これは霧灯家をゆるがす大事件だった。
ただの次期当主ではない。いままでに例を見ないほどつよい霊力を持つ灯使と謳われていた花野である。
花野は三日ほど高熱で眠っていたが、その間、霧灯家は上を下への大騒ぎだった。各地からまとめ役がきて何度も話しあいがおこなわれ、母は半狂乱で花野の名前を叫びつづけた。――乙華が慰めるまで。
眠っていたときの花野の記憶は曖昧だ。たくさんのひとが様子を見にきたような気がするし、すべて夢だったような気もする。でも、ひとつだけたしかな記憶は。
『なんだ、死んじゃえばよかったのに』
花野の枕元に座った乙華が無表情でそう云ったことだった。
彼女の瞳は底知れない闇のように真っ暗だった。
『まあ、もうおねえさまにかんざしを受けつぐ資格はないからいいけど――』
母が常に身につけている水晶のかんざし。それを花野が受けつぐことはもうない。
乙華は手に入れた次期当主の座を誇るように微笑んだ。
そのとき花野は知った。
私がもらった幸せを乙華にわけあたえることはできない。私が不幸にならないかぎり、乙華は幸せになれないのだと。
――だからきっと、彼女は……
霊力をなくした花野は霧灯家での立場をなくした。
『それでも……』と、いつか祖母が病床から花野に向けて云ってくれたことがある。
祖母だけはいつでも花野の味方だった。霊力を失っても。霧灯家じゅうが彼女を無能と見下しても。
『たとえ霊力がなかろうが、あんたはおばあさまの大事な孫だからね。忘れるんじゃないよ』
そう云って祖母はしわだらけの手で花野の手を探り、見た目からは想像できないほどつよい力でにぎりしめてきた。
『愛しとるよ、花野。おばあさまはもう長くないけど、同じようにあんたを愛してくれるひとが現れるよう天国で祈ってるからね……』
その言葉は花野の心の支えになった。
乙華の大切な西洋人形を壊したという身に覚えのない罪で女中たちに背中を縄で打たれたときも、年末年始で忙しく何日も蔵に放置されて飢えのあまり気が遠くなったときも。
いつか。
いつかだれかがここからたすけだしてくれる、と。
ある日、凪は相楽が云っていた花野の過去についての疑問を思いだした。
余計な世話と云われればそのとおりだ。だが、彼女の過去を知ることで霊力を取りもどす手がかりが得られるかもしれない。
そして霊力を取りもどせば花野が役立たずの長女などと云われることはなくなる。そう思い、凪は帝都のはずれにある『影』の研究所を訪れた。
来訪の意はあらかじめ葉書で伝えてあった。どうも、と神薗《かみぞの》は不健康そうな青い顔で凪を出迎える。
彼の白衣の左袖には腕が通っていない。彼も二年まえまでは影祓部隊にいたが、左腕を負傷し、戦闘が困難になったため研究所に移った。
『月岡サン、どうせ死ぬならなるべく多く肉体を残して死んでくださいね。アナタの常人離れした能力は解剖しがいがあります』が異動の際の彼の挨拶だった。
彼の研究室はノートや本で雑然としている。海外の文献と思しき本も机に積まれていた。
「どうぞ」と彼は椅子を凪にゆずり、自分は本棚のまえの踏み台に座る。
『影』についてわかっていることはすくない。『影』は影祓部隊が祓わなくても朝がくると消えてしまうし、そうでなくとも気まぐれに姿を消す。なので生け捕りにして研究というわけにいかないのだ。
それでも『影』は夜がくるたびにすべてが新しく生まれているのではないこともわかっている。以前祓いきれなかった『影』と同一の個体と思しきものと遭遇したという報告もあるからだ。
凪の場合、自分たちの管轄に現れた『影』はすべて例外なく祓っているので同一個体というものを見たことはないが。
「月岡花野……旧姓・霧灯花野について調べてほしいというお話でしたね」
「そうだ」
「えー、まず国内に似たような例は見つかりませんでした。灯使の女性が霊力を『影』に喰われたケースですね。まあ霊力がある女性は丁重に扱われますし基本的に結界のなかで暮らしますんで当然です。――でも、英吉利に似たような話が一件ありました」
神薗は「それです」と机の上にある一通の手紙をあごでしめす。凪が取りあげると、英語でつらつらとなにか書かれている。
「あえて乱暴に分類しますが、うちでいう灯使が向こうでいう『白き魔女』です。ふつうの魔女とはちがって悪いことはせず、『亡霊』から人々を守るために力を貸してくれるとか。
ただの次期当主ではない。いままでに例を見ないほどつよい霊力を持つ灯使と謳われていた花野である。
花野は三日ほど高熱で眠っていたが、その間、霧灯家は上を下への大騒ぎだった。各地からまとめ役がきて何度も話しあいがおこなわれ、母は半狂乱で花野の名前を叫びつづけた。――乙華が慰めるまで。
眠っていたときの花野の記憶は曖昧だ。たくさんのひとが様子を見にきたような気がするし、すべて夢だったような気もする。でも、ひとつだけたしかな記憶は。
『なんだ、死んじゃえばよかったのに』
花野の枕元に座った乙華が無表情でそう云ったことだった。
彼女の瞳は底知れない闇のように真っ暗だった。
『まあ、もうおねえさまにかんざしを受けつぐ資格はないからいいけど――』
母が常に身につけている水晶のかんざし。それを花野が受けつぐことはもうない。
乙華は手に入れた次期当主の座を誇るように微笑んだ。
そのとき花野は知った。
私がもらった幸せを乙華にわけあたえることはできない。私が不幸にならないかぎり、乙華は幸せになれないのだと。
――だからきっと、彼女は……
霊力をなくした花野は霧灯家での立場をなくした。
『それでも……』と、いつか祖母が病床から花野に向けて云ってくれたことがある。
祖母だけはいつでも花野の味方だった。霊力を失っても。霧灯家じゅうが彼女を無能と見下しても。
『たとえ霊力がなかろうが、あんたはおばあさまの大事な孫だからね。忘れるんじゃないよ』
そう云って祖母はしわだらけの手で花野の手を探り、見た目からは想像できないほどつよい力でにぎりしめてきた。
『愛しとるよ、花野。おばあさまはもう長くないけど、同じようにあんたを愛してくれるひとが現れるよう天国で祈ってるからね……』
その言葉は花野の心の支えになった。
乙華の大切な西洋人形を壊したという身に覚えのない罪で女中たちに背中を縄で打たれたときも、年末年始で忙しく何日も蔵に放置されて飢えのあまり気が遠くなったときも。
いつか。
いつかだれかがここからたすけだしてくれる、と。
ある日、凪は相楽が云っていた花野の過去についての疑問を思いだした。
余計な世話と云われればそのとおりだ。だが、彼女の過去を知ることで霊力を取りもどす手がかりが得られるかもしれない。
そして霊力を取りもどせば花野が役立たずの長女などと云われることはなくなる。そう思い、凪は帝都のはずれにある『影』の研究所を訪れた。
来訪の意はあらかじめ葉書で伝えてあった。どうも、と神薗《かみぞの》は不健康そうな青い顔で凪を出迎える。
彼の白衣の左袖には腕が通っていない。彼も二年まえまでは影祓部隊にいたが、左腕を負傷し、戦闘が困難になったため研究所に移った。
『月岡サン、どうせ死ぬならなるべく多く肉体を残して死んでくださいね。アナタの常人離れした能力は解剖しがいがあります』が異動の際の彼の挨拶だった。
彼の研究室はノートや本で雑然としている。海外の文献と思しき本も机に積まれていた。
「どうぞ」と彼は椅子を凪にゆずり、自分は本棚のまえの踏み台に座る。
『影』についてわかっていることはすくない。『影』は影祓部隊が祓わなくても朝がくると消えてしまうし、そうでなくとも気まぐれに姿を消す。なので生け捕りにして研究というわけにいかないのだ。
それでも『影』は夜がくるたびにすべてが新しく生まれているのではないこともわかっている。以前祓いきれなかった『影』と同一の個体と思しきものと遭遇したという報告もあるからだ。
凪の場合、自分たちの管轄に現れた『影』はすべて例外なく祓っているので同一個体というものを見たことはないが。
「月岡花野……旧姓・霧灯花野について調べてほしいというお話でしたね」
「そうだ」
「えー、まず国内に似たような例は見つかりませんでした。灯使の女性が霊力を『影』に喰われたケースですね。まあ霊力がある女性は丁重に扱われますし基本的に結界のなかで暮らしますんで当然です。――でも、英吉利に似たような話が一件ありました」
神薗は「それです」と机の上にある一通の手紙をあごでしめす。凪が取りあげると、英語でつらつらとなにか書かれている。
「あえて乱暴に分類しますが、うちでいう灯使が向こうでいう『白き魔女』です。ふつうの魔女とはちがって悪いことはせず、『亡霊』から人々を守るために力を貸してくれるとか。



