『ま、たしかに。でもね、まえにもお話したでしょう。『影』が僕たちを襲うのは本体になりかわろうとしているからって説。僕はすこしちがう考えかたをしてるんです。『影』が僕たちを襲うのは――』
ちょうど十分。例の武家屋敷についた。屋敷は灯りすらつけずにしんと静まりかえっている。
どこまでもつづくような土塀を曲がり、凪は門のまえにいた『影』と対峙した。
そして。
「ツ……」
『――僕たちと『影』は、ずっとむかしはひとつの生きものだったからじゃないかって』
『影』がぐらりと揺れる。できそこないの人型のような『影』は門よりも長身で――
「キ……」
白い歯がびっしりと生えた口を持っていて――
「……オ、カ」
とても懐かしい声で。
凪の名前を呼んだ。
「く……」
草野、中尉。
少年のような笑顔が脳裏をよぎる。
『アナタはどう思いますか? 月岡――いえ、『月影の軍神』殿』
凪は手を刀の柄にかけていたがそれを抜くことはかなわなかった。
聞きまちがいだ。そう思いたいのに、その口しかない奇妙な相貌に草野の凛々しい顔が重なる。
『影』は凪に気づき、ずるり、ずるりと足を引きずるようにしてこちらへやってきた。
斬れ。肉体がそう叫ぶ。
斬るな。頭がそう叫ぶ。
「ウ……ッタナ……ツキ……カ。マタ……ミンナ、デ」
――うまかったなぁ、月岡。またみんなで行こう。
そう云われたときのことをはっきりと思いだした。士官学校の後輩たちを連れて彼が牛鍋を奢ってくれた日のことだ。
「あ……、ああ、」
斬れ。斬るな。ふたつの叫びが頭のなかでぶつかりあう。
こいつは『影』だ。草野中尉の真似をしているだけ。惑わされるな。
ちがう。こいつはきっとあのひとの魂を喰らったんだ。だからこうして俺の名前を呼んでいる。
こいつのなかにはあのひとがいる。
こいつを斬れば、あのひとは消えてしまう。
「……う、」
刀にかけた手が震える。
斬るな。斬るな。斬るな……!
「マタ……ミ……ミ……ンナ……デ」
草野の声でしゃべりながら『影』が凪に片手を伸ばす。そのとき。
「なっ……なぁあああああにをしてるんですか!?」
腕をつかまれて後ろにひっぱられた。受け身もとれずに凪は地面に座りこむ。
青木は凪のまえに立つとすばやく刀を抜いた。
「月岡隊長、どうしたんですか!? 『影』ですよ、はやく刀を!」
「やめろ!」
「えっ――」
「あれは……あれは草野中尉殿だ。刀を向けるな! 逃がすんだ!」
「じょ……冗談でしょう、」
凪が錯乱していることに気づいて青木は動揺する。
「あ、あれはただの『影』――」と云いかけたとき、『影』が腕を振りあげた。
青木ははっとして刀を抜く。
『影』の横殴りの打撃を刀身で受けたが、「ぐぅっ――」勢いは殺せずに体が吹っとんだ。土塀に衝突する。
気を失い、ぐったりと地面に倒れこむ部下を見て凪は正気に返った。
――草野殿が後輩を傷つけるような真似をするはずがない。
こいつは草野ではない。ならばなぜ彼の言葉を知っている?
答えはすぐに導きだせた。
「貴様が……草野殿の命を奪ったのか」
『影』はゆらゆらと手を振りまわす。そして不意に歯を剥きだしにすると笑いだした。
「スうナ、すウナ、ヤめトケ。コンナもノウウウウマくナイゾ」
――吸うな、吸うな、やめとけ。こんなもの美味くないぞ。
草野が煙草を吸うところをじっと見ていたら彼は苦笑してそう云った。
ならなぜ草野殿は吸われているのですか。凪が率直に尋ねると、『そう云われると困るんだが……』と彼は頬を掻いた。
――ほら。こうしてると、大人みたいで格好いいだろう?
初めて吸った煙草は苦かった。美味くもなんともなかった。草野の墓のまえで吸ったそれはひたすら苦くて、不味くて、煙が目に染みた。
凪の目に草野は大人びて見えた。刀の扱いに長けていて、後輩たちをよく見ていて、『影』と対峙する恐れなど――死地へ向かう恐れなどかけらも持っていないように見えた。
そうありたかった、だけだったのだろう。
後輩たちの手本であれるように。かれらが道に迷わないように。
大人でいようとした、だけだったのだろう。
――卒業したら一緒の隊で戦えるといいなぁ。
後輩に向けた言葉。あれは心細さの裏返しだったにちがいない。
いつか自分も『影』との戦いで命を落とすとわかっていながら。
そのときが、すこしでも先であるようにと願っていた――。
「……貴様が何者で、なにをたくらんでいようが関係ない」
凪は立ちあがる。そして、ふたたび刀に手をかけた。
「草野殿の仇――討たせてもらう」
彼は距離を詰めて刀を振るった。迷うことなく。
夜の街にもうひとつの月光が生まれ、『影』を両断する。
「ツ……キ……」
「黙れ」
ちょうど十分。例の武家屋敷についた。屋敷は灯りすらつけずにしんと静まりかえっている。
どこまでもつづくような土塀を曲がり、凪は門のまえにいた『影』と対峙した。
そして。
「ツ……」
『――僕たちと『影』は、ずっとむかしはひとつの生きものだったからじゃないかって』
『影』がぐらりと揺れる。できそこないの人型のような『影』は門よりも長身で――
「キ……」
白い歯がびっしりと生えた口を持っていて――
「……オ、カ」
とても懐かしい声で。
凪の名前を呼んだ。
「く……」
草野、中尉。
少年のような笑顔が脳裏をよぎる。
『アナタはどう思いますか? 月岡――いえ、『月影の軍神』殿』
凪は手を刀の柄にかけていたがそれを抜くことはかなわなかった。
聞きまちがいだ。そう思いたいのに、その口しかない奇妙な相貌に草野の凛々しい顔が重なる。
『影』は凪に気づき、ずるり、ずるりと足を引きずるようにしてこちらへやってきた。
斬れ。肉体がそう叫ぶ。
斬るな。頭がそう叫ぶ。
「ウ……ッタナ……ツキ……カ。マタ……ミンナ、デ」
――うまかったなぁ、月岡。またみんなで行こう。
そう云われたときのことをはっきりと思いだした。士官学校の後輩たちを連れて彼が牛鍋を奢ってくれた日のことだ。
「あ……、ああ、」
斬れ。斬るな。ふたつの叫びが頭のなかでぶつかりあう。
こいつは『影』だ。草野中尉の真似をしているだけ。惑わされるな。
ちがう。こいつはきっとあのひとの魂を喰らったんだ。だからこうして俺の名前を呼んでいる。
こいつのなかにはあのひとがいる。
こいつを斬れば、あのひとは消えてしまう。
「……う、」
刀にかけた手が震える。
斬るな。斬るな。斬るな……!
「マタ……ミ……ミ……ンナ……デ」
草野の声でしゃべりながら『影』が凪に片手を伸ばす。そのとき。
「なっ……なぁあああああにをしてるんですか!?」
腕をつかまれて後ろにひっぱられた。受け身もとれずに凪は地面に座りこむ。
青木は凪のまえに立つとすばやく刀を抜いた。
「月岡隊長、どうしたんですか!? 『影』ですよ、はやく刀を!」
「やめろ!」
「えっ――」
「あれは……あれは草野中尉殿だ。刀を向けるな! 逃がすんだ!」
「じょ……冗談でしょう、」
凪が錯乱していることに気づいて青木は動揺する。
「あ、あれはただの『影』――」と云いかけたとき、『影』が腕を振りあげた。
青木ははっとして刀を抜く。
『影』の横殴りの打撃を刀身で受けたが、「ぐぅっ――」勢いは殺せずに体が吹っとんだ。土塀に衝突する。
気を失い、ぐったりと地面に倒れこむ部下を見て凪は正気に返った。
――草野殿が後輩を傷つけるような真似をするはずがない。
こいつは草野ではない。ならばなぜ彼の言葉を知っている?
答えはすぐに導きだせた。
「貴様が……草野殿の命を奪ったのか」
『影』はゆらゆらと手を振りまわす。そして不意に歯を剥きだしにすると笑いだした。
「スうナ、すウナ、ヤめトケ。コンナもノウウウウマくナイゾ」
――吸うな、吸うな、やめとけ。こんなもの美味くないぞ。
草野が煙草を吸うところをじっと見ていたら彼は苦笑してそう云った。
ならなぜ草野殿は吸われているのですか。凪が率直に尋ねると、『そう云われると困るんだが……』と彼は頬を掻いた。
――ほら。こうしてると、大人みたいで格好いいだろう?
初めて吸った煙草は苦かった。美味くもなんともなかった。草野の墓のまえで吸ったそれはひたすら苦くて、不味くて、煙が目に染みた。
凪の目に草野は大人びて見えた。刀の扱いに長けていて、後輩たちをよく見ていて、『影』と対峙する恐れなど――死地へ向かう恐れなどかけらも持っていないように見えた。
そうありたかった、だけだったのだろう。
後輩たちの手本であれるように。かれらが道に迷わないように。
大人でいようとした、だけだったのだろう。
――卒業したら一緒の隊で戦えるといいなぁ。
後輩に向けた言葉。あれは心細さの裏返しだったにちがいない。
いつか自分も『影』との戦いで命を落とすとわかっていながら。
そのときが、すこしでも先であるようにと願っていた――。
「……貴様が何者で、なにをたくらんでいようが関係ない」
凪は立ちあがる。そして、ふたたび刀に手をかけた。
「草野殿の仇――討たせてもらう」
彼は距離を詰めて刀を振るった。迷うことなく。
夜の街にもうひとつの月光が生まれ、『影』を両断する。
「ツ……キ……」
「黙れ」



