【完結/長編版】月影の軍神と愛しの傷嫁~双子の妹にすべて奪われたのに冷酷な旦那さまのもとで妹より愛されてしまいました~

 何者かに花野がそうされているところを想像しただけではらわたが煮えくりかえる。
 凪は血がにじむほどつよく唇を噛むと、彼女をお願いします、と老医師と看護師に花野を任せて寝室をあとにした。

 ――けして逃げるな

 医者を呼びにいく際に女中にはそう告げていた。
 逃げたら殺されるとでも思ったのだろう。女中は一階の廊下の隅に正座をしてがたがた震えていた。

 凪はそのまえに立つ。

「なにか申しひらきはあるか」
「……こ……これは……」

 だれが花野を傷つけたのか。この反応を見れば明白だったが、「貴様がやったんだな」と凪は問いかける。
 ひっと女中の喉から空気が漏れるような奇妙な音がした。

「答えろ」
「……わ、わ、私じゃありません」
「ふざけるな。貴様以外にだれができる」
「私じゃないんです! 花野さまをお部屋に閉じこめたのも、ご飯をあげなかったのも、ぜんぶぜんぶ乙華さまにやれって云われてやったんですよぅ……!」

 その名前がだれか思いだすまでにすこしかかった。

「乙、華……?」

 凪の記憶違いでなければ。
 彼女は、花野の妹ではなかったか。

 そうです、と女中は蚊の鳴くような声で云う。

「は……花野さまの元許嫁からの手紙を渡したけど、花野さまが平気な顔をしてたから、乙華さまが怒ったんです。それで、おねえさまが泣きわめくまでお水もご飯もあげるなって。私はぜんぶ云われたとおりにしただけなんですぅ」
「……腕のやけどは?」
「え?」
「腕に火箸の痕があった。それも乙華の命令だというのか」

「そ、それは……」女中は目を泳がせ、「そ、そうです。乙華さまがやれって。私はそんな可哀想なことできないって断ったんですけど、でも、そうしないとあなたを同じ目にあわすわよって――」

「……もういい」

 まともに聞くことすら苦痛だった。
 主人にすこしでも敬意を持っていれば、花野をあそこまで追いつめるようなことはしなかっただろう。この女中も乙華と一緒になって喜んで彼女を虐げていたにちがいない。

「だ、旦那さま」

 女中が媚びるような目つきで凪を見上げてくる。笑おうとしているのか、口元が奇妙に歪んでいた。

「私は許してもらえますよねぇ。だって乙華さまに云われただけですから。私はただの女中です。女中が次期当主さまに逆らえるわけないんですよ。ね、そうでしょう?」
「……そうだな」
「じゃあ――」
「だが、それを決めるのは俺ではない。司法だ」

 期待に輝いた女中の目が一瞬で暗くなる。え、と口を開けたままで固まった。

「貴様は警察に突きだす。そこでいまの主張が通るか、ためしてみるといい」
「ま、待ってください。警察なんて。それじゃ私が罪人みたいじゃないですか」
「罪人ではないというのならなんだ。人間の顔をした外道か?――それだったら、俺の刀で斬っても赦されるだろうな」

 帯刀はしていなかったが、不死身の軍人として恐れられる凪のこの言葉はよく効いたらしい。
 女中は顔面を蒼白にすると勢いよく床に額をこすりつけた。

「け、警察でいいです。警察でいいですから! どうか殺さないでください……!」

 凪は溜め息でそれに応えた。


 それからはあわただしかった。

 まさという名の女中を警察に突きだし、医者《せんせい》が帰ってこいって怒ってますと泣き顔でやってきた青木を隊舎に送りかえし、ついでだからと花野を診てくれた医者に傷を消毒してもらい、また明日くると云うかれらを見送り、自分がいない一番隊はどうなっているのか気にかけながら夜を迎えて――。

 医者に云われたとおり、水で湿らせた脱脂綿で花野の唇を濡らしていると。ん、と彼女のまぶたが動いた。

「花野?」
「……なぎ……さま……?」

 あの青みがかかった瞳が自分をとらえ、凪はほっとする。まだつらそうだがその瞳ははっきりしていた。
「気分はどうだ」と云いながら彼女の手を取る。

 花野はその手を見つめた。

「どうしたんだ?」
「……凪さま、だったのですね」
「……?」
「くるしい、たすけて、って……あの日から、ずっと私は泣いていました。七歳のときの私が……。でも……夢のなかでだれかがその手をとってくださったのです」

 そして、こう云ってくれた。

「『これからは俺がいる。俺があなたのそばにいる』――と」

 凪は花野の手を自分の頬にあてた。ああ、と答えながら。

「そうだ。これからは俺がいる。俺が、あなたをけしてひとりにはしない」
「凪さま――」

 花野は微笑んだ。
 いつか見たいと願ったその微笑みは、凍てついた湖の底でひとしれず春を待っていた花のようで――

 この花がけしてだれにも手折られぬようにと。
 彼女を守っていくことを、あらためて凪は決意したのだった。