その青みがかかった瞳は本心から驚いていた。
「え……?」
「たしかに俺とあなたはいっときの夫婦でしかない。だが……そのときまで俺はあなたの夫だ。俺にはあなたをたすける義務がある。なにか、力になれることがあるなら云ってほしい」
花野の瞳が揺れる。噴水の水が落ちる水面のように。
彼女は戸惑ったように視線をさまよわせて、自分の両手を体のまえでにぎりあわせた。
「……それでは、怒ってください。凪さま」
「は?」
「私は……あなたにとても申しわけないことをしました」
意味がわからなくて凪が黙っていると、花野は着物の袂に手を差しいれてハンカチの包みを取りだした。
それをほどいてでてきたのは――
「……!」
無残に耳が欠け、胴体にひびが入ったあの猫の帯留めだった。
まだ買ってやって一週間ほどしか経っていない。なのに壊れてしまったのかと凪は驚く。
申しわけございません、と花野は頭を下げた。
「私の不注意で凪さまからいただいたものに傷をつけてしまいました。せっかく買っていただいたのに。なんとお詫びすればいいのか……」
「……見せてみろ」
花野から帯留めを受けとり、凪は傷の具合を検分する。
すこし力を入れたら胴体のひびからまっぷたつに割れてしまいそうだ。これではもう役に立たないだろう。
「落としたのか?」と尋ねたとき花野の肩が小さく揺れた。目をあわせず、はい、と彼女は応える。
「そうか。だが、壊れてしまったものは仕方ない。金なら渡すからまた好きなものを買えばいい」
「そう、では」
「……どうした?」
上ずった声で云われて凪は怪訝な顔をした。
花野が沈んでいたのは新しい帯留めを壊してしまったから。それなら新しいものを買えばいいだけだと思ったのだが。
「そうではない……のです」
手折られる寸前の花のように儚げな声で彼女がつぶやく。
「それは……まったく同じものはもう買えないだろうが。だが、似たようなものは探せばどこかにあるだろう。それではいけないのか」
「…………」
「黙っていてはわからない。考えていることがあるなら教えてほしい」
士官学校時代、凪の目の届かないところで失敗をして貝になっていた後輩の口を開かせようとなだめすかしたことを思いだした。もう二度とこんなことはしないはずだったのに。
「……この猫がいいのです」
凪はとぼけた顔の猫を見る。
「あなたの気持ちはわかる。だが、たかが帯留めひとつで……」
「ただの帯留めではありません。……凪さまが私に買ってくださった、この世にたったひとつしかない帯留めです」
「…………」
「これにはあなたとの思い出があるから。だから……新しいものを買えばいいという話ではないのです」
部下がうるさいから仕方なく買ってやった、だけのものだった。
それなのに花野はこう云って、まるで幼い頃からずっと大事にしていたものが傷ついたかのようにつらそうな顔をしている。「だが、……」と凪は口を開いたきりなにも云えなくなった。
いずれ他人にもどるとわかっている男からもらったものなんて、役に立たなくなったら捨ててしまえばいい。本人が新しいものを買えばいいと云ってるのだから気にすることなんてなにもないのに。
どうして、彼女は――。
「……わかった」
手のひらの猫を見つめながら凪は云った。花野がぴくりと顔をあげる。
「俺のほうで直せる方法がないか調べてみる。それでいいか」
「あ、……」
花野はわずかに目を見開き、それから「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。凪が戸惑うくらい、深く。
「これは俺が預かる。かまわないな」
「はい。……よろしくお願いします、凪さま」
顔をあげた彼女はあの表情をした。笑いたいはずなのに笑顔の作り方を忘れてしまったときの――あの表情を。
凪は帯留めを制服のポケットへと入れる。
笑顔を忘れてしまった彼女と、他人を遠ざけるために笑うことをやめた自分。
そうなった理由はちがえど、周りから見たら自分たちはきっと似たもの同士なのだろうと思った。
花野と別れて隊舎にもどると「月岡隊長、ちょうどよかったです」と青木が駆けよってきた。先程体よく追いはらわれたことには気がついていないようだ。
「どうした?」
「柴枝総監がお呼びです。すぐに総隊長室へ来てくれ、と」
「わかった」
すでに制服を身につけているから着替える必要はない。その足で凪は帝国軍本部へと向かう。
前回の呼びだしは霧灯家との縁談についてだった。さて今回は、と思いながら影祓部隊総隊長室の分厚い扉をノックすると「入れ」としわがれた声が返ってくる。凪は真鍮のドアノブをにぎった。
満面の笑みに出迎えられて内心辟易した。
「え……?」
「たしかに俺とあなたはいっときの夫婦でしかない。だが……そのときまで俺はあなたの夫だ。俺にはあなたをたすける義務がある。なにか、力になれることがあるなら云ってほしい」
花野の瞳が揺れる。噴水の水が落ちる水面のように。
彼女は戸惑ったように視線をさまよわせて、自分の両手を体のまえでにぎりあわせた。
「……それでは、怒ってください。凪さま」
「は?」
「私は……あなたにとても申しわけないことをしました」
意味がわからなくて凪が黙っていると、花野は着物の袂に手を差しいれてハンカチの包みを取りだした。
それをほどいてでてきたのは――
「……!」
無残に耳が欠け、胴体にひびが入ったあの猫の帯留めだった。
まだ買ってやって一週間ほどしか経っていない。なのに壊れてしまったのかと凪は驚く。
申しわけございません、と花野は頭を下げた。
「私の不注意で凪さまからいただいたものに傷をつけてしまいました。せっかく買っていただいたのに。なんとお詫びすればいいのか……」
「……見せてみろ」
花野から帯留めを受けとり、凪は傷の具合を検分する。
すこし力を入れたら胴体のひびからまっぷたつに割れてしまいそうだ。これではもう役に立たないだろう。
「落としたのか?」と尋ねたとき花野の肩が小さく揺れた。目をあわせず、はい、と彼女は応える。
「そうか。だが、壊れてしまったものは仕方ない。金なら渡すからまた好きなものを買えばいい」
「そう、では」
「……どうした?」
上ずった声で云われて凪は怪訝な顔をした。
花野が沈んでいたのは新しい帯留めを壊してしまったから。それなら新しいものを買えばいいだけだと思ったのだが。
「そうではない……のです」
手折られる寸前の花のように儚げな声で彼女がつぶやく。
「それは……まったく同じものはもう買えないだろうが。だが、似たようなものは探せばどこかにあるだろう。それではいけないのか」
「…………」
「黙っていてはわからない。考えていることがあるなら教えてほしい」
士官学校時代、凪の目の届かないところで失敗をして貝になっていた後輩の口を開かせようとなだめすかしたことを思いだした。もう二度とこんなことはしないはずだったのに。
「……この猫がいいのです」
凪はとぼけた顔の猫を見る。
「あなたの気持ちはわかる。だが、たかが帯留めひとつで……」
「ただの帯留めではありません。……凪さまが私に買ってくださった、この世にたったひとつしかない帯留めです」
「…………」
「これにはあなたとの思い出があるから。だから……新しいものを買えばいいという話ではないのです」
部下がうるさいから仕方なく買ってやった、だけのものだった。
それなのに花野はこう云って、まるで幼い頃からずっと大事にしていたものが傷ついたかのようにつらそうな顔をしている。「だが、……」と凪は口を開いたきりなにも云えなくなった。
いずれ他人にもどるとわかっている男からもらったものなんて、役に立たなくなったら捨ててしまえばいい。本人が新しいものを買えばいいと云ってるのだから気にすることなんてなにもないのに。
どうして、彼女は――。
「……わかった」
手のひらの猫を見つめながら凪は云った。花野がぴくりと顔をあげる。
「俺のほうで直せる方法がないか調べてみる。それでいいか」
「あ、……」
花野はわずかに目を見開き、それから「ありがとうございます」と深々と頭を下げた。凪が戸惑うくらい、深く。
「これは俺が預かる。かまわないな」
「はい。……よろしくお願いします、凪さま」
顔をあげた彼女はあの表情をした。笑いたいはずなのに笑顔の作り方を忘れてしまったときの――あの表情を。
凪は帯留めを制服のポケットへと入れる。
笑顔を忘れてしまった彼女と、他人を遠ざけるために笑うことをやめた自分。
そうなった理由はちがえど、周りから見たら自分たちはきっと似たもの同士なのだろうと思った。
花野と別れて隊舎にもどると「月岡隊長、ちょうどよかったです」と青木が駆けよってきた。先程体よく追いはらわれたことには気がついていないようだ。
「どうした?」
「柴枝総監がお呼びです。すぐに総隊長室へ来てくれ、と」
「わかった」
すでに制服を身につけているから着替える必要はない。その足で凪は帝国軍本部へと向かう。
前回の呼びだしは霧灯家との縁談についてだった。さて今回は、と思いながら影祓部隊総隊長室の分厚い扉をノックすると「入れ」としわがれた声が返ってくる。凪は真鍮のドアノブをにぎった。
満面の笑みに出迎えられて内心辟易した。



