ぞっとしない話を聞きながら飯を食べおえ、神薗と別れた凪は隊舎の自分の部屋へともどってきた。そして彼から渡された手紙を思いだす。
机の上のペーパーナイフで封筒を開け、中の手紙を取りだす。
そこには目を疑うようなことが書かれていた。
あなたのもとへはもう通いません
あなたの顔を見るのに疲れました
正直云って、あなたにお弁当を届けるのは負担でした
なのでそちらもどうか家には帰ってきてくださらぬようお願いします
読みまちがいかと思ったが、何度読んでもそう書かれている。
ここにはもう通わない。凪の顔を見るのに疲れた。弁当を届けるのは面倒だった。もう、家には帰ってこないでほしい。
「…………」
信じられず絶句する。
これはいつだした手紙なのか。便せんに日付はない。消印も読みとれない。
凪と最後に会ったあとか。あのあとで……彼女はこの手紙を書いたのか。
『あなたは、とてもやさしいかたですから』
彼女はそう云ってくれた。凪がけして見せようとしなかった本心を見抜いてみせた。
彼女を愛することはできない。それでも――彼女を守るために戦いつづけることに変わりはないと、そう思っていたのに。
三ヵ月で離縁する。そう決めたのは凪のほうだった。
なのに手紙を持つ手が震えている。
なぜだ。上官命令で娶った妻など邪魔なだけ。
もう会いにこないなんて喜ばしいことなのに。
――メスでしょうか、オスでしょうか
――きっと、凪さまのおっしゃるとおりです
帯留めの猫を買ってやったとき、ほんとうは笑おうとしていた彼女の顔を思いだす。
自分が彼女の笑顔を取りもどすことはできなかった。氷のように凍てついた彼女の瞳が溶けるところを見ることも。
――これにはあなたとの思い出があるから。だから……新しいものを買えばいいという話ではないのです
凪は机の引きだしを開けた。陶器製の猫はこのまえと変わらない様子でそこにいる。
まだこの猫を直していないのに。いいのか、と凪は心のなかで彼女に問いかける。花野はなにも云わない。
かりそめでもあなたの妻だと云った。あの言葉はなんだったのか。
けっきょくはかりそめの妻でしかない。ほんとうに心が通いあうことはない。そう、彼女は伝えたかったのか。
自分らしくないことをしている。そう思いながらも凪は気がつくと部屋をでて電話室へと向かっていた。自宅――そう呼べるほど帰っていないことをこのとき思いしった――へと繋がせる。
受話器を取ったのは女中だった。はい、と花野のものではないその声に落胆する自分がいる。
だが、かえって好都合かもしれなかった。花野は自分の本心を隠してしまうかもしれないし、霧灯家からついてきた女中なら花野のことをよく知っているだろう。
「彼女のことだが――」と受話器をにぎりなおして凪は云う。
「このところ、変わった様子などはないだろうか」
『花野さまですか? あっ……ああ、いえ、なにもないですよ』
なにか思いあたることがあるようだった。女中はなかなか口を割らなかったが、しつこく問いかけるとやがて云う。
『花野さまですが……どうもこの頃、親しい殿方がいらっしゃるようで……』
「……そうか」
『あ――私が告げ口したって云っちゃいやですよ。私はいつも止めて、』
最後まで聞かずに凪は受話器を置いた。そうか、と胸の内でくりかえす。
「……これでいい」
花野は自分以外の男と会っている。
それは望ましいことのはずだった。ほかに男がいるならもう凪がわずらわされることはない。これからもひとりきりで戦うことができる。
なにより、その男は凪よりも彼女のことを幸せにしてくれるだろう。
これでいい。これでいいと、何度も凪は言葉にしてつぶやいた。自分の胸にナイフで刻みつけるように。
いってらっしゃい。そう云って凪を見送った彼女は、あのときにはもう二度と凪には会わないと決めていたのだろう。手作りのお守りを餞別として渡したときには、もう。
ふと、ずっと手に持っていた手紙と封筒がくしゃくしゃになっていることに気がつく。
凪は手を開くと封筒の裏に書かれた文字を見つめた。
月岡花野。
自分のもとを去っていった、妻の名を。
机の上のペーパーナイフで封筒を開け、中の手紙を取りだす。
そこには目を疑うようなことが書かれていた。
あなたのもとへはもう通いません
あなたの顔を見るのに疲れました
正直云って、あなたにお弁当を届けるのは負担でした
なのでそちらもどうか家には帰ってきてくださらぬようお願いします
読みまちがいかと思ったが、何度読んでもそう書かれている。
ここにはもう通わない。凪の顔を見るのに疲れた。弁当を届けるのは面倒だった。もう、家には帰ってこないでほしい。
「…………」
信じられず絶句する。
これはいつだした手紙なのか。便せんに日付はない。消印も読みとれない。
凪と最後に会ったあとか。あのあとで……彼女はこの手紙を書いたのか。
『あなたは、とてもやさしいかたですから』
彼女はそう云ってくれた。凪がけして見せようとしなかった本心を見抜いてみせた。
彼女を愛することはできない。それでも――彼女を守るために戦いつづけることに変わりはないと、そう思っていたのに。
三ヵ月で離縁する。そう決めたのは凪のほうだった。
なのに手紙を持つ手が震えている。
なぜだ。上官命令で娶った妻など邪魔なだけ。
もう会いにこないなんて喜ばしいことなのに。
――メスでしょうか、オスでしょうか
――きっと、凪さまのおっしゃるとおりです
帯留めの猫を買ってやったとき、ほんとうは笑おうとしていた彼女の顔を思いだす。
自分が彼女の笑顔を取りもどすことはできなかった。氷のように凍てついた彼女の瞳が溶けるところを見ることも。
――これにはあなたとの思い出があるから。だから……新しいものを買えばいいという話ではないのです
凪は机の引きだしを開けた。陶器製の猫はこのまえと変わらない様子でそこにいる。
まだこの猫を直していないのに。いいのか、と凪は心のなかで彼女に問いかける。花野はなにも云わない。
かりそめでもあなたの妻だと云った。あの言葉はなんだったのか。
けっきょくはかりそめの妻でしかない。ほんとうに心が通いあうことはない。そう、彼女は伝えたかったのか。
自分らしくないことをしている。そう思いながらも凪は気がつくと部屋をでて電話室へと向かっていた。自宅――そう呼べるほど帰っていないことをこのとき思いしった――へと繋がせる。
受話器を取ったのは女中だった。はい、と花野のものではないその声に落胆する自分がいる。
だが、かえって好都合かもしれなかった。花野は自分の本心を隠してしまうかもしれないし、霧灯家からついてきた女中なら花野のことをよく知っているだろう。
「彼女のことだが――」と受話器をにぎりなおして凪は云う。
「このところ、変わった様子などはないだろうか」
『花野さまですか? あっ……ああ、いえ、なにもないですよ』
なにか思いあたることがあるようだった。女中はなかなか口を割らなかったが、しつこく問いかけるとやがて云う。
『花野さまですが……どうもこの頃、親しい殿方がいらっしゃるようで……』
「……そうか」
『あ――私が告げ口したって云っちゃいやですよ。私はいつも止めて、』
最後まで聞かずに凪は受話器を置いた。そうか、と胸の内でくりかえす。
「……これでいい」
花野は自分以外の男と会っている。
それは望ましいことのはずだった。ほかに男がいるならもう凪がわずらわされることはない。これからもひとりきりで戦うことができる。
なにより、その男は凪よりも彼女のことを幸せにしてくれるだろう。
これでいい。これでいいと、何度も凪は言葉にしてつぶやいた。自分の胸にナイフで刻みつけるように。
いってらっしゃい。そう云って凪を見送った彼女は、あのときにはもう二度と凪には会わないと決めていたのだろう。手作りのお守りを餞別として渡したときには、もう。
ふと、ずっと手に持っていた手紙と封筒がくしゃくしゃになっていることに気がつく。
凪は手を開くと封筒の裏に書かれた文字を見つめた。
月岡花野。
自分のもとを去っていった、妻の名を。



