負担だったわけがない。疲れたわけがない。むしろ、一日に一度凪の顔を見れることが嬉しかった。
……そうだ。私はあのひとに会えることを楽しみにしていたんだ、と震える手で万年筆をにぎりながら花野は思う。
つめたいだけじゃない。ほんとうはやさしいあのひとに会えることが……
「それじゃ手紙をだしてきます。あなたは部屋からでないでくださいね。今日だけじゃなくてこれからもです」
「…………」
「破ったら……」とまさは意地悪く笑い、「さっきみたいに水をかけるだけじゃ済みませんよ。いいですね」
まさは部屋をでていく。
花野は椅子に座ったまま彼女が階段を降りて家をでていく音を聞き、机の上に静かに顔を伏せた。
凪が直せないか方法を探してみると預かっていった帯留めの猫のことを思いだす。
――あのひとはあの猫をどうしただろう。直せるひとが見つかっただろうか。それとも――もう、忘れてしまった?
「……凪、さま」
きっとあれはひとときの夢だったんだ。現実じゃない。こんなふうに思いだしても虚しいだけ。
わかっているのにあの日のやりとりは花野の頭と心から離れてくれなくて。また、目に涙がにじんだ。
それから数日後。
帯留めの猫は隊舎の凪の自室の机の引きだしにずっとしまわれていた。
忘れているわけではないが、目下、それどころではないというのが実情だった。花野が隊舎に来なくなったこともふくめ。
「月岡隊長。俺はもうでられます。今夜の出動を許可してください」
「できない」
「お願いします。こんな傷なんともありません。お願いします」
相楽が負傷してから一週間。
退院してからずっと彼は凪に出動許可を訴えていた。顔の左半分を包帯に覆われ、左腕を布で吊られながら。
『影』による怪我で彼が命を失うことはなかったが、左の眼球と左腕の筋に傷がついている。……溶かされている、というべきか。
『影』から受けた傷は自然治癒するものではない。片目と片腕を失った影祓部隊が使いものになるわけないと柴枝総隊長は云い、凪から除隊を告げるよう命じた。凪は承諾した。
――おまえには除隊処分が下った。荷物をまとめておけ。
そう宣告してから三日間、相楽はその処分を認めず抗いつづけている。隊舎の自分の部屋に立てこもるようにして。
凪は寝台に座った相楽を無感動に見下ろす。
怪我をした部下に除隊を知らせるのはこれが初めてではないが、ここまでかたくなな相手は相楽が初めてだった。
「何度云えばわかる。おまえは負傷により除隊となったんだ。出動を許可するもなにもない」
「隊長。隊長ならわかるでしょう。影祓部隊を辞めたら俺にはなにも残らないんだ。お願いします。足はひっぱりません。俺を、戦わせてください」
「……くどい」
わかっているのか、と凪は云う。
「いまのおまえが夜の帝都にでたところで邪魔なだけだ。今度はおまえをかばってだれかが負傷するかもしれない。命を落とすことだってありうる。その可能性を考えたか」
「そんなことしません。俺は戦えます。だから、隊長」
「いい加減にしろ!」
同じことばかりくりかえす相楽にいらだって凪は叫んだ。
負傷による除隊を受けいれられないのはわかる。だが、おまえのせいで他人が死んだらどう責任を取るつもりだ、と。
「だ……だから、俺はいままでどおり戦えるって――」
凪は手を振りあげた。いまの相楽の死角になる右手を。
果たして相楽は凪の手のひらが左の頬に軽くぶつけられるまでなにも反応しなかった。
これでわかっただろう、と凪は云う。
「おまえの影祓部隊としての寿命は終わった。あとは刀を持つことなく、平穏に暮らせ」
「…………」
「週末までに荷物をまとめておけ。最後の隊長命令だ。……わかったな」
相楽はがくりとうなだれる。
凪は相楽の部屋をでて、廊下にいた青木に「なにをしている」と鋭く言葉を投げつける。
「い……いえ。相楽副隊長の様子を、と」
怪我をしてから相楽は凪以外が部屋に入ることを許さなかった。彼は慰めも励ましもすべて拒絶していた。
相楽が怪我をした夜以来、青木は凪と視線を合わせようとしない。明らかに凪のことを恐れている。
だが、どうでもいいことだった。
凪は無言で部屋のまえから立ちさろうとする。そこを、「あの」と青木に呼びとめられた。
「隊長……。せめて、相楽副隊長を励ましてください」
「除隊となった男を副隊長を呼ぶな」
「あんな……あんな言い方あんまりです……!」
凪の言葉は扉越しに聞こえていたらしい。彼の目に涙が浮かんでいる。
「せめて、せめて傷は治るって。また戦えるようになると、そう云ってさしあげてください」
「なんのためだ」
「――え」
「そんなうそをついてどうなる。俺は『影』で死んだ者も二度と刀を持てなくなった者もたくさん見てきた。その俺が云うんだ。あいつはもう二度と戦えないと。そんなくだらないうそをついてどうなる」
「……でも。でも、せめて」
「希望を持たせるほうが残酷だとは思わないのか」
青木は黙りこむ。
凪が再び歩きだしたとき、背中に声がかけられた。
「……月岡隊長は、負傷により除隊する部下を見送るのはこれで何人目ですか」
十三人目だ。
「そんなもの数えていられるか」
乱暴に答え、凪は階段を降りる。
青木が悔しそうにすすり泣く声が聞こえてきたが、足を止めることはなかった。
そして。
この夜、相楽は行方をくらませた。
……そうだ。私はあのひとに会えることを楽しみにしていたんだ、と震える手で万年筆をにぎりながら花野は思う。
つめたいだけじゃない。ほんとうはやさしいあのひとに会えることが……
「それじゃ手紙をだしてきます。あなたは部屋からでないでくださいね。今日だけじゃなくてこれからもです」
「…………」
「破ったら……」とまさは意地悪く笑い、「さっきみたいに水をかけるだけじゃ済みませんよ。いいですね」
まさは部屋をでていく。
花野は椅子に座ったまま彼女が階段を降りて家をでていく音を聞き、机の上に静かに顔を伏せた。
凪が直せないか方法を探してみると預かっていった帯留めの猫のことを思いだす。
――あのひとはあの猫をどうしただろう。直せるひとが見つかっただろうか。それとも――もう、忘れてしまった?
「……凪、さま」
きっとあれはひとときの夢だったんだ。現実じゃない。こんなふうに思いだしても虚しいだけ。
わかっているのにあの日のやりとりは花野の頭と心から離れてくれなくて。また、目に涙がにじんだ。
それから数日後。
帯留めの猫は隊舎の凪の自室の机の引きだしにずっとしまわれていた。
忘れているわけではないが、目下、それどころではないというのが実情だった。花野が隊舎に来なくなったこともふくめ。
「月岡隊長。俺はもうでられます。今夜の出動を許可してください」
「できない」
「お願いします。こんな傷なんともありません。お願いします」
相楽が負傷してから一週間。
退院してからずっと彼は凪に出動許可を訴えていた。顔の左半分を包帯に覆われ、左腕を布で吊られながら。
『影』による怪我で彼が命を失うことはなかったが、左の眼球と左腕の筋に傷がついている。……溶かされている、というべきか。
『影』から受けた傷は自然治癒するものではない。片目と片腕を失った影祓部隊が使いものになるわけないと柴枝総隊長は云い、凪から除隊を告げるよう命じた。凪は承諾した。
――おまえには除隊処分が下った。荷物をまとめておけ。
そう宣告してから三日間、相楽はその処分を認めず抗いつづけている。隊舎の自分の部屋に立てこもるようにして。
凪は寝台に座った相楽を無感動に見下ろす。
怪我をした部下に除隊を知らせるのはこれが初めてではないが、ここまでかたくなな相手は相楽が初めてだった。
「何度云えばわかる。おまえは負傷により除隊となったんだ。出動を許可するもなにもない」
「隊長。隊長ならわかるでしょう。影祓部隊を辞めたら俺にはなにも残らないんだ。お願いします。足はひっぱりません。俺を、戦わせてください」
「……くどい」
わかっているのか、と凪は云う。
「いまのおまえが夜の帝都にでたところで邪魔なだけだ。今度はおまえをかばってだれかが負傷するかもしれない。命を落とすことだってありうる。その可能性を考えたか」
「そんなことしません。俺は戦えます。だから、隊長」
「いい加減にしろ!」
同じことばかりくりかえす相楽にいらだって凪は叫んだ。
負傷による除隊を受けいれられないのはわかる。だが、おまえのせいで他人が死んだらどう責任を取るつもりだ、と。
「だ……だから、俺はいままでどおり戦えるって――」
凪は手を振りあげた。いまの相楽の死角になる右手を。
果たして相楽は凪の手のひらが左の頬に軽くぶつけられるまでなにも反応しなかった。
これでわかっただろう、と凪は云う。
「おまえの影祓部隊としての寿命は終わった。あとは刀を持つことなく、平穏に暮らせ」
「…………」
「週末までに荷物をまとめておけ。最後の隊長命令だ。……わかったな」
相楽はがくりとうなだれる。
凪は相楽の部屋をでて、廊下にいた青木に「なにをしている」と鋭く言葉を投げつける。
「い……いえ。相楽副隊長の様子を、と」
怪我をしてから相楽は凪以外が部屋に入ることを許さなかった。彼は慰めも励ましもすべて拒絶していた。
相楽が怪我をした夜以来、青木は凪と視線を合わせようとしない。明らかに凪のことを恐れている。
だが、どうでもいいことだった。
凪は無言で部屋のまえから立ちさろうとする。そこを、「あの」と青木に呼びとめられた。
「隊長……。せめて、相楽副隊長を励ましてください」
「除隊となった男を副隊長を呼ぶな」
「あんな……あんな言い方あんまりです……!」
凪の言葉は扉越しに聞こえていたらしい。彼の目に涙が浮かんでいる。
「せめて、せめて傷は治るって。また戦えるようになると、そう云ってさしあげてください」
「なんのためだ」
「――え」
「そんなうそをついてどうなる。俺は『影』で死んだ者も二度と刀を持てなくなった者もたくさん見てきた。その俺が云うんだ。あいつはもう二度と戦えないと。そんなくだらないうそをついてどうなる」
「……でも。でも、せめて」
「希望を持たせるほうが残酷だとは思わないのか」
青木は黙りこむ。
凪が再び歩きだしたとき、背中に声がかけられた。
「……月岡隊長は、負傷により除隊する部下を見送るのはこれで何人目ですか」
十三人目だ。
「そんなもの数えていられるか」
乱暴に答え、凪は階段を降りる。
青木が悔しそうにすすり泣く声が聞こえてきたが、足を止めることはなかった。
そして。
この夜、相楽は行方をくらませた。



