「花野、かわいい花野。いままでひどいことをしてごめんなさいねぇ。そうだ、睦さんとの縁談を復活させましょう。あなたは睦さんと仲よしでしたもの。軍人なんかに嫁がせて申しわけなかったわ。あなたは婿を取るべき女でしたのに。離縁してさっさと帰っていらっしゃい。さあ花野、いますぐご挨拶に……」
「――離してください」
花野はぽつりとつぶやいた。
それはとても小さな声。けれど、銀のように強靭な響きを持っていた。
え、と母は目を丸くする。
「いまなんて云ったの、花野……?」
「離してください、と申しあげたのです」
花野は母を凛と見つめかえした。
最愛の母に許しを請われて心が揺らいだ。しかし。
凪の悪口を云われて、はいわかりましたと受けいれることはできない。
「取りけしてくださいませ、おかあさま。『軍人なんか』と発言されたこと。凪さまは……凪さまは、人々の命を守る立派なお方です。このような侮辱、花野は許しません」
「え……ええ。ごめんなさい。でもね花野……」
「花野は……私はもう月岡家のものです。ここには帰りません。霧灯家とは金輪際、縁を切ります。今日はそのご挨拶のつもりできたのです」
母と乙華は息を呑む。
そこにいる少女は自分たちが知っている花野ではなかった。月明かりを浴びて輝く花のように澄んだまなざしで、彼女はふたりを交互に見る。
「いままで育てていただきありがとうございました、おかあさま。そして……乙華。あなたにはたくさんつらい思いをさせましたね。これからも心労は尽きないと思いますが、霧灯家のことは任せましたよ」
「お、おねえさま……」
「――私はあなたを赦します」
びくっと乙華が身じろぎする。
「あんなものに騙された私が悪かったのです。あなたを責めるつもりはありません。……ですが覚えておきなさい。自らが犯した業は、いずれ自分の身に還ってくると」
「う……」
「……さようなら」
最後に深々と頭を下げ、花野は凪と一緒に立ちあがった。
「ま……待って、花野……。後生だから……」と声を震わせている母を振りきるように客間をでる。
「花野、待って。お願い。帰ってきて。花野ぉおおお……っ!」
獣のような母の悲鳴に乙華の泣き声が重なる。
ふたりが屋敷をでるとき、「あんなものとはなんですか!? 答えなさい!」と母が烈火のように乙華を責めたてている声が聞こえてきたが、ふたりが引きかえすことはなかった。
夏の陽射しのもとにでて、花野はつぶやく。
「……これで、よかったのですよね」
「ああ」
凪にたすけられてから今日までのあいだに花野は決意した。
裏でまさを操っていた乙華の罪は白日のもとには晒さない。かわりに、霧灯家と縁を切る。
乙華がいったいなにを奪ったのか。
それを、母親に理解させたうえで。
凪はうなずく。そして、行こう、とまだふらつく彼女に自分の腕をつかませた。
まさはすべて乙華にやらされたことだと警察に訴えたが、霧灯家はそれをもみ消した。だが、代償として十年まえの乙華の奸計と彼女が花野にしてきたことは一族の者はみな知るところとなる。
――乙華さまは花野さまをだまして『影』に襲わせたという。
――まだ七歳のときに。なんて冷血なひと……
乙華が使用人たちに吹きこんでいた花野の悪評がすべて返ってきたようだった。むしろ、そのときの花野よりも乙華の名は汚れた。
霧灯家の宝であった花野から霊力を奪い、不当に貶め、さらには彼女が霧灯と絶縁する理由を作ったのである。
灯使の女性たちは乙華を白眼視し、さらには乙華を野放しにしていた母親のことも無言で責めたてた。
一族の者をすべて敵にまわしたようだったが、そのなかで母はなにひとつ云いわけしなかった。それが乙華に愛想が尽きたからなのか、娘を愛していたからこそだったのかはだれにもわからない。
夫はいつの間にか逃げ、睦は『ママに云われたとおり』婚約を解消した。
母は責任を取って当主の座から下りた。そして周りの視線に耐えられなくなったように田舎にいる親戚のもとへ身を寄せ、乙華とひっそり暮らすことをえらんだ。
花野を虐げていた使用人たちは全員馘首にされ、空白となった当主の座には分家の女性が収まった。だがこれで元通りとはいかない。
霧灯家が恣にしていた権力は、無能と虐げられていた少女が霊力を取りもどしたことをきっかけにすこしずつ衰えてゆき――
やがて、月岡家が霧灯家を退けて帝国を守護する一族となるが。
そうなるのはもうしばらく、あとのことだ。
「――離してください」
花野はぽつりとつぶやいた。
それはとても小さな声。けれど、銀のように強靭な響きを持っていた。
え、と母は目を丸くする。
「いまなんて云ったの、花野……?」
「離してください、と申しあげたのです」
花野は母を凛と見つめかえした。
最愛の母に許しを請われて心が揺らいだ。しかし。
凪の悪口を云われて、はいわかりましたと受けいれることはできない。
「取りけしてくださいませ、おかあさま。『軍人なんか』と発言されたこと。凪さまは……凪さまは、人々の命を守る立派なお方です。このような侮辱、花野は許しません」
「え……ええ。ごめんなさい。でもね花野……」
「花野は……私はもう月岡家のものです。ここには帰りません。霧灯家とは金輪際、縁を切ります。今日はそのご挨拶のつもりできたのです」
母と乙華は息を呑む。
そこにいる少女は自分たちが知っている花野ではなかった。月明かりを浴びて輝く花のように澄んだまなざしで、彼女はふたりを交互に見る。
「いままで育てていただきありがとうございました、おかあさま。そして……乙華。あなたにはたくさんつらい思いをさせましたね。これからも心労は尽きないと思いますが、霧灯家のことは任せましたよ」
「お、おねえさま……」
「――私はあなたを赦します」
びくっと乙華が身じろぎする。
「あんなものに騙された私が悪かったのです。あなたを責めるつもりはありません。……ですが覚えておきなさい。自らが犯した業は、いずれ自分の身に還ってくると」
「う……」
「……さようなら」
最後に深々と頭を下げ、花野は凪と一緒に立ちあがった。
「ま……待って、花野……。後生だから……」と声を震わせている母を振りきるように客間をでる。
「花野、待って。お願い。帰ってきて。花野ぉおおお……っ!」
獣のような母の悲鳴に乙華の泣き声が重なる。
ふたりが屋敷をでるとき、「あんなものとはなんですか!? 答えなさい!」と母が烈火のように乙華を責めたてている声が聞こえてきたが、ふたりが引きかえすことはなかった。
夏の陽射しのもとにでて、花野はつぶやく。
「……これで、よかったのですよね」
「ああ」
凪にたすけられてから今日までのあいだに花野は決意した。
裏でまさを操っていた乙華の罪は白日のもとには晒さない。かわりに、霧灯家と縁を切る。
乙華がいったいなにを奪ったのか。
それを、母親に理解させたうえで。
凪はうなずく。そして、行こう、とまだふらつく彼女に自分の腕をつかませた。
まさはすべて乙華にやらされたことだと警察に訴えたが、霧灯家はそれをもみ消した。だが、代償として十年まえの乙華の奸計と彼女が花野にしてきたことは一族の者はみな知るところとなる。
――乙華さまは花野さまをだまして『影』に襲わせたという。
――まだ七歳のときに。なんて冷血なひと……
乙華が使用人たちに吹きこんでいた花野の悪評がすべて返ってきたようだった。むしろ、そのときの花野よりも乙華の名は汚れた。
霧灯家の宝であった花野から霊力を奪い、不当に貶め、さらには彼女が霧灯と絶縁する理由を作ったのである。
灯使の女性たちは乙華を白眼視し、さらには乙華を野放しにしていた母親のことも無言で責めたてた。
一族の者をすべて敵にまわしたようだったが、そのなかで母はなにひとつ云いわけしなかった。それが乙華に愛想が尽きたからなのか、娘を愛していたからこそだったのかはだれにもわからない。
夫はいつの間にか逃げ、睦は『ママに云われたとおり』婚約を解消した。
母は責任を取って当主の座から下りた。そして周りの視線に耐えられなくなったように田舎にいる親戚のもとへ身を寄せ、乙華とひっそり暮らすことをえらんだ。
花野を虐げていた使用人たちは全員馘首にされ、空白となった当主の座には分家の女性が収まった。だがこれで元通りとはいかない。
霧灯家が恣にしていた権力は、無能と虐げられていた少女が霊力を取りもどしたことをきっかけにすこしずつ衰えてゆき――
やがて、月岡家が霧灯家を退けて帝国を守護する一族となるが。
そうなるのはもうしばらく、あとのことだ。



