理解できないというふうにまさは声を荒らげる。
「なんで、なんで――乙華さまは手紙を読んだらきっと泣きわめくって、」
「…………」
「はっ、ばかだね。帰ってこない亭主に操立ててなんになるのさ。ずっと放っておかれてるくせに。あんたに女としての価値なんてないんだよ。これだって乙華さまがその睦ってひとに書かせただけなんだからね」
「……そうでしたか」
「あんたを大事にする男なんてどこにもいないのさ。このバケモノ女!」
顔を引きつらせて笑うとまさは部屋を逃げるようにでていった。手紙は置き去りにされた。
額から血が流れおちてきて、花野は手の甲でそれをぬぐう。
そして手と口を使って睦からの手紙を引きさいた。
そうしながら花野は心のなかで妹の乙華に話しかける。
私は二度》騙されるつもりはない、と。
しょせんかりそめの夫婦だ。すべてまさが吐きすてたとおり。
彼がここに帰ってくることもなければ花野をたすけてくれることもないだろう。
それでも充分だった。彼の妻としての心を守ることができたのなら。
たとえ、自分はどうなっても――
「いやな月ですね……」
詰め所の扉から顔をだして青木がつぶやく。
相楽が正式に除隊となって数週間。彼とふたりだけの体制にも慣れてきたころだった。
「……そうだな」
今宵は赤く錆びたような満月。
経験上、凪は知っている。こんな夜には必ず死者がでると。
『百戦錬磨の隊士がやられるんです、満月の晩は。月岡サンに云っても釈迦に説法でしょうが……ま、気をつけてください』
神薗とは定期的に会って話をしているが、最後に会った日に彼は夕暮れの空を見上げてこう云った。
満月の夜に『影』の力がつよまることはだれも知っている。わざわざ口にするまでもないことを云われ、凪は『わかっている』とだけ応えた。気遣いを突きかえすように。
「月岡隊長……、」
「なんだ」
青木は詰め所のなかにいる凪を振りかえる。
彼なりに凪の様子がおかしいことには気づいている。それを相楽が除隊されたからだと思っているらしく、「俺がふたりぶん働きますから」とこの夜も云ってきた。一人前になってから云えと凪はいつもと同じように返した。
煙草を吸おうと思ったが切らしていた。ブリキの煙草入れを胸ポケットにもどしたとき、手が花野のお守りにふれる。
そのやわらかな感触に胸がざわつき、凪はぎこちなく指をポケットから引きぬくと唇を噛んだ。
なんということもない。ただ、もとにもどっただけ。最初から自分のものではなかったものが離れていっただけ。
なのになぜここまで動揺しているのか。
「……未熟だな、俺は」
「はい?」
「なんでもない」
彼女と会った時間をつなぎあわせても一日に満たないだろう。それだけしかともに過ごしていない『妻』に心を乱されるなど。
机の引きだしにしまいこんだ帯留めの猫のことを想う。
あれを彼女に返す日は――きっと、もうこない。
さびしいのかさえわからずそう思ったとき、「影ダ」と千里眼が宣言した。凪のまえに置いてあった地図の一点が赤く燃える。
あわてて青木がもどってくると場所を確認した。
ある武家屋敷のまえだ。青木を連れていけば十五分、凪が単独でいけば十分で到着する。凪は立ちあがった。
「おまえはここに残れ」
「はい、いますぐ――えっ?」
青木は目を丸くする。凪は出口に向かいながら、「今夜は満月だ。『影』の出現がいつもより多い。次の『影』にそなえて、おまえはここにいろ」と命じた。
「わ、わかりました。でも隊長、ひとりで大丈夫ですか」
「だれに云っている」
「そうですが、そうじゃなくて、――」
無視して凪は外にでた。赤い満月が照らす道を走りだす。
『そういえばむかしは"影"といえば光のことを示していたそうですね』
鼠一匹いない通りを駆けぬけながら、なぜか神薗の声を思いだす。
『めぐり逢ひへ見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影――なんて歌もある。実体がないものやなにかの反射を影とするのはわかりますよ。ですが、なんで光そのものをむかしのひとは影と呼んでいたのでしょう』
坂道を速度を落とさずにのぼる。
ひとりならだれかを気にかけることもない。ブーツのつま先が小石を蹴り飛ばし、乾いた音を立てる。
『僕はこう思うんです。むかしは影と光はひとつだったんじゃないかなって。それがあるとき分かれて別々になって、影は暗いものだけをさすことになった。月岡サンはそう思ったことはありませんか』
『どうでもいい。『影』がどうであろうと斬ることに変わりはない』
「なんで、なんで――乙華さまは手紙を読んだらきっと泣きわめくって、」
「…………」
「はっ、ばかだね。帰ってこない亭主に操立ててなんになるのさ。ずっと放っておかれてるくせに。あんたに女としての価値なんてないんだよ。これだって乙華さまがその睦ってひとに書かせただけなんだからね」
「……そうでしたか」
「あんたを大事にする男なんてどこにもいないのさ。このバケモノ女!」
顔を引きつらせて笑うとまさは部屋を逃げるようにでていった。手紙は置き去りにされた。
額から血が流れおちてきて、花野は手の甲でそれをぬぐう。
そして手と口を使って睦からの手紙を引きさいた。
そうしながら花野は心のなかで妹の乙華に話しかける。
私は二度》騙されるつもりはない、と。
しょせんかりそめの夫婦だ。すべてまさが吐きすてたとおり。
彼がここに帰ってくることもなければ花野をたすけてくれることもないだろう。
それでも充分だった。彼の妻としての心を守ることができたのなら。
たとえ、自分はどうなっても――
「いやな月ですね……」
詰め所の扉から顔をだして青木がつぶやく。
相楽が正式に除隊となって数週間。彼とふたりだけの体制にも慣れてきたころだった。
「……そうだな」
今宵は赤く錆びたような満月。
経験上、凪は知っている。こんな夜には必ず死者がでると。
『百戦錬磨の隊士がやられるんです、満月の晩は。月岡サンに云っても釈迦に説法でしょうが……ま、気をつけてください』
神薗とは定期的に会って話をしているが、最後に会った日に彼は夕暮れの空を見上げてこう云った。
満月の夜に『影』の力がつよまることはだれも知っている。わざわざ口にするまでもないことを云われ、凪は『わかっている』とだけ応えた。気遣いを突きかえすように。
「月岡隊長……、」
「なんだ」
青木は詰め所のなかにいる凪を振りかえる。
彼なりに凪の様子がおかしいことには気づいている。それを相楽が除隊されたからだと思っているらしく、「俺がふたりぶん働きますから」とこの夜も云ってきた。一人前になってから云えと凪はいつもと同じように返した。
煙草を吸おうと思ったが切らしていた。ブリキの煙草入れを胸ポケットにもどしたとき、手が花野のお守りにふれる。
そのやわらかな感触に胸がざわつき、凪はぎこちなく指をポケットから引きぬくと唇を噛んだ。
なんということもない。ただ、もとにもどっただけ。最初から自分のものではなかったものが離れていっただけ。
なのになぜここまで動揺しているのか。
「……未熟だな、俺は」
「はい?」
「なんでもない」
彼女と会った時間をつなぎあわせても一日に満たないだろう。それだけしかともに過ごしていない『妻』に心を乱されるなど。
机の引きだしにしまいこんだ帯留めの猫のことを想う。
あれを彼女に返す日は――きっと、もうこない。
さびしいのかさえわからずそう思ったとき、「影ダ」と千里眼が宣言した。凪のまえに置いてあった地図の一点が赤く燃える。
あわてて青木がもどってくると場所を確認した。
ある武家屋敷のまえだ。青木を連れていけば十五分、凪が単独でいけば十分で到着する。凪は立ちあがった。
「おまえはここに残れ」
「はい、いますぐ――えっ?」
青木は目を丸くする。凪は出口に向かいながら、「今夜は満月だ。『影』の出現がいつもより多い。次の『影』にそなえて、おまえはここにいろ」と命じた。
「わ、わかりました。でも隊長、ひとりで大丈夫ですか」
「だれに云っている」
「そうですが、そうじゃなくて、――」
無視して凪は外にでた。赤い満月が照らす道を走りだす。
『そういえばむかしは"影"といえば光のことを示していたそうですね』
鼠一匹いない通りを駆けぬけながら、なぜか神薗の声を思いだす。
『めぐり逢ひへ見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月影――なんて歌もある。実体がないものやなにかの反射を影とするのはわかりますよ。ですが、なんで光そのものをむかしのひとは影と呼んでいたのでしょう』
坂道を速度を落とさずにのぼる。
ひとりならだれかを気にかけることもない。ブーツのつま先が小石を蹴り飛ばし、乾いた音を立てる。
『僕はこう思うんです。むかしは影と光はひとつだったんじゃないかなって。それがあるとき分かれて別々になって、影は暗いものだけをさすことになった。月岡サンはそう思ったことはありませんか』
『どうでもいい。『影』がどうであろうと斬ることに変わりはない』



