない――。意識してつめたい表情を作る。
「俺はもうここにはもどらない。もし不測の事態が起きたら、そのときは隊舎に電話か手紙をよこすように」
「……はい」
「だしてくれ」
最後の言葉は車夫に向けられた言葉だった。離れてゆく俥を花野は頭をさげたまま送りだす。
これでいい、と両手で帯留めの猫をにぎりしめた。
たった三ヵ月だけのかりそめの妻なのだから。
あのひとの優しさに甘えてはいけない。あのひとになにかを望んではいけない、と自分によく云いきかせて。
離れにもどると霧灯家からついてきた女中が花野を出迎えた。
まさという中年のその女中は「おかえりなさいませ」と畳の上で頭を下げたが、花野がひとりだと気づいて不思議そうな顔をする。
「旦那さまはどうなさったのですか?」
「……隊舎へもどられました。今夜もお仕事ですから」
まさに花野は特別印象を持っていなかった。
彼女は花野を虐げる女中たちのなかにいなかった――もっとも止めることもしなかったけれど――から。
彼女は味方でも敵でもない。そう考えていたけれど。
昨夜、襦袢に赤い絵の具をつけたのはまさで間違いないはずだ。月のものがきたと思わせ、花野に恥をかかせるために。
――どうしてそんなことを? もちろん、この結婚を失敗させるためだ。
けれどそれを問いつめても彼女はしらばっくれるだろう。使った道具はすでに処分しているにちがいない。
――彼女を私につけたのは、きっと……
妹、乙華の差し金だろう。自分がいないところでも姉を見張っていられるように。姉が幸せにならないように、頼んでもいない女中をつけたのだ。
「ということは、花野さまは今夜もおひとりなんですねぇ」
にやにや笑うまさの笑顔の裏に、花野は乙華の笑顔を見た。
かつて花野は霧灯家の長女として強大な霊力を持っていた。
それは灯使の歴史上でも類を見ないほどで、これで霧灯家の繁栄は保証されたとだれもが思っていた。
けれど、七歳のときに彼女は"影"に襲われて命のかわりに一切の霊力を奪われた。
花野を目に入れても痛くないほどに溺愛していた母は『こんなのうそ』『はやく力を取りもどして』と花野にすがりついて、一向に彼女の霊力がもどる気配がないことを知って鬼女の面のような形相で泣きわめいた。
私の花野が。私の花野がぁああああ。
ごめんなさい、おかあさま、と花野が謝っても母の耳には届かなかった。母は掛け軸を破り、花瓶を割り、畳に爪を立てて獣のように慟哭した。花野が、花野がぁあっ、と恐ろしい声で叫びながら。
そんな母を抱きしめたのが乙華だった。
おかあさま、大丈夫よ。私がいるじゃない。鈴のような声で彼女はそう云って、母は鬼女の面を捨てた。
「……ありがとうございます。実はさっきから目があって困っていたのです」
「作りものの猫と?」
「メスでしょうか、オスでしょうか」
帯留めの猫の性別なんてくだらない。年よりも大人びて見えるのに変に子供っぽいことを云うひとだ、とあきれたが気がつくと凪は「細身だからメスだろう」と答えていた。
花野はきれいな目を細める。
「きっと、凪さまのおっしゃるとおりです」
ああいま彼女は笑おうとしたのだと、そう気がついたのは店をでてからだった。
彼女は笑おうとした。けれど、笑い方をずっとむかしに忘れてしまったのだ、と。
陶器製の白い猫を手のひらに載せると、猫は太陽の光を浴びて心地よさそうにした。かわいい、と花野は帰りの俥の上で思う。
自分のものを買ってもらうなんて何年ぶりだろう。
祖母が亡くなってから久しくないことだった。童心に返ったような気持ちで花野は指で猫の眉間をなでてやる。
切れてしまった鼻緒を買ってもらえただけで充分だったのに――帯留めまで。
まるで夢のなかにいるみたいだ。
あっという間に俥は旅館のまえについてしまい、花野は地面へと下りる。それからまえの俥にいる凪の横へと行った。
「凪さまは――」
「隊舎にもどる」
「……お気をつけて。ご無事をお祈りしています」
もし乙華なら、と花野はちらりと考える。
甘え上手な彼女なら、ここで『いかないで』と云えるのかもしれない。せっかくの新婚なのだから任務より私を優先してくださいと。
けれど花野は深々と頭を下げた。命をかけた仕事についている夫にたいして、なにかをねだることもわがままを云うこともなく。
凪は俥からそれを見下ろし、自分がなにか自分らしくないことを云おうとしていることに気づいて唇を引きむすんだ。
彼女に特別な想いをいだいてはいけない――。意識してつめたい表情を作る。
「俺はもうここにはもどらない。もし不測の事態が起きたら、そのときは隊舎に電話か手紙をよこすように」
「……はい」
「だしてくれ」
最後の言葉は車夫に向けられた言葉だった。離れてゆく俥を花野は頭をさげたまま送りだす。
これでいい、と両手で帯留めの猫をにぎりしめた。
たった三ヵ月だけのかりそめの妻なのだから。
あのひとの優しさに甘えてはいけない。あのひとになにかを望んではいけない、と自分によく云いきかせて。
離れにもどると霧灯家からついてきた女中が花野を出迎えた。
まさという中年のその女中は「おかえりなさいませ」と畳の上で頭を下げたが、花野がひとりだと気づいて不思議そうな顔をする。
「旦那さまはどうなさったのですか?」
「……隊舎へもどられました。今夜もお仕事ですから」
まさに花野は特別印象を持っていなかった。
彼女は花野を虐げる女中たちのなかにいなかった――もっとも止めることもしなかったけれど――から。
彼女は味方でも敵でもない。そう考えていたけれど。
昨夜、襦袢に赤い絵の具をつけたのはまさで間違いないはずだ。月のものがきたと思わせ、花野に恥をかかせるために。
――どうしてそんなことを? もちろん、この結婚を失敗させるためだ。
けれどそれを問いつめても彼女はしらばっくれるだろう。使った道具はすでに処分しているにちがいない。
――彼女を私につけたのは、きっと……
妹、乙華の差し金だろう。自分がいないところでも姉を見張っていられるように。姉が幸せにならないように、頼んでもいない女中をつけたのだ。
「ということは、花野さまは今夜もおひとりなんですねぇ」
にやにや笑うまさの笑顔の裏に、花野は乙華の笑顔を見た。
かつて花野は霧灯家の長女として強大な霊力を持っていた。
それは灯使の歴史上でも類を見ないほどで、これで霧灯家の繁栄は保証されたとだれもが思っていた。
けれど、七歳のときに彼女は"影"に襲われて命のかわりに一切の霊力を奪われた。
花野を目に入れても痛くないほどに溺愛していた母は『こんなのうそ』『はやく力を取りもどして』と花野にすがりついて、一向に彼女の霊力がもどる気配がないことを知って鬼女の面のような形相で泣きわめいた。
私の花野が。私の花野がぁああああ。
ごめんなさい、おかあさま、と花野が謝っても母の耳には届かなかった。母は掛け軸を破り、花瓶を割り、畳に爪を立てて獣のように慟哭した。花野が、花野がぁあっ、と恐ろしい声で叫びながら。
そんな母を抱きしめたのが乙華だった。
おかあさま、大丈夫よ。私がいるじゃない。鈴のような声で彼女はそう云って、母は鬼女の面を捨てた。



