それは隣の男も同様だった。凪はつめたい瞳で来賓たちを見るともなしに見ている。
退屈だ。横顔にそう書かれている気がして、花野は視線を白いテーブルクロスへともどした。皿の上の料理にはろくに手をつけていない。舌に載せれば美味であろうそれらも、食さないかぎりは美しいだけの作りものだ。
このあと花野は藍色のドレスに着替えることになっている。
藍色は影祓部隊の制服と同じ色だ。白から藍へ――この夫のために染まることを表す。レースをふんだんに使ったウェディングドレスとは対照的に飾りを最小限にした細身のビロードのドレスは花野の白い肌を引きたて、天香桂花《てんこうけいか》、という言葉はだれのためにあるか教えるだろう。
けれどそれも来賓たちのつまらない噂の種になるのかと思うと、なるほど、退屈なことだった。
✿❀✿
こうして花野は月岡凪のもとに嫁いだ。
凪は帝国軍の隊舎で暮らしている。結婚を機に上官が夫婦のために借家を手配してくれる予定だったが、手違いがあって引きわたしまでに二週間ほどかかることになり、それまで旅館で過ごしてほしいと云われていた。
用意された旅館は江戸時代初期からつづく老舗で、瓦葺の門が厳めしくも美しい。そのまえで深々と頭を下げて、披露宴を終えた新婚夫婦を出迎えた女将たちはふたりの間に冷え冷えとした空気が漂っていることに気づいて一瞬だけ怪訝な顔をした。すぐに笑顔で包みかくし、ふたりを離れの部屋へと案内する。
しばらくここに泊まるにあたって必要になる荷物は先に運びこませていた。「着替えてまいります」と花野が声をかけると、凪はどうでもよさそうに「ああ」とうなずいた。花野は実家からついてきた女中を連れて奥の間へゆく。
ふたりが顔を合わせるのは今日が初めてだった。これは霧灯家と帝国軍が縁を結びたいだけの政略結婚で、ふたりの意思は関係ない。
だから彼が私に関心をしめさないのも当然である――とだれかに云われるまでもなく花野は理屈を飲みこみ、花嫁に必要以上の声をかけるどころかろくに視線を交わそうともしない『夫』の態度に傷つくこともなかった。
むしろ、彼女はほっとしていた。
『夫』となるひとが冷淡でも。すぐに新居で暮らせなくとも。あの家にいるよりはずっとましだったから。
もうあの暗闇に怯えなくていい、と花野は藍色のドレスを脱がされて正絹《しょうけん》の白い着物を着つけられながら思う。
日中でも薄暗い蔵のなかは日が落ちると真っ暗になった。一寸先も見えない闇で、夏はこもった熱に苦しんで冬は凍りつくような寒さに震える。だれもたすけてはくれないなかで。
たとえ政略結婚の駒として扱われたのであっても、あそこから逃げだせただけで花野には充分だった。
霧灯家の恥。穀潰し。血の繋がった母と妹にそう罵られることもない。
花野の体には実家でされた折檻のあとが痛々しく残っていたが、それを見ても女中は眉ひとつ動かさなかった。無言で帯を締め、花野が命じるまえに引きさがる。
――凪さまにどんな態度を取られてもいい。
――もう二度と、あの家に帰らなくてすむのなら……。
ひとりになった花野はそっと息を吐きだした。
けれどその夜――
彼女が感じた安堵は、期日があったことを知らされる。
✿❀✿
初夜。
蔵のなかに閉じこめられた少女でも作法くらいは教えられていた。
敷かれた布団のまえで三つ指をつく花野に、影祓部隊の制服に着替えていた凪は云う。
「俺があなたを愛することはない」
花野は顔をあげる。凪は披露宴のときと同じ冷めたまなざしをしていた。
「知っているだろうが、影祓部隊とはいつ死んでもおかしくない危険な職だ。そんななかで愛する相手を持ってしまったら太刀が鈍る。上官の顔を立てるためこの縁談を受けたが……はっきり云う。あなたは俺にとって足手まといだ」
初夜に妻に向けて放たれる、あまりにも冷酷な言葉。
けれど花野は野に咲く花が揺れるようにたおやかにうなずいた。
「かまいません。愛されないことには慣れております」
彼女は傷つくことさえなかった。初めての夜に夫から邪魔もの扱いされても。
傷つくには、彼女はもう、充分傷つきすぎていたから。
凪はぴくりと眉をあげた。だが、それにはなにも云わずに「期日を決めよう」と云った。
「今日から三ヵ月。それだけ過ごせば最低限の面目は立つし、それしかつづかなかったのなら俺のもとにこんなくだらない縁談は二度とこなくなる。来たとしても『夫婦生活などもうまっぴらだ、どうせだれとくっついても上手くいくはずがない』と断る口実ができる」
「…………」
「三ヵ月後に俺たちは離縁する。それでかまわないな」
「……はい」
退屈だ。横顔にそう書かれている気がして、花野は視線を白いテーブルクロスへともどした。皿の上の料理にはろくに手をつけていない。舌に載せれば美味であろうそれらも、食さないかぎりは美しいだけの作りものだ。
このあと花野は藍色のドレスに着替えることになっている。
藍色は影祓部隊の制服と同じ色だ。白から藍へ――この夫のために染まることを表す。レースをふんだんに使ったウェディングドレスとは対照的に飾りを最小限にした細身のビロードのドレスは花野の白い肌を引きたて、天香桂花《てんこうけいか》、という言葉はだれのためにあるか教えるだろう。
けれどそれも来賓たちのつまらない噂の種になるのかと思うと、なるほど、退屈なことだった。
✿❀✿
こうして花野は月岡凪のもとに嫁いだ。
凪は帝国軍の隊舎で暮らしている。結婚を機に上官が夫婦のために借家を手配してくれる予定だったが、手違いがあって引きわたしまでに二週間ほどかかることになり、それまで旅館で過ごしてほしいと云われていた。
用意された旅館は江戸時代初期からつづく老舗で、瓦葺の門が厳めしくも美しい。そのまえで深々と頭を下げて、披露宴を終えた新婚夫婦を出迎えた女将たちはふたりの間に冷え冷えとした空気が漂っていることに気づいて一瞬だけ怪訝な顔をした。すぐに笑顔で包みかくし、ふたりを離れの部屋へと案内する。
しばらくここに泊まるにあたって必要になる荷物は先に運びこませていた。「着替えてまいります」と花野が声をかけると、凪はどうでもよさそうに「ああ」とうなずいた。花野は実家からついてきた女中を連れて奥の間へゆく。
ふたりが顔を合わせるのは今日が初めてだった。これは霧灯家と帝国軍が縁を結びたいだけの政略結婚で、ふたりの意思は関係ない。
だから彼が私に関心をしめさないのも当然である――とだれかに云われるまでもなく花野は理屈を飲みこみ、花嫁に必要以上の声をかけるどころかろくに視線を交わそうともしない『夫』の態度に傷つくこともなかった。
むしろ、彼女はほっとしていた。
『夫』となるひとが冷淡でも。すぐに新居で暮らせなくとも。あの家にいるよりはずっとましだったから。
もうあの暗闇に怯えなくていい、と花野は藍色のドレスを脱がされて正絹《しょうけん》の白い着物を着つけられながら思う。
日中でも薄暗い蔵のなかは日が落ちると真っ暗になった。一寸先も見えない闇で、夏はこもった熱に苦しんで冬は凍りつくような寒さに震える。だれもたすけてはくれないなかで。
たとえ政略結婚の駒として扱われたのであっても、あそこから逃げだせただけで花野には充分だった。
霧灯家の恥。穀潰し。血の繋がった母と妹にそう罵られることもない。
花野の体には実家でされた折檻のあとが痛々しく残っていたが、それを見ても女中は眉ひとつ動かさなかった。無言で帯を締め、花野が命じるまえに引きさがる。
――凪さまにどんな態度を取られてもいい。
――もう二度と、あの家に帰らなくてすむのなら……。
ひとりになった花野はそっと息を吐きだした。
けれどその夜――
彼女が感じた安堵は、期日があったことを知らされる。
✿❀✿
初夜。
蔵のなかに閉じこめられた少女でも作法くらいは教えられていた。
敷かれた布団のまえで三つ指をつく花野に、影祓部隊の制服に着替えていた凪は云う。
「俺があなたを愛することはない」
花野は顔をあげる。凪は披露宴のときと同じ冷めたまなざしをしていた。
「知っているだろうが、影祓部隊とはいつ死んでもおかしくない危険な職だ。そんななかで愛する相手を持ってしまったら太刀が鈍る。上官の顔を立てるためこの縁談を受けたが……はっきり云う。あなたは俺にとって足手まといだ」
初夜に妻に向けて放たれる、あまりにも冷酷な言葉。
けれど花野は野に咲く花が揺れるようにたおやかにうなずいた。
「かまいません。愛されないことには慣れております」
彼女は傷つくことさえなかった。初めての夜に夫から邪魔もの扱いされても。
傷つくには、彼女はもう、充分傷つきすぎていたから。
凪はぴくりと眉をあげた。だが、それにはなにも云わずに「期日を決めよう」と云った。
「今日から三ヵ月。それだけ過ごせば最低限の面目は立つし、それしかつづかなかったのなら俺のもとにこんなくだらない縁談は二度とこなくなる。来たとしても『夫婦生活などもうまっぴらだ、どうせだれとくっついても上手くいくはずがない』と断る口実ができる」
「…………」
「三ヵ月後に俺たちは離縁する。それでかまわないな」
「……はい」



