それからというものの、花野は毎日旅館に作らせた弁当を隊舎まで持ってきた。
夫に差しいれにきた妻の顔とはとても思えない。どこか、自分を責めるような表情で。
隊舎のまえで凪は花野から空き箱と交換で新しい弁当を受けとる。そして、彼女に関わるまいと思っているのに「なにかあったのか」と尋ねてしまっていた。
「――え?」
「なんとなく、だが。このまえから沈んでいるように見える」
花野は驚いたように瞬きをする。
変なことを云ってしまった。後悔したが、「……そのようなことはございません」と云われて尋ねたことを重ねて悔やんだ。
花野のその顔は。
とても、そんなことないようには見えなかったから。
凪は苦虫を噛みつぶしたような顔をする。
彼女のことなんてほうっておけばいい。子供ではないのだからなにかあっても自分でどうにかできるだろう。わざわざこちらがどうにかしなければならないことは……
……ない、のに。
ここで彼女を帰らせたら自分を許せなくなる気がするのはなぜなのだろう。
「――青木」
「はっ!」
隊舎の玄関扉の向こうに呼びかけると青木が扉を開けてでてくる。
敬礼をしたあとで、苦々しい顔をしている凪ときょとんとしている花野に気がついて「いえこれは」とひとりであわてはじめた。
「けして盗みぎきをしようとしていたわけではありません。ただ、月岡隊長の奥さまのお顔を一目見たく扉に貼りついていただけでして。噂どおりお美しいかたでなによりです」
「俺に体罰の習慣がないことに感謝しろ」
「ありがとうございます!」
もう一度敬礼する青木に凪は中身が入った弁当箱を押しつけた。「これは」と目を丸くする部下に「俺の部屋に置いてこい」と命令する。わかりました、と青木は勢いいさんで隊舎に入っていった。
これで時間が稼げた。
「はやく行くぞ」と凪は花野に云う。
「え、あの、……いまのかたを待たなくてもよろしいのでしょうか」
「あとをつけられないように云いつけたんだ。もどってくるまえに、さあ、はやく」
「はい……」
花野をうながして歩きはじめたが、これといって行きたい場所もない。適当に近くの公園へと足を向ける。
明治時代に開園されたここはかつては軍の練兵場として使われていた。それが市区改正によって西洋風の公園となり、音楽堂や運動場が設立されたほか、喫茶店やレストランも敷地内に出店していまでは都民の憩いの場として広く愛されている。
凪もひとりで考えごとをしたいときにはよくここを訪れていた。だれかを連れてきたのは今日がはじめてだが。
公園の入り口で花野はものめずらしそうにきょろきょろしている。
来るのははじめてかと尋ねるとこくりとうなずいた。
「帝都にこんなに立派なお庭があったのですね」
「適当に歩く。足が疲れたら馬車を呼ぶから云ってくれ」
「……はい」
凪の顔を見て花野がうなずく。
足を動かす速度に気をつけながら――いつもどおり歩いていたら彼女のことをまた置き去りにしてしまう――凪は遊歩道を歩きはじめた。
桜の盛りは終わったが、道の両側にならぶ新緑が目にまぶしいほど青々とした葉を広げている。風には緑の匂いが織りこまれ、初夏の光は木漏れ日となってやわらかく地面に落ちている。
このあと事務作業や訓練をおこなうのがばからしくなるような陽気だ。
そのなかでふたりは黙ったまましばらく歩き、噴水池が見えてきたあたりで凪は花野に「――それで」と声をかけた。
「なにかあったのか」
背後の彼女が立ちどまった。凪は振りかえり、自分よりも頭ひとつぶんは低い位置にある花野の顔を見る。
「……いいえ。なにもございません」
必要がなければ彼女とは目をあわせないようにしていた。気持ちが通じあわないように。彼女の心を読んでしまわないように。
なのに、花野が目を伏せていることがいまはもどかしい。
――かりそめの夫婦なのに?
そう問いかけてくる自分もいた。花野が凪に云えないというのなら、それは当然、凪が三ヵ月後には離縁している夫だからだろう。頼りにしても仕方ないとわかっているからなにも云おうとしないのだ。
そして、そのことは凪としても同じはず。
夏にはこうして話すこともなくなる妻に情けをかけてどうなるというのか。他人と関わりたくないから彼女のことも遠ざけているのに、なぜ自分から近づく真似をするのか。
理由はわからない。
だけど、『なにもないならそれでいい』と答えることはできなかった。
「俺に力になれることはないか」
気がつくと凪はそう云っていた。
他人の力になりたい。何年も封じてきた気持ちなのに。
意表を突かれたように花野が顔を上げる。



