つめたい夜をひとりで過ごした翌日、花野が旅館の庭を散策していると仲居に「月岡さま」と呼ばれた。すぐには気づかず、「月岡花野さま」と下の名前まで呼ばれて彼女ははっとする。
性が月岡に変わったという自覚がなかった。
「……はい?」と彼女は池にかかった朱塗りの橋の上から振りかえり、その画のような構図に仲居は息を呑んだ。浮世離れした美貌に縮こまりながら「旦那さまがお呼びでございます」と云う。
「凪さまが……?」
仲居に連れられて玄関まで行ってみると、そこでは二台の俥と影祓部隊の制服を着た凪が待っていた。彼は花野を見るなりわずかにばつが悪そうな顔をする。
「部下に。なにか買ってやれと。云われた」
「はい……」
「…………」
「…………」
難しい文章でも読みあげるように云われ、花野は次の言葉を待ったが凪はなにも云わない。「あの?」と彼女は首を傾げた。
「部下の方への贈りものをお探しなのですか?」
「そうではない。……あなたに、なにか買ってやれと云われた」
「私に?」
「昨夜の埋めあわせをしろと。だから……」
「…………」
「あなたさえよければ街まででかけないか」
はあ、と花野はまだよくわからずに応える。
それを同意と受けとった凪はまえの俥へと乗りこんだ。突っ立ったままそれを見ていると、「あなたは後ろに」と凪にうながされる。云われたとおり花野は後ろにつけた一人乗りの俥に乗りこんだ。
車夫が引く俥の上でようやく花野も凪がなにをしようとしているか呑みこめた。
昨日、凪は花野を置いて職場に向かった。それを部下が気にして妻に埋めあわせとしてなにか買ってあげたほうがいいと云ったのだろう。それで凪は花野を連れだすことにした。
――ということは、凪さまはこれが期日つきの結婚であることを周りにはお話ししていないということ。
当然といえば当然のことだった。つまり凪は体面を取りつくろうために仕方なく花野を連れだしたのだろうが、それを嘆く気も怒る気もない。ただ人形のように運ばれていく。
体面を取りつくろう、といえば実家の母たちもそうだった。家で花野を粗雑に扱っていたことがわかると厄介だから、婚姻にあわせて新しい着物を仕立てて履物をあつらえた。
花野はまえをゆく俥に乗った凪の後頭部を見つめ、痩せほそった自分の手を見つめ、真新しい下駄を見下ろした。
これが空虚な結婚であることを実感するように。
俥から降りたふたりは商店街をぶらつくことにした。
「なにかほしいものがあったら云うように」と義務的に告げ、凪は花野の先を歩く。
夜に活動できないぶんを取りかえすように昼の商店街には活気がある。ゆきかう人々のなかからは異国の言葉も聞こえてきて、通りの中央に敷かれた路面電車の窓からは西洋さまざまな衣装を着た乗客の姿が覗けた。
外はこんなにもにぎやかで明るいことをしばらく忘れていた。
花野は何度もまばたきをし、おいていかれないように凪の背中を早足で追う。
影祓部隊の制服を着た凪を見て人々は目を瞠る。
だが声をかけてくることはなかった。影祓部隊は『影』と呼ばれる怪異を命がけで祓う立派な職と云われている。
だからはじめは夜に"影"を斬る彼のことが恐れおおいのかと思ったが、どうやらちがうらしいと気がつく。
――怖がっている。
彼が近づくとだれもがすばやく道を開けた。そして通りすぎるとほうと体から力を抜く。軍人さんだ、と無邪気に指をさす子供を「あのひとはだめ」と抱きあげてどこかへ逃げていく母親の姿もあった。死神だ、とつぶやくひともいた。
――どうして。凪さまは人々を守っているのに……。
針で刺されたかのように胸がちくりと痛む。だが凪はそれが日常であるかのように――いや、きっとそうなのだろう――黙って歩きつづけていた。花野はちいさく唇を噛み、彼のあとにつづく。
なにかほしいもの、と云われても思いつかなかった。
呉服屋も小間物屋も自分の目を引かない。どうせ着飾ったところで、と思ってしまうから。
――この振袖、おねえさまより私のほうが似合うわ。そう思わない?
祖母からゆずりうけた朱鷺色の振袖を妹に奪われたことを思いだし、つい歩みが遅くなった。気がつくと凪の後頭部が人混みの向こうにあって、あわてて花野は足を動かす。
「あっ……」
そのとき、ぶつりと下駄の鼻緒が切れた。彼女は地面に倒れこむ。
――新しくあつらえたばかりなのに。
不良品だったのだろう。けれど彼女は、まるで自分のせいで鼻緒が切れてしまったような気がした。自分が不良品のせいで。
転んでしまった花野に気づき、そばにいた青年が彼女に手を差しだそうとした。隠しきれない下心とともに。
「あの、大丈夫――」
「失敬」



