【長編版】月影の軍神と愛しの傷嫁~妹にすべてを奪われた少女は冷酷な軍人の最愛となる~

「もうあなたに用はない。あなたも今後のことを考えれば清い体のままのほうがいいだろう。俺の邪魔さえしなければなにをしてもかまわないから、あとは自由にするといい」

 花野はもう一度頭(こうべ)を垂れた。


 この夜、夫婦の床入りはなかった。
 それどころか話が済むなり凪は影祓部隊の詰め所へとでかけていったのである。

 ひとりきりで旅館の離れに取りのこされた花野は、さすがに女中に手伝ってもらうのはばつが悪いと自分で帯を解いた。そして行灯のやわらかい光のなかで、襦袢の内側に赤い血がついていることに気がついてぎょっとする。

 よくよく見るとそれは赤い絵の具でしかなかったが。
 実家からついてきた女中に着せつけられた襦袢、その腰の下あたりを汚しているその偽りの血がどのような意図でつけられたのか――それを察して花野は鳥肌を立たせた。

 寒々しい五月の夜のことだった。


✿❀✿


 新婚初夜にも関わらず詰め所にやってきた凪を見て副隊長の相楽(さがら)は妙な顔をした。今日はお休みだと思ってました、と煙草の火を消して云う。

「なぜだ」
「なぜって。え、今日が式だったんですよね?」

 影祓部隊の人間で呼んだのは上官たち――といっても全員司令部の人間で、凪と肩をならべて出動したことはないが――だけだ。直属の部下である相楽も、辞めていったかつての上官や同輩も呼ばなかった。

 そうだな、と答えて凪は詰め所の床に座る。
 詰め所と云っても特別なにがあるわけではない。道場のような板の間に帝都の地図が置かれ、奥の壁を背に千里眼と呼ばれる頭を頭巾ですっぽり覆った老人があぐらをかいて座っている。それだけの殺風景な建物だ。

「こんな日くらい休みゃあいいのに……」

 相楽は処置なしと云いたげに頭を振る。
 彼は凪より三期下。早々と凪がひきいる第一部隊の副隊長になったのは彼の剣の腕が優れているからでもあるし、人材不足故もある。第一部隊と云っても部下はこの相楽と、上半身裸でなぜか腕立て伏せをしている新人の青木(あおき)だけだ。

 凪は無視しようとしたが、さすがに「二百五十ッ、二百五十一ッ」という彼の掛け声がうるさくて「あれはなんだ」と相楽に問う。

「どうすれば月岡隊長のようになれるか聞かれたので、とりあえず体を鍛えろと答えたらはじまりました。特に害になるものではありませんので放っておいてあります」
「青木、やめろ」
「はっ!」

 汗だくになった青木はすぐに腕立て伏せをやめて立ちあがった。そして「隊長、おはようございます」といがぐり頭を下げる。
 それからいま気がついたというふうに「今夜はご出動でしたか? 相楽副隊長からは新婚初夜のためお休みと聞いていたのですが」と純朴そうな目を丸くした。

 凪は溜め息をつく。
 相楽は新しい煙草に火をつけて、「俺たちだけじゃ不安だから隊長が来てくださったんだよ」とおかしそうに笑う。青木はますます目を丸くした。

「それではいま奥さまは家におひとりですか」
「家ではなく旅館だが。そうなるな」
「いけません、隊長! すぐにおもどりになられてください。そんなことをしては奥さまに愛想をつかされてしまいます」

 こちらとしてはそのほうが好都合だった。下手に好意を持たれるほうがわずらわしい。
「ここは自分にまかせて、さあ」と詰めよる青木を「静かにしろ。副隊長命令だ」と相楽が制する。

「おまえがさっさと一人前になれば隊長殿も奥方としっぽり過ごすことができるのだ。はやく一対一で影を倒せるようになるんだな」
「ど……努力いたします」
「青木、汗を拭いて服を着ろ。見苦しい」と凪は口をはさむ。

「努力いたします!」
「努力じゃない。いますぐやれ」

 はっ、と勇ましく青木はシャツと上着を着て慎重に帯刀する。上背はあるのに見事に制服に着られていて、「まだまだ青いですねえ」と相楽が凪に向けて笑いかけてきた。

 その笑顔は暗に云っていた。
 今回の新人は何ヵ月もつでしょうね、と。

 凪は応えず、退屈しのぎに自分も煙草を吸おうとする。そのとき奥にいた老人がぼそりとつぶやいた。

「――"影"ダ」

 相楽は一瞬で表情を引きしめ、青木はいかにも緊張したように息を呑み、凪はなんでもなさそうにポケットからだしかけたブリキの煙草入れをしまう。

 行くぞ、と青木に声をかけた。




 夜。それは人間の時間ではない。"影"と呼ばれる怪異のための時間だ。

 "影"は霧のように自然発生する。それを察知するのが千里眼と呼ばれる能力を持つものたちで、力に長けたものはひとりで帝都全体を視ることができたという。

 かれらの指示を受け、刀を帯びて現地に向かうのが影祓部隊だ。