その青年と花野の間に凪はすばやく入ると、「肩につかまれ」と彼女の横にかがんだ。青年はなにか云おうとしたが、凪にじろりとにらまれて退散する。
「凪さまの手をわずらわせるわけには……」
「いつまでも倒れられているほうが迷惑だ」
「……すみません」
おずおずと花野は凪の肩に手を置いて立ちあがった。細身なのに凪の肩は筋肉質で、彼がどれだけ厳しく自らを鍛えあげているかを感じさせる。
凪は制服のポケットからハンカチを取りだした。無造作にそれを裂いてこよりのように細くする。
彼がなにをしようしているかに気づいて花野はあわてた。
「やめてください、凪さま。ハンカチなら私のものを」
「気にするな。俺が勝手にしたことだ」
凪は下駄の穴にそれを通して鼻緒のかわりにする。
応急処置をした下駄を足のまえに置かれ、恐縮しながら花野は凪から手を離して右足をそこに載せた。
「具合は?」
「……問題なさそうです。ありがとうございます」
凪は黙って立ちあがる。「先に直してもらおう」とまた先に立って歩きはじめるが、その速度はさっきよりもずっと遅かった。花野は意外に思って彼の背中を見つめる。
――私の歩調にあわせてくれている……
胸がほのかにあたたかくなり、そのあたたかさに花野は戸惑う。つめたいだけのひと、だと思っていたのに。
まだ新しい鼻緒がついた下駄よりも、凪が直してくれた下駄のほうが不思議と歩きやすかった。ずっとこのままでいいのにと思ってしまうほど。
「ほんとうにそれでいいのか?」
「はい。私にはこれだけで充分です」
下駄屋で新しい鼻緒を買いもとめたあと、「では、帰りましょうか」と花野に云われて凪は面食らった。
まだあなたへの贈りものを買っていない。そう云うと彼女は目をぱちぱちさせ、たったいまいただきました、と足元に目をやって返してきたのだった。
「ありがとうございます、凪さま」
たかが鼻緒一本。礼を云われるほどのことですらない。
これでは相楽たちになんと云われるか。いや、それより彼女自身だ。せっかくなにか好きなものを買ってやると街に連れだされて、鼻緒一本で満足できるのだろうか。
父の後妻は派手好きな女《ひと》だ。父も派手に着飾る彼女を見て喜んでいる節があるので、自然、家には女ものの服や装飾品が増えていく。さすがにこれは、と凪が渋い顔をしていたら義兄に云われた――『女なんてみんなこんなものさ』と。
さすがにこれは極端な例だとは思うが、自分を飾りたてたいという気持ちは女ならだれしも持っているのではないだろうか。仮にそんな気持ちがないとしても、好きなものを買ってやる、と云われたら喜ぶのがふつうではないだろうか。
このまま帰っていいものか逡巡しながら凪は花野の横顔を見つめる。
その白い顔に表情はない。美しいが、ただそれだけ。
無表情だとは凪もよく云われる。だが凪は他者との関わりを最低限にするために感情を押しかくしているのであり、生気さえ感じさせない花野とはつめたさ具合がすこしちがう。
この顔の裏でなにを想っているのだろう、彼女は。
街に連れだしても喜ばず、鼻緒一本――それも、彼女がほしがったわけではなくて偶然切れてしまったものを新しく買いもとめただけだ――でいいと云う女。
彼女はすべてをあきらめてしまっているのかもしれない。
青みがかかった瞳の奥に広がる、凍てついた湖のような闇を見て思う。
なにかをほしがること。だれかと親しくなること。……そして、生きること。そのすべてを。
――だとしたら、
「……凪さま?」
「ああ、」
下駄屋のまえから動かない凪に花野が不思議そうな顔をする。
彼女と自分は、軍と霧灯家の思惑で結ばれただけの赤の他人だ。想いを通わせるつもりも三ヵ月という期日を撤回するつもりもないし、彼女の手元に残るものを贈ることだって本来なら避けたい。
そう思っているのに。
「これだけだと部下がうるさい。帯留めでもかんざしでもなんでもいいから、好きなものを買ってほしい」
「え、……ですが」
「俺はべつにどちらでもいいが、部下がうるさいからな。仕方ない。えらべないならこちらで適当にえらぶが、それでいいか」
「あ……」
花野は戸惑ったように視線をさまよわせる。
彼女は赤の他人だ。義務でそうなっただけの妻。だから彼女のことなんてどうでもいいはずなのに、
「……ええと、はい。凪さまがそうおっしゃるのなら」
凍てついた湖が溶けるところを見たいと願ってしまったのは、なぜだったのだろう――。
適当に決めるつもりだったが、猫のかたちをした帯留めを花野が興味深そうに見ていたのでそれを贖った。
「凪さまの手をわずらわせるわけには……」
「いつまでも倒れられているほうが迷惑だ」
「……すみません」
おずおずと花野は凪の肩に手を置いて立ちあがった。細身なのに凪の肩は筋肉質で、彼がどれだけ厳しく自らを鍛えあげているかを感じさせる。
凪は制服のポケットからハンカチを取りだした。無造作にそれを裂いてこよりのように細くする。
彼がなにをしようしているかに気づいて花野はあわてた。
「やめてください、凪さま。ハンカチなら私のものを」
「気にするな。俺が勝手にしたことだ」
凪は下駄の穴にそれを通して鼻緒のかわりにする。
応急処置をした下駄を足のまえに置かれ、恐縮しながら花野は凪から手を離して右足をそこに載せた。
「具合は?」
「……問題なさそうです。ありがとうございます」
凪は黙って立ちあがる。「先に直してもらおう」とまた先に立って歩きはじめるが、その速度はさっきよりもずっと遅かった。花野は意外に思って彼の背中を見つめる。
――私の歩調にあわせてくれている……
胸がほのかにあたたかくなり、そのあたたかさに花野は戸惑う。つめたいだけのひと、だと思っていたのに。
まだ新しい鼻緒がついた下駄よりも、凪が直してくれた下駄のほうが不思議と歩きやすかった。ずっとこのままでいいのにと思ってしまうほど。
「ほんとうにそれでいいのか?」
「はい。私にはこれだけで充分です」
下駄屋で新しい鼻緒を買いもとめたあと、「では、帰りましょうか」と花野に云われて凪は面食らった。
まだあなたへの贈りものを買っていない。そう云うと彼女は目をぱちぱちさせ、たったいまいただきました、と足元に目をやって返してきたのだった。
「ありがとうございます、凪さま」
たかが鼻緒一本。礼を云われるほどのことですらない。
これでは相楽たちになんと云われるか。いや、それより彼女自身だ。せっかくなにか好きなものを買ってやると街に連れだされて、鼻緒一本で満足できるのだろうか。
父の後妻は派手好きな女《ひと》だ。父も派手に着飾る彼女を見て喜んでいる節があるので、自然、家には女ものの服や装飾品が増えていく。さすがにこれは、と凪が渋い顔をしていたら義兄に云われた――『女なんてみんなこんなものさ』と。
さすがにこれは極端な例だとは思うが、自分を飾りたてたいという気持ちは女ならだれしも持っているのではないだろうか。仮にそんな気持ちがないとしても、好きなものを買ってやる、と云われたら喜ぶのがふつうではないだろうか。
このまま帰っていいものか逡巡しながら凪は花野の横顔を見つめる。
その白い顔に表情はない。美しいが、ただそれだけ。
無表情だとは凪もよく云われる。だが凪は他者との関わりを最低限にするために感情を押しかくしているのであり、生気さえ感じさせない花野とはつめたさ具合がすこしちがう。
この顔の裏でなにを想っているのだろう、彼女は。
街に連れだしても喜ばず、鼻緒一本――それも、彼女がほしがったわけではなくて偶然切れてしまったものを新しく買いもとめただけだ――でいいと云う女。
彼女はすべてをあきらめてしまっているのかもしれない。
青みがかかった瞳の奥に広がる、凍てついた湖のような闇を見て思う。
なにかをほしがること。だれかと親しくなること。……そして、生きること。そのすべてを。
――だとしたら、
「……凪さま?」
「ああ、」
下駄屋のまえから動かない凪に花野が不思議そうな顔をする。
彼女と自分は、軍と霧灯家の思惑で結ばれただけの赤の他人だ。想いを通わせるつもりも三ヵ月という期日を撤回するつもりもないし、彼女の手元に残るものを贈ることだって本来なら避けたい。
そう思っているのに。
「これだけだと部下がうるさい。帯留めでもかんざしでもなんでもいいから、好きなものを買ってほしい」
「え、……ですが」
「俺はべつにどちらでもいいが、部下がうるさいからな。仕方ない。えらべないならこちらで適当にえらぶが、それでいいか」
「あ……」
花野は戸惑ったように視線をさまよわせる。
彼女は赤の他人だ。義務でそうなっただけの妻。だから彼女のことなんてどうでもいいはずなのに、
「……ええと、はい。凪さまがそうおっしゃるのなら」
凍てついた湖が溶けるところを見たいと願ってしまったのは、なぜだったのだろう――。
適当に決めるつもりだったが、猫のかたちをした帯留めを花野が興味深そうに見ていたのでそれを贖った。



