【完結/長編版】月影の軍神と愛しの傷嫁~双子の妹にすべて奪われたのに冷酷な旦那さまのもとで妹より愛されてしまいました~

 ――でも、それならせめて、口に入るものをお作りしたい。

 すべて味見したから味は大丈夫だ。よかった、と花野はうなずいてから欠伸をした。
 起きたのは市場が開く時間にあわせてだけれど、寝たのは午前一時過ぎだ。灯りをしぼった洋燈《らんぷ》の下でずっと料理教本を読んで必要なところは帳面に書きとっていたから。

 凪たちの役に立ちたい。それだけの想いで。

 すこしだけ仮眠を取ろうか迷ったけれど、命をかけて毎夜戦っている凪たちのことを思えばそれは甘えているような気がした。井戸水で顔を洗ってこよう、と花野は弁当箱をそのままにして庭へと向かう。

 氷のようにつめたい水で顔を洗うと眠気がふっとんだ。手ぬぐいで顔をぬぐい、花野はキッチンへと引きかえす。

 調理台のまえにまさが立っていてぎょっとした。

「――なにを」
「ああ、花野さま。ちょっと聞いてくださいよ」
「なにを……して」

 床には弁当箱がひっくりかえっていた。卵焼きや煮物が無残に床に散らばっている。
 いえね、とまさは困ったように眉尻を下げた。

「さっき野良猫が飛びこんできて弁当箱をひっくりかえしちまったんですよ。あわてて追いはらったんですがあとの祭りってやつで」
「……うそ」
「せっかく作ったのにこれじゃ食べられませんねえ」

 花野はめまいを覚えてしゃがみこんだ。
 やっと成功したのに。やっと、自分の手料理を食べてもらえると思ったのに。

 ふん、とまさは鼻で笑う。それから花野のまえにかがみこむと、突然肩をつかんで顔を近づけてきた。

「あんたはそうやっていい子のふりをしてご当主さまやまえの女中たちに取りいってたんだろう? 同じ手で夫にも媚びる気だったんだろうが、私がいるかぎりそうはさせないよ。覚えておきな。あんたみたいな性根のひん曲がった女を好きになる人間なんていやしないって。あんたは一生ひとりぼっちで生きてくんだよ!」

 まさは花野を突きとばす。外の地面に花野は尻餅をつき、あ、と思った瞬間、手桶に貯めていた水を頭からかけられた。

 手桶を放り、全身ずぶ濡れになった花野を見て「ああ、いい気味」とまさは歯を見せた。

「まるで幽霊絵の女みたいですよ」

 笑い声をあげながらまさはキッチンをでていく。
 ぼたぼたとつめたい水が髪の毛から滴った。襟からも水が忍びこんで肌を濡らし、氷室にいるように体がどんどんひえていく。

 勢いよく床に叩きつけられたのだろう、ふっくらと焼きあげた卵焼きはつぶれていた。白くつややかだった米は光を失い、散らばった煮物の汁は板間に染みこんでいく。

 きっと今日も凪さまではなく顔も知らない部下のかたの胃に収まる。でも――もしかしたら。

 ――凪さまが食べて、『おいしい』って云ってくれるかもって……

「……っ、」

 目に涙がさしぐんだことに気づき、花野はうろたえた。
 泣くことなんてもうずっとなかった。心がこんなに痛くなることだって。なのに。

「……ごめん、なさい」

 子供のように花野は膝をかかえる。
 初夏とはいえまだ早朝の風はつめたく、その風に濡れた体をさらにひやされてがたがた震えながら。

「役立たずで……ごめんなさい」

 ぽたり、と髪から滴が落ちる。ぽたり、ぽたり、と。

 花野の目から涙がこぼれることはなかったが。
 その滴は、彼女のかなしみに共鳴するように何度も地面の上で音を立てた。


 それから財布はまさに取りあげられてしまった。
 もう弁当を買えないように。俥に乗れないように。

「急に来なくなったらなにがあったのかと不思議に思うかもしれませんからねえ」とまさは花野に二階の寝室で手紙を書くよう命じた。やっと濡れた髪が乾きはじめたときだった。

 そのまえにまさは懐から取りだした紙を見ていた。内容は花野からは見えなかったが、おそらくだれかから来た手紙を読みかえしていたのだろうとあとから考えた。

 ――だれから来た手紙?

 それはわかりきっていた。妹の乙華だ。
 もう家をでたのだから放っておいてくれればいいものを、まさから花野がなにをしているか報告を受けたらしい彼女は監視の目を厳しくすることにしたようだ。

 ――私は一生ひとりぼっちで生きていく。あれはまさの言葉じゃなくて乙華が手紙に書いた言葉だろう。
 ――乙華は、私がだれにも愛されずひとりで死んでいくことを願っている……。

「病気とかだと義務的に見舞いに来るかもしれません。そうですねえ……あなたの顔を見るのに疲れたとでもしておきなさい。あ、ちがったことを書いたらお仕置きですよ」
「……はい」
「『正直に云ってあなたにお弁当を届けるのは負担でした』。こうも書いてくださいね」
「…………」
「わかりましたか?」
「……、はい……」