約束を違えた少女は、孤独な当主の花嫁に望まれる

 翌日、私は準備を終えているにもかかわらず、躊躇(ためら)うようにすぐに自室から出られずにいた。

「莉羅様、準備は出来ましたか……?」

 扉の向こうから遠慮がちに美春が尋ねる。先ほどまで美春も部屋の中にいたのだが、最後に私が「少し気持ちを整えてから向かうわ」と述べたので、気を遣って部屋の外に出てくれたのだ。

「も、もうすぐ終わるわ……!」

 身支度自体は美春と共に終わらせているので、あとは永雅の元へ向かうだけなのに、なぜこんなにも怖気付いているのだろう。

(逃げないと決めたじゃないの)

 そう気持ちを奮い立たせ、扉に手をかける。
 その瞬間、部屋の外が騒がしくなり始める。不思議に思っているうちに、扉の向こう側から凛とした声が響いた。

「まだ準備は終わらないのか」
「永雅、なんでっ!」
「買い物に出かける約束だろう。女中から伝え聞いていないのか?」
「き、聞いたわ! もうすぐ準備も終わるから、先に表(おもて)に……!」

 永雅の声がわずかに低くなる。

「幼い頃、待ち合わせはいつも莉羅の方が先に来ていた」

 扉の向こうに……扉を隔(へだ)ててすぐそこに永雅がいる。

「……そんなに俺と出かけるのが嫌か?」
「っ! 違うに決まっているでしょう!」

 気づいたら、そう述べると同時に、扉を勢いよく開けていた。勇気が出ず躊躇(ためら)っていたのに、いとも容易(たやす)く開けてしまっていた。どんな緊張よりも、永雅を不安にさせる方が嫌だった。
 しかし、開けた瞬間に先ほどの緊張が戻ってくる。きっと今の私の顔は見せらせないほど赤く染まっているだろう。

「ち、違うの! 楽しみでなかったのではなくて、むしろ……!」

 自分がなにを口走っているのかも分からない。それに、なぜか永雅はぷいっと顔を背けて歩き出してしまう。私は慌てて、永雅の背中を追いかける。

「永雅、待たせてごめんなさいっ」
「そんなことはどうでもいい」

(さっきまで不服そうにしていたじゃない!)

 あんなに待たされて不服そうだったのに、急に矛盾することを言われて戸惑ってしまう。

「では、何が嫌だったの?」
「……知らん」
「はい!?」

 幼い頃とは全く違い、背丈も伸び、永雅は当主としての威厳(いげん)もある。目の前にいる青年は、今も何を考えているか読めない。それでも、もう知ろうともしないのは……向き合わないのはやめる、と決めた。

「永雅!」

 大きな声で名を呼ぶと、わずかに永雅の歩調が遅くなる。相手の考えていることが分からないなら、せめて私の気持ちくらいは伝えたい。

「私、今日永雅と出かけられることが嬉しいわ」
「…………」
「それと、もう一度ちゃんと伝えさせて。あの時、約束を破ってごめんなさい」

 永雅の足は止まった。そして、こちらを振り返った永雅の瞳は、揺らいでいた。揺らいだ瞳になんとか私を映すように見つめ、何も言わないまま、私の手を引いて屋敷の外へ向かっていく。
 幼い頃は、私が永雅の手を引いていた。だから、私にはあまり永雅の背中を見た記憶がない。

「ふふっ、昔とは逆になってしまったわ」

(手を引かれる側も悪くないわね)

 町に着くと、永雅はすぐに呉服屋(ごふくや)に向かった。妻として何も役立てていないのに、永雅に甘えて良いのか分からず躊躇(ためら)う私に、永雅は「ここまで来て買わないのか」と言い放ち、店主に見立てを頼んだ。しかし、それが永雅の優しさだともう気づいている。

(にしても、不器用よね……)

 分かりにくい優しさ、誤解されやすい冷酷な表情。実際は、優しいところは何一つ変わっていないというのに。それに、心配性なところも。

(私も、最近になってやっと気づけたのだけれど)

 永雅に再会した時には気づけなかった。永雅も私と同じで何もかも変わってしまったのだと思っていた。
 無表情でこちらを見ているくせに、私がゆっくり選んでも、静かに待って急かしもしない。呉服屋を出ても、いつの間にか私の歩幅に合わせて進んでくれる。もう、私はあの頃のように永雅を照らすことは出来ないだろう。それでも、こうして隣を歩くことは出来るから。

(何があっても、もう私から離れたりしないわ)

 あの日、約束を破った私だからこそ。次は貴方が要らないと言う日まで、ずっと隣に立っていよう。
 いつの間にか、そんなことを思えるほど私も強くなったのだろうか。そんな自分の変化を自覚すると同時に、胸の辺りから仄(ほの)かに温かさが広がっていく。

 その時、近くにいる町の人達の噂話が耳に入った。永雅をちらちらと見ながら、住人同士で小声で話している。

『あれが今の月宮家当主だろ?』
『ああ、冷酷で非情だと有名なお方だ。家臣を切り捨てることにも躊躇(ためら)いがないんだと』
『強い異能で当主に抜擢(ばってき)されたそうだが、暴君と呼ぶに相応しいとも聞く』

 隣を歩く永雅の雰囲気が変わった。冷たく、鋭く、変化していく。町の人は永雅の殺気を感じてか、噂話をやめてすぐに離れていく。永雅はまるで威嚇(いかく)するように、さらに表情を厳しくさせた。
 私は周りの住民が離れ、人通りの少ない場所に着いてから足を止めた。

「永雅」
「なんだ」

 険しい表情のまま、こちらを振り返った永雅の顔をじっと見つめる。しかし、どれだけ見つめても、もう怖いとは思えないのだ。

「私ね、ずっと永雅の考えていることが知りたかった。私のことをどう思っているのか知りたかったわ。もちろん今も知りたいけれど……今はそれよりも伝えたいことがあるの」

 ずっと、「約束を破ってごめんなさい」と何度でも謝りたかった。何度謝っても足りない気がして、そればかりが頭を巡ってしまっていた。

「永雅はすごく誤解されやすいわよね。町の人にも、使用人にも、まるで冷たい人だと思われたいみたいに」
「何が言いたい」
「勿体無いって言おうと思っていたのだけど、やめたわ。きっと永雅なりの理由があるのでしょうし」
「別に理由などない。生き抜くためにこうなっただけだ」

 理由がないと言いながら、生き抜くために変わったと当たり前のように言い放つ。

「では、永雅はどれくらい変わったの?」
「昔の俺を知っている莉羅が一番分かっているだろう。昔とは真逆の人間だ」
「そうね、天真爛漫だったのに無表情になったわ。たまに表情が変わっても不機嫌そうな表情ばかり。素直さもどこに置いてきたのかしら?」

 私だからこそ、永雅に伝えられることがある。

「本当に変わったわ。でも、変わったのは私も一緒だから」

 永雅が、わずかに目を細めた。それがまるで助けを求めているように見えてしまう。

「私も変わった。幼い頃とまるで違う。性格は悪くなったし、言葉遣いも荒くなったし、それに穢れ者にもなったわ」
「それは!」

 永雅が、私の言葉を遮るように声を荒げた。自分が何を言われても言い返しもしない永雅が、私が自虐の言葉を述べると声を荒げる。

「永雅も変わった。本当に、強くなった」
「っ!」
「嫌がっているふりをして、いつも絶対に私を守ってくれる」

 なんと言えば、貴方に伝わるの。私にこんな幸せな生活をくれたのも、こんな温かな感情をくれたのも、全部永雅なのに。

「永雅に何度ありがとうと言っても足りないの。でも、ごめんなさいも……何度言っても足りないの」

 声がどれだけ震えても、もう目は逸らさないと決めた。

「永雅、あの日、私に絶望したでしょう……?」

 その瞬間、初めて永雅の吠えるような声を聞いた。

「するわけがないだろう!!!」

 永雅は叫ぶように続けた。

「莉羅はあの頃をどう思っているか知らないが、俺はあの頃を悔やんだことも、莉羅を恨んだこともない!」
「あんなに大切な約束を破ったのよ!?」
「莉羅が理由もなく約束を破る人間でないことくらい知っている!」

 永雅はいつの間にか私を睨んでいた。いや、私を睨んでいるようで、行き場のない感情に憤(いきどお)っている。

「あの頃、確かに俺は莉羅に沢山助けられた。最後の約束を破っただけでそれらが全てなくなるわけじゃない」
「それでも!」
「莉羅が理由もなく約束を破らないことを知っている、と言っただろう。何か事情があるのだろうと思っていた」

 永雅は悔しそうに唇を噛み締めた。

「莉羅の状況を知ったのは、当主になってからだ。しかし、その後、すぐに助けに行かなかったのだから、謝るなら俺の方だ」
「そんなはずないでしょう!?」
「いや、俺は当主としての地位を確立させることを優先させた。照井家との婚姻話が上がって、やっと照井家へ向かう決意がついたくらいだ」

 悲しくもないのに、頬に涙が伝っていく。約束とか、過去の後悔とか、色々あるけれど、やっと永雅の本心と向き合えていることに、ただ心が震えるのだ。

「再会した莉羅は、苦しそうで今にも壊れそうだった。莉羅を照井家から連れ出したいと思ったのは、幼少期の恩からだったかもしれない。あの家にいるよりはましだろうと、連れ出すだけで気持ちの整理をつけたつもりだった。だから、贖罪といい、冷たく突き放した」

 あの日を思い出しているのか、永雅は乾いた笑いを浮かべた。

「連れ出した莉羅は、俺を突き放そうとして性悪な本性を明かしたかと思えば、こんな風に変わった自分を恥じているようだった」
「だって……」
「大した性根でもないだろう。それに莉羅は昔から口が悪かった」
「何言ってっ!」
「ほら、すぐに怒る」

 永雅が口元に手を当て、楽しそうに笑う。小さな笑い声だったが、それが嬉しくて、目に焼きつけるように見つめてしまう。

「俺だったら口に出す前に成敗している。莉羅は昔から甘い」
「っ!」
「昔から甘いくせに、楽観的。なんでもどうにかなると思っている」

 永雅が私の髪に触れ、優しく撫でた。

「幼い頃とは違って、この世の辛さを知った莉羅は昔とは違う。確かに変わった。しかし、その変わった莉羅が前を向き、立ち上がる姿も眩しかった」

 髪に触れていた永雅の手が、そのまま頬に触れる。永雅の体温が伝わるように、私の頬から熱が広がっていく。

「今の莉羅も輝いて見えたのだから、仕方ないだろう」

 目の前の瞳が愛おしそうに、私を見つめている。

「この世にはどうにもならないこともある。それでも、もし二人の方がどうにかなるなら……誰かがそばにいた方が無敵なら、昔も今も俺は莉羅を選ぶだろう」
「……そんなの、ずるいわ。二度と離れられなくなるじゃない」
「では、二度と離れなければいい」

 幼い頃のように、永雅がまるで悪戯っ子のように笑う。

「約束を破ったことを悔いるなら、今度は破らなければいい。隣で見ていてやる」

 晴れやかな空が広がる中、目の前には愛おしい旦那様がいる。その幸せを噛み締めて生きていきたい、と強く願った。