「新居の用意ができたぞ、月岡」
「……さようですか」
おまえに縁談がきているぞ、と云ったときも柴枝はこの布袋さまのような笑顔だった。
丸っこい顔に制服を押しあげている脂肪の塊。かつて影祓部隊最強と恐れられ、『鬼神』と呼ばれた男の面影はどこにもない。
これも家庭を持ったせいだ、と凪は彼の左手の薬指に埋もれている銀色の指輪を苦々しく見やる。
足を負傷した柴枝はかいがいしく看病をしてくれた看護師に惚れこんで妻にした。
それからだ。彼は会うたびに肥え、士官学校の生徒が見たら泣きだすほど厳めしかった顔はなんとも縁起がよくなってしまった。凪としては遺憾である。
「せっかくの新婚なのに旅館暮らしをさせてすまなかったな。必要な家具はもう運びこませてあるから今日からでも住める。で、どうだ。嫁さんは」
「どう、と云われますと」
「うまくいっているのか?」
いっているわけがない。だれも告げ口はしていないようだが、凪は花野のもとに帰ってすらいないのだ。
「ほどほどです」と曖昧に答えると「そうかそうか」と柴枝は笑う。
「おまえは不器用な男だからな、すこし心配していたんだ。ほどほどなら充分だ。――だが、霧灯家との縁談。この意味がわからないほど、おまえも子供ではあるまい」
にこやかなまま、柴枝の目の奥がわずかに光った。凪は黙ってあごを引く。
「影祓部隊は一方的に霧灯家から施しを受ける関係だ。向こうが刀に霊力を授けることをやめます、と云われたらこっちは地面に頭をこすりつけてどうかそれだけはと頼みこむしかない。だから役立たずの長女を引きとってやることにしたんだ」
「…………」
「長女に霊力がもどる兆しは?」
「……ない、と思われますが」
「そうか。それならそれでいい。霊力がなくなったのは後天的なものだ、子供は霊力を宿している可能性がある。おまえと霧灯家の長女とのあいだに生まれた子供がかつての長女のように強大な霊力を宿していたら、我々と霧灯家との均衡は一気に崩れるぞ」
あからさまな道具扱いに凪の口のなかに苦いものが広がる。
いや、自分だけならべつにいい。影祓部隊に所属した時点でまともな生活はあきらめている。だが、花野は……。
「子供を作れ、月岡。女だ。女を産ませろ。そして我々を見下している霧灯家に一泡吹かしてやるんだ」
自分が拳をにぎっていることに気づき、凪は自らを諫める。
道具扱いなんてよくあることだ。これくらいで憤るな。表面上は従順にしてあとは聞きながせばいい。
「霊力をなくした霧灯家の女などそれくらいしか価値がないからな」
だれがなにを云っていようとどうでもいいことだと――。
そのとき、ポケットのなかの帯留めの猫が存在を主張した気がした。
たかが帯留めひとつ。なのに、花野はあんなにもさびしそうに――
「……お言葉ですが」
云うな。冷静で計算高い自分がそう云っていた。
ここで総隊長と軋轢を起こしても自分の立場が悪くなるだけだ。適当に返事をしていればいいんだ。
だが、凪はその声に応じることができなかった。
にらんでいると云ってもいいほど鋭いまなざしで柴枝を見据える。
「私はそのために彼女を妻として迎えたわけではありません」
柴枝は鼻で笑う。
「ならなんのためだ。相手は霧灯家の穀潰しだぞ。ほかになんの役に立つ」
「役に立つか立たないかなどどうでもいい。彼女を道具扱いしたことは撤回していただきたく思います」
「……口がまわるようになったな」
柴枝は机に立てかけてある杖を手に取る。
「撤回するのは貴様だ。私に楯突いたことを詫びれば、いまの発言は聞かなかったことにしてやる」
「撤回も謝罪もするつもりはありません。彼女は道具ではない。私はただの事実を申しあげております」
柴枝が杖で机を殴った。布袋のような笑みは消え、かつての鬼神が現れている。
その眼力は並の人間なら立っていることすら困難だろう。だが、凪は眉ひとつ動かさない。
柱時計が時を刻む音だけが響く部屋でふたりはにらみあった。一秒。二秒。やがて、うんざりしたように柴枝のほうが視線を外す。
「いつからおまえは私に逆らうようになった」
「……申しわけございません」
「もういい。はやくでていけ。これ以上おまえの顔を見ていると杖で殴りたくなる」
「失礼いたします」と凪は最敬礼でその場を辞した。
影祓部隊になって五年。柴枝に逆らったのは初めてのことだった。
新居の用意ができた。凪と公園を歩いた翌日、いつもどおりお弁当を渡したときに凪からそう聞かされた花野が思ったのは『これからどうしよう』ということだった。
「どうかしたのか」
「いえ、……」
「……さようですか」
おまえに縁談がきているぞ、と云ったときも柴枝はこの布袋さまのような笑顔だった。
丸っこい顔に制服を押しあげている脂肪の塊。かつて影祓部隊最強と恐れられ、『鬼神』と呼ばれた男の面影はどこにもない。
これも家庭を持ったせいだ、と凪は彼の左手の薬指に埋もれている銀色の指輪を苦々しく見やる。
足を負傷した柴枝はかいがいしく看病をしてくれた看護師に惚れこんで妻にした。
それからだ。彼は会うたびに肥え、士官学校の生徒が見たら泣きだすほど厳めしかった顔はなんとも縁起がよくなってしまった。凪としては遺憾である。
「せっかくの新婚なのに旅館暮らしをさせてすまなかったな。必要な家具はもう運びこませてあるから今日からでも住める。で、どうだ。嫁さんは」
「どう、と云われますと」
「うまくいっているのか?」
いっているわけがない。だれも告げ口はしていないようだが、凪は花野のもとに帰ってすらいないのだ。
「ほどほどです」と曖昧に答えると「そうかそうか」と柴枝は笑う。
「おまえは不器用な男だからな、すこし心配していたんだ。ほどほどなら充分だ。――だが、霧灯家との縁談。この意味がわからないほど、おまえも子供ではあるまい」
にこやかなまま、柴枝の目の奥がわずかに光った。凪は黙ってあごを引く。
「影祓部隊は一方的に霧灯家から施しを受ける関係だ。向こうが刀に霊力を授けることをやめます、と云われたらこっちは地面に頭をこすりつけてどうかそれだけはと頼みこむしかない。だから役立たずの長女を引きとってやることにしたんだ」
「…………」
「長女に霊力がもどる兆しは?」
「……ない、と思われますが」
「そうか。それならそれでいい。霊力がなくなったのは後天的なものだ、子供は霊力を宿している可能性がある。おまえと霧灯家の長女とのあいだに生まれた子供がかつての長女のように強大な霊力を宿していたら、我々と霧灯家との均衡は一気に崩れるぞ」
あからさまな道具扱いに凪の口のなかに苦いものが広がる。
いや、自分だけならべつにいい。影祓部隊に所属した時点でまともな生活はあきらめている。だが、花野は……。
「子供を作れ、月岡。女だ。女を産ませろ。そして我々を見下している霧灯家に一泡吹かしてやるんだ」
自分が拳をにぎっていることに気づき、凪は自らを諫める。
道具扱いなんてよくあることだ。これくらいで憤るな。表面上は従順にしてあとは聞きながせばいい。
「霊力をなくした霧灯家の女などそれくらいしか価値がないからな」
だれがなにを云っていようとどうでもいいことだと――。
そのとき、ポケットのなかの帯留めの猫が存在を主張した気がした。
たかが帯留めひとつ。なのに、花野はあんなにもさびしそうに――
「……お言葉ですが」
云うな。冷静で計算高い自分がそう云っていた。
ここで総隊長と軋轢を起こしても自分の立場が悪くなるだけだ。適当に返事をしていればいいんだ。
だが、凪はその声に応じることができなかった。
にらんでいると云ってもいいほど鋭いまなざしで柴枝を見据える。
「私はそのために彼女を妻として迎えたわけではありません」
柴枝は鼻で笑う。
「ならなんのためだ。相手は霧灯家の穀潰しだぞ。ほかになんの役に立つ」
「役に立つか立たないかなどどうでもいい。彼女を道具扱いしたことは撤回していただきたく思います」
「……口がまわるようになったな」
柴枝は机に立てかけてある杖を手に取る。
「撤回するのは貴様だ。私に楯突いたことを詫びれば、いまの発言は聞かなかったことにしてやる」
「撤回も謝罪もするつもりはありません。彼女は道具ではない。私はただの事実を申しあげております」
柴枝が杖で机を殴った。布袋のような笑みは消え、かつての鬼神が現れている。
その眼力は並の人間なら立っていることすら困難だろう。だが、凪は眉ひとつ動かさない。
柱時計が時を刻む音だけが響く部屋でふたりはにらみあった。一秒。二秒。やがて、うんざりしたように柴枝のほうが視線を外す。
「いつからおまえは私に逆らうようになった」
「……申しわけございません」
「もういい。はやくでていけ。これ以上おまえの顔を見ていると杖で殴りたくなる」
「失礼いたします」と凪は最敬礼でその場を辞した。
影祓部隊になって五年。柴枝に逆らったのは初めてのことだった。
新居の用意ができた。凪と公園を歩いた翌日、いつもどおりお弁当を渡したときに凪からそう聞かされた花野が思ったのは『これからどうしよう』ということだった。
「どうかしたのか」
「いえ、……」



