【完結/長編版】月影の軍神と愛しの傷嫁~双子の妹にすべて奪われたのに冷酷な旦那さまのもとで妹より愛されてしまいました~

 ふたり乗りの俥はゆっくりと走る。
 ならんで座っている軍服と和服の男女は一枚の絵画のように美しく、すれちがう人々は思わず立ちどまってふたりを見上げた。

 ――なんだい、あの美男美女は。
 ――おれぁ知ってるぞ、影祓部隊一番隊の月岡凪だ。霧灯家のご長女と五月にご結婚なされたんだ。
 ――嘘をつくな。
 ――月岡凪と云えば『不死身の軍人』。死神みてぇに不吉で……

 軍服の青年は隣にいる少女に日傘をさしかける。その仕草は愛情に満ちていて、彼を見る乙女たちは頬を赤らめた。

 ――霧灯家のご長女だって、だれかが見たときには病人みたいな顔してたって……

 白い肌の少女は優しく微笑み、青年の手に自分の手を添えて自分だけが入っていた日傘にふたりを入れる。
 痩せてはいるもののその顔は幸福そうで、内側から光りかがやいているかのようだった。

 街の人々はあっけにとられてふたりを見送る。
 もっとも、車上のふたりはお互いに夢中でそんな噂話など耳に入っていなかったが――

「しばらく保養せよと上層部に云われた」

 花野が日陰になっているか気にしつつ凪は云う。
「保養?」と彼女はきょとんとした。

「なにせ胸に穴が開いている。こっちはなんとかするから一週間ほどどこか遊びにいってこい、だそうだ」
「……まあ。新婚でも休まなかったあなたが?」
「だから、あなたと行きたい」

 凪は不器用に咳ばらいをして云う。

「その、なんというか。新婚旅行……になるのかもしれないが……」

 いってこい、と柴枝は凪の家に電話をかけてきて云った。

『おまえはすこし働きすぎだ。花野嬢でも連れて湯治でもしてこい』
『お言葉ですが――』
『子供なんて作りたいときに作ればいい』

 口ごもる凪に柴枝はつづけた。『きっと、草野もそう云うだろう』

『――え?』
『あいつはずっと悔やんでいた。自分がもっとはやく現場に駆けつけていれば彼女は霊力を失わずに済んだのにと。それからずっと花野嬢を気にしていた』
『…………』
『あのときの少女を娶ったのがおまえなら、あいつも文句はないだろうよ』

 待ってください、と云おうとするまえに電話が切れた。
 なぜ草野殿の名前が、と思ってから柴枝は彼と士官学校時代の同期だったことを思いだした。彼から当時のことを聞いていても不自然ではないが……。

 しかしどうして急に手のひらを返すようなことを云いはじめたのか。以前はあれだけ子供を作れと云っていたのに。

 ……まさか、俺を焚きつけるためにわざと悪役を?

 だとしたら凪はまんまとやられたことになる。
 食えないひとだ、と思ったが悪い気分はしなかった。

 これがほんとうに、あのひとが結んでくれた縁なのならば――

「お話は嬉しい……のですが」

 花野はためらいがちに視線を逸らす。

「よいのでしょうか。私は……もう、来月には離縁される妻ですのに。そんな、新婚旅行なんて……」
「…………」
「凪さま?」
「……済まない。勝手に云ったつもりになっていた」

 花野は不思議そうに凪の横顔を見る。
 凪は陽炎の立ちのぼる街をしばし見つめたあと、思いきったように隣にいる彼女を見つめた。

「花野。あなたさえよければ、俺とほんとうの夫婦になってほしい」
「――……」
「俺は……あなたのことをだれよりも愛おしいと思う。親しい人間を何人も見送ってから忘れるようにしてきた想いだ。まさかまた取りもどすことになるとは思わなかったが、」

 凪は彼女の細い手を取った。彼女がここにいることをたしかめるように、痛いほどきつくにぎりこむ。

「俺はもう二度とこの想いをなくしたくない。だから、あなたを命をかけて守りぬくと誓う。……俺の、たったひとりの妻だけを」
「凪さま――」
「愛している、花野。この先もずっと俺のそばにいてくれ」

 彼の言葉よりもはやく体温が体に届く。
 花野はそのあたたかさにふっとさしぐみそうになった。私は、と声を震わせる。

「私は、凪さまのお役になんて立てないのに……」
「……? 以前は毎日のように弁当を持ってきてくれただろう」
「あれは……」
「……不思議だった。食事なんて体を動かすために仕方なく摂っているにすぎない。味なんてどうでもよかった。なのにあなたが持ってきてくれたものは……特別、うまく感じられた」

 花野はきょとんと凪を見上げる。

「召しあがっているのは後輩のかたでは——」
「……いや。ちがう。いや、いまの『ちがう』はそういう意味ではなく、」

 うまかった、と凪は云った。狼狽しているのがわかる声で。

「なかなか云いだせなかったが。……あなたから弁当を受けとることも、あなたの顔を見ることも俺は楽しみだった」
「————」
「それに——あなたは俺に理由をくれた。あなたのところに帰りたいと思う理由だ。役に立つ立たないではない。あなたに俺のそばにいてほしいんだ」

 愛している、と凪はくりかえした。
 どうかあなたの気持ちを聞かせてほしい、と。

「……私は。必要とされることにも、愛されることにも馴れていなくて……。だから、このようなときなんてお返事をすればいいか――」
「気取った返事など不要だ。ただ、俺のそばにいると。それだけ誓ってくれればいい」

 花野はうなずいた。
 その拍子に彼女の瞳から涙があふれ、白い頬を濡らす。

「――はい。私はずっと、凪さまのおそばにいます」

 凪は内側から光が零れるような笑顔で微笑んだ。その笑顔は少年のようで、花野は胸をつかれる。

 ――ああ。このひとは、こんなふうに笑うひとだったんだ。

 愛おしい。その想いで心がいっぱいになる。

 いままで信じられなかった。ひびわれた心でも、こんなふうに愛しいという気持ちを感じられることを。
 だれかをこんなふうに愛せることを。

「旅先であの帯留めを直せる職人がいないかも調べておこう。聞いた話によると、漆で欠けた個所を固めてそこに金粉をまぶすという手法があるらしい。きっと、帝都(こちら)で探すよりもいい思い出になる」
「……はい」

 凪もあの帯留めの猫を大切に思ってくれている。言葉の端々から伝わってきて、花野は微笑んだ。

 欠けてしまったもの。それは永遠にもどらないけれど、でも、あなたがいれば。

「きっと――美しく変わるでしょうね」

 凪はうなずく。
 日傘越しのやわらかな光を感じながら、花野は祖母が死の間際にくれた言葉を思いだした。

 ――愛しとるよ、花野。おばあさまはもう長くないけど、同じようにあんたを愛してくれるひとが現れるよう天国で祈ってるからね……

 ……はい、と花野はうなずく。

 おばあさま。私は、出逢うことができました。

 私を愛してくれるひとと。
 だれにも届かないとあきらめて伸ばすことすらやめた手を、つかんでくれたひとと。

「旅行へいくまえに」と花野の手をほどいて、彼女の涙をやさしくぬぐいながら凪が云う。

「あなたといきたい場所がある。ついてきてもらえるか」
「ええ、凪さまとならどこへでも。でもどこですか?」
「草野殿の墓だ」

 花野の命を救い、凪をここまで導いてくれたひと。

「あなたのことを彼に紹介しておきたい。俺の妻だと。そして――あなたがいるかぎり、俺はけして死なない。必ず生きて帰る、と」

 ――どうか、生きてかえってきてください。

 それはお守りに込めた彼女の想いだった。
 花野は涙を零しながらうなずき、引きよせられるままに凪に抱きしめられる。

 夏の陽射しは夜を忘れた帝都の街に惜しみなくふりそそいで。
 この美しい一組の夫婦を、いつまでも祝福しているかのようだった。



【終】